
アフガニスタン編 せきらら☆難民レポート 第23回 2021年11月号
#せきらら☆難民レポート
#月刊ピンドラーマ 2021年11月号 HPはこちら
#ピンドラーマ編集部 企画
#おおうらともこ 文と写真
2021年8月15日、タリバンがアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言するニュースが世界中を駆け巡った。このニュースを受けて、突如スポットライトが当たったのが、サンパウロ市に約20人が暮らすアフガニスタン人たち。9月に入って半月までに20以上のインタビューを受けたという、アフマド・ファゼルさん(31歳、カブール生)に話を聞いた(2021年9月17日取材)。
アフマドさん
◆省令止まりのブラジルの人道配慮ビザ
「イスラマバード(パキスタン)のブラジル大使館には、多くのアフガニスタン人がブラジルの人道ビザを求めて扉を叩きましたが、ポルトガル語が読めないことや新型コロナ感染防止を理由に、きちんと応対してくれなかったとのことです」
9月初め、ブラジル政府は混乱するアフガニスタン情勢に配慮し、アフガニスタン人への人道ビザを発給する省令を出した。世界に誇れるブラジルの人道配慮に見えたが、省令はすぐには機能しなかった。
アフマドさんによると、アフガニスタンにブラジル大使館はないため、9月時点でブラジルの人道ビザを申請できるのは、イスラマバード以外に、テヘラン、アンカラ、アブダビ、モスクワという選択肢があった。しかし、陸続きでもイランへの入国にはビザが必要で、他は距離が遠すぎる。イスラマバードが最も希望を見いだせるブラジル大使館だったが、前述の状況に多くの人々が直面した。
「アフガニスタンでは皆毎日おびえて生活しています。私の義妹と甥は20日前、急に消息不明となりました」
と、現地の目を覆いたくなるような動画を見ながら心配するアフマドさん。アフマドさんの弟は、家族呼び寄せでサンパウロに暮らすことができたが、その妻子は2017年から4回、パキスタンのブラジル大使館に家族呼び寄せを申請してきたが、書類も手数料も不備がないにもかかわらず、認められないままだった。そして、8月のタリバンの宣言後、消息が途絶えた。
◆タリバンの兵役を逃れ、トルコの外交官パスポートでブラジルに
アフマドさんは2012年、サンパウロに到着した。17歳から英語教師として働き、それまではカブールで両替商の父親や家族とともに穏やかで幸せな生活を送っていた。それが、18歳になったある日、道を歩いていると突然タリバンの車に連れ込まれ、軍事訓練所に連れて行かれた。
「私の心は打ち砕かれました」
その訓練所では、爆弾や鉄砲の使用法を教えていた。いたたまれなくなったアフマドさんは、その場から逃げ出した。その後、父親がエージェントにお金を払い、トルコの59歳の外交官の男性のパスポートを入手し、顔写真をアフマドさんに取り換え、どこでも良いからアフマドさんをアフガニスタンから出国させるようにと航空券代を渡した。そうして、ドバイを経由して到着したのがグアルーリョス国際空港だった。
入国審査では、59歳と記されているのに19歳のアフマドさんの顔立ちは明らかに不自然で、審査官の表情も一瞬凍りついたが、何も審問されることなくすぐに通過できた。
◆ボタン付け一個50センターボから事業を拡大
無事、ブラジルに入国できたものの、持参金もほとんどなく、ポルトガル語も全くわからない。最初にメスキータがあると知ったブラス地区に向かい、英語で付近の人に助けを求めた。アフガニスタン人を探したが出会えず、ウルドゥー語の通じるパキスタン人に出会った。約1週間、その彼が自宅で寝食をサポートしてくれた。ブラジル到着から1週間後、当時はサンパウロに連邦警察があることを知らず、そのパキスタン人が航空券代を払って、ブラジリアまで飛んで難民申請を行った。そして、1年8か月後、ブラジルの居住権を獲得した。その間、メスキータで祈り涙を流していると、ぽんと肩を叩くムスリムのインド人が現れた。アフマドさんはヒンディー語でもコミュニケーションができたため、その後、約2年間、縫製工場を経営していた彼の店で働くことになった。
「最初、1か月900レアルで雇うと言われましたが、私は、ボタン付け1個50センターボで働きたいと交渉しました。彼は笑い、1日目は10レアルの収入でしたが、仕事に慣れてくると、翌日には15レアル、夜も働きたいと頼み、やがて1日60レアル、その内に1か月6000レアルの収入を得るようになりました」
その2年間は、5人のシェアハウスで1か月寝食込み400レアルで生活し、他はすべて貯金に回した。ポルトガル語を覚えるために、英語教師も行った。2015年にはパキスタンに一時帰国して結婚。2017年までパキスタンで暮らし、そのまま同地で暮らしたいとパキスタン政府に願い出たが、ブラジルで居住権を得ていたことが理由で、パキスタンでの居住は認められなかった。そのためブラジルに戻り、2018年には妻と2人の息子、2019年には両親や弟を呼び寄せた。
その後、ボタン付けの仕事で独立し、さらに仕事を請け負うようになり、従業員2人を雇ってさらに事業を拡大。資金を貯め、パンデミックが始まる前には、アフガニスタン料理店をオープンし、半年前にはハラール(イスラムの教えに則った方法で屠畜・加工された肉)専門の肉屋をオープンした。
アフマドさんの肉屋
◆アフガニスタンが良くなることはない
「20年前には米国、35年前にはタリバン、40年前にはソ連…。世界各国がアフガニスタンをかき回し、私たちは親子3世代以上にわたってアフガニスタンが良い土地になるという希望を失ってきました。米国もタリバンも戦いばかり。アフガニスタンの人々がほしいのは平和だけです」
親戚の多くはイギリスに暮らし、アフガニスタンの義妹と甥の行方は心配なものの、家族も呼び寄せ、堅実にサンパウロで事業を続けるアフマドさん。今、アフマドさんの肉屋はサンパウロのアフガニスタン人のたまり場になっている。目標は、アフガニスタン人のメスキータやNGOを創設することである。
「治安の問題を除いてサンパウロは気に入っています。夢は、アフガニスタン人の子供の学校を作ること。私たちは両親を敬うことをとても重視しますが、ブラジルで育つ子供たちにも一番大切に教えたいです」
今後、ブラジル政府が実際に人道ビザを出し、アフガニスタン人がサンパウロに到着した後は、アフマドさんたちはコミュニティで最初の世話をする心づもりでいる。
アフマドさんの肉屋に集うアフガニスタン人の仲間
〇インフォメーション
・アフマドさんのハラール肉店「Halal Center」
住所: Praça Eduard Rudge, 36 - Pari Tel: 11-98747-9854
・アフマドさんのアフガニスタン料理店
住所: Av. Carlos de Campos, 69 - Pari Tel: 上記と同じ。
行く前に電話確認必要。
おおうらともこ
1979年兵庫県生まれ。
2001年よりサンパウロ在住。
ブラジル民族文化研究センターに所属。
子どもの発達にときどき悩み励まされる生活を送る。
月刊ピンドラーマ2021年11月号
(写真をクリック)