第87回 実録エッセー『金返せ!』 カメロー万歳 白洲太郎 月刊ピンドラーマ2023年8月号
時代が進むにつれ、人々の暮らしはより便利に、効率的になっているはずであり、またそうならねばならないが、一見、進歩と思える現象が、場合によってはとてつもない不便を引き起こす場合がままある。ボクが真っ先に思い浮かべるのは、ここ数年で急速にその勢いを増している電子マネーの存在である。
ブラジルではPixと呼ばれる電子決済システムが2020年に登場し、すさまじい勢いで市井の人々にまで広がっているが、我々が生計を立てる田舎町の青空市場にも、その波は押し寄せてきている。
野菜や果物などを売る屋台、肉屋、雑貨屋、服屋、そしてもちろんパステウの屋台にまで、『Pixで払えまっせー』というアピールがされており、もはや人々の生活にとって欠かせない存在になりつつあるようだ。このPix、たしかに便利なのである。基本的には、24時間365日いつでも決済をすることができ、個人間のやり取りでは手数料が一切かからないというのも魅力だ。必要なのは銀行口座とスマートフォンのみで、最近のネットバンクは12歳から口座を持つことができるらしい。つまり日本でいう中学生ぐらいの年齢から、電子マネーの世界に片足を突っ込めるということなのである。
というわけで、まだ小便くさい、ちんちんに毛が生えたばかりのチェリーボーイがクレジットカードなるアイテムを持って参上し、
『2レアルをクレジットで』
などと、のたまう場面もそう珍しいことではなくなったのである。
こういう客がくる度に、
(てめえ、2レアルぽっちも現金がないたぁ、どういう料簡だ)
と、心の中で舌打ちをすることにしているボクであるが、もちろんこれには正当な理由がある。
さきほどのPixにしても、クレジットカードでの決済にしてもいえることなのだが、これらの電子マネー決済にはインターネットの存在が必要不可欠である。インターネットの速度が安定している都会などでは、当たり前のように『スムーズなお取り引き』が可能なのであろうが、インフラが不足している田舎などでは、ネットの速度も情緒不安定。カードマシンのディスプレイには矢印がひたすらぐるぐると回転するアイコンが表示され、運が良ければ5分ほどで決済が完了するが、途中で『失敗』と表示されることも珍しくないのであり、そうなればまた最初からやり直しである。これが現金であれば30秒もかからずに完了することを思うと、最先端であるはずの電子マネー決済が、逆に不便に感じられてならない。たったひとりの客の会計に数分もの時間を取られてしまっては、景気の良いときのフェイラはさばき切れぬ。そういう意味ではやはり、現金での取り引きが理想といえるのである。
しらす商店では現金での売上が一番多いが、それを除けばPixよりもクレジットカードの方がよく利用される。カードでの決済では次のようなトラブルがあった。
青空市場に現れた2人組のガールズ。ひとりは顔面にピアスをこさえた太っちょで、もうひとりはスタイルが良く、なかなかにエキゾチックな顔立ちをしている。サングラスごしにエキゾチックの方の生足をチェック。素晴らしいとしか言いようのない張りと輝き。カモシカのような、と表現するとややありきたりであるが、動物的な若さに満ちた見事なおみ足である。一方、太っちょの方は『はちきれんばかりの生肉』といった風体で、両方の太ももはピッタリと閉ざされている。股ずれをおこしていないか、つい余計な心配をしてしまったほどであるが、この太っちょと我々の間に電子マネートラブルが発生してしまったのである。
事件はカード決済を終えてから約30分後に起きた。太っちょの方が血相を変えて我々の屋台にやってきて、
『コレとコレとコレとコレ!4回も間違って支払いが実行されてる!今すぐに返金してちょうだい!』
と、スマートフォンの画面を見せながらがなり立ててきたのである。
顔を見合わせるボクとちゃむ。たしかにこの太っちょは14レアルほどの買い物をカードで支払ったが、決済が完了したのは1回のみであり、支払いが4回も実行されていたなどということはあり得ない。我々も自分のスマホやカードマシンで確認したが、やはり支払いが実行されたのは1度きりである。
それでも太っちょが頑なに自らの主張を曲げないのはなぜかというと、実際に彼女の銀行口座からは金が引き落とされているといい、銀行アプリの画面を見せつけてくるのであるが、そのへんの事情をよく解さない我々にとっては、
『そっちがなんと言おうと、こっちの口座には14レアルの支払いしか受け付けていない。もらってない金を返すことはできない』
と、いうしかない。だって実際にそうなのだから。
思い当たることがあるといえば、カード決済が完了する前に、2度ほどエラー表示になってしまったことだが、ひょっとしたらその事と何か関係があるのかもしれぬ。と、必死に伝えようとするのだけれど、ただでさえ訛りのきついジャポネースの宇宙的ポルトガル語である。まともに伝わるはずもなく、ますます激昂した太っちょは、
『金返せ!』
と、「家なき子」の安達祐実ばりに叫ぶのだからたまったものじゃない。道行く人々も(ちょっと何事?)と騒ぎに気づき始めている様子である。このままでは誠実な心で営業してきたしらす商店の評判が地に落ちてしまう。しかし、もらってない金を返金することはできないのであって、じゃあ、どうすれば。ああ、どうしよう。などと戸惑っているうちに太っちょの顔は茹でダコのように真っ赤になり、今にも蒸気が噴き出してきそうな雰囲気である。
万事休すか。と、諦めかけたその時、助け船を出してくれたのが、露天商仲間のファビオの妻、クレイアである。
『銀行アプリの画面を一緒に確認してみよう』
と、太っちょに優しく語りかけたクレイアは、彼女のスマホの銀行アプリの明細ページに目を通すと、すぐに何かを察したらしい。
現地人ならではの流暢なポルトガル語で、お母さんのように愛情たっぷりな説明をするクレイア。そんな彼女の目を、安心しきった表情で見つめる茹でダコ。どうやら誤解は解けた様子だ。ひと通りの話が終わると、憑き物が落ちたような顔をして帰っていった太っちょであったが、一体何が起こっていたのか?
事の真相はただのアプリ画面の見間違い、勘違いというズッコケたもので、社会経験の少ない若者ならではの早とちりだったというわけだ。
このときはクレイアのおかげで解決することができたが、またいつ起こるやもしれぬ『電子マネーストレス』に、ボクもちゃむも戦々恐々である。
とはいえこれから先、時代はますますキャッシュレス化に進んでいくだろう。そうなった場合、近未来の乞食などは、QRコードが描かれた看板を首からぶら下げているかもしれぬ。
なかなかに滑稽な情景であるが、時代の進歩とはそういうものなのかもしれないですね。
それではまた再来月!!
月刊ピンドラーマ2023年8月号表紙
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