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アルベルト・ディネス(ジャーナリスト、作家、1932-2018) ブラジル版百人一語 岸和田仁 月刊ピンドラーマ2024年8月号

 私が彼を見たのは一度だけである。その時、1940年、私は8歳の少年で、彼は二度目のブラジル訪問で、後に刊行することになるブラジル論『ブラジル、未来の国』に収められることになる印象記の取材で、リオの小さな(ユダヤ)学校を訪ねたのだ。その日は一日中授業なしとなり、他の理由もあって忘れられない日であった。学校中が大騒ぎとなり、有名な写真家ヴォルフ・ライヒ(彼もまた亡命オーストリア人だった)がいつものように大声で怒鳴っていた。有名作家の来訪に興奮している百人もの子供たちを集合写真をとるために整列させるのは簡単ではなかった。作家はというと、そんなドタバタを前にしても、優しいまなざしを子供たちに向けていた。感激したロッテ夫人も優しく微笑んでいた。「ショーレム・アレイヘム・イスラエルブラジル学校」のタバキ校長先生に対し、訪問者の作家は「清潔で騒々しい学校をみていると、自分もまたその中に入って勉強をやり直したくなってしまいました」と語った。命令口調の写真家ライヒの指示に従わなかった私は、この集合写真では、ステファン・ツヴァイクの方をみて、顔を横向けにしている。(中略)
 わずか12年間という時間軸で、二人の自殺がブラジルを揺るがせることになった。1942年2月22日、エレガントな街ペトロポリスにて、妻ロッテと共にステファン・ツヴァイクは有毒物資を入れた鉱泉水を飲んで自殺した。その12年後の1954年8月24日、ジェツリオ・ヴァルガス大統領は32口径のピストルを自らの心臓に向け発砲し自殺した。軍事クーデタによって権力から追放されることを見越して、「自らの死によって歴史に入るため」の行為であった。

アルベルト・ディネス

ポグロムと呼ばれたユダヤ人迫害・殺戮は東欧諸国において19世紀後半から広範囲にわたって繰り返されてきたが、ロシア革命によってロシア帝国が崩壊したあともこのユダヤ差別は続くことになったため、19世紀末から20世紀前半にかけて多くのユダヤ系ロシア人・東欧人がフランス、イギリス、米国ばかりかブラジルへも移住することを余儀なくされた。

故郷ウクライナから逃れてブラジル(リオ)へ移民としてやってきたユダヤ人を両親としてリオで1932年生まれたのが、アルベルト・ディネスである。父親が出生届に記入した名前はアブラハムだったが、小さいころからアルベルトと呼ばれたため、それが本名となった由。ユダヤ移民二世として、リオのユダヤ学校で初等・中等教育を受けたので、イディッシュ語も理解したが、ポルトガル語を母語として、さらに英語、フランス語、ドイツ語を習得して自らの知的世界を構築したユダヤ系ブラジル人知識人といえる。

のちにPUC-Rio(カトリック大学)や米国コロンビア大学で教鞭をとることになる知性派ジャーナリストとして、アルベルト・ディネスは、ジョルナル・ド・ブラジルやフォリャ・デ・サンパウロ(リオ支局長)で活躍したが、骨太の論客にして言葉使い巧みな記者として、様々なエピソードが語り伝えられている。

一番有名なのは、彼がジョルナル・ド・ブラジル紙の編集局長であった1968年12月14日の一面トップ記事だ。前日の12月13日、軍事政権が最も弾圧的なAI-5(軍政令第5号)を発令し、国会閉鎖、戒厳令発布を強行し、言論弾圧、反政府運動家の一斉逮捕が行われたが、その内容をストレートに記事にすれば、即ボツになってしまうので、ディネスの“妙案”は、紙面の一面の上段に天気予報文を突っ込むことであった。その文面は、「Tempo negro, temperatura sufocante. O ar está irrespirável. O país está sendo varrido por fortes ventos.」というものであった。いうまでもなく、悪天候(暗澹たる時代)、うんざりする高温(耐え難き気分)、息が出来ない(閉塞的状況)、ブラジルが強風で掃き清められた(ブラジル中が正気を失っている)、という意味(天気用語で政治的閉塞を示唆)で見事な短文表現になっている。

彼が評伝作家として力量を示したのが、シュテファン・ツヴァイクの生涯を丹念に追いかけた評伝『パラダイスにおける死』(初版1980年、増補改訂版2004年、593頁!)である。ナチズム旋風によって蹂躙された時代に絶望し、二度の故郷喪失を経て自ら「地上のパラダイス」と信じて移住したブラジル(ペトロポリス)で1942年2月23日、自らの命を絶ったツヴァイクの作品群は、今日でもブラジルでも日本でも読まれ続けているが、ツヴァイク文学の普遍性を読み解いたディネスの分厚い評伝は、ドイツ語に翻訳され、ドイツ語圏でも極めて高い評価を得たのであった。この素晴らしい評伝を是非とも日本語にも翻訳してほしいものだ。

冒頭に引用したのは、この評伝の序文の書き出し部分である。


岸和田仁(きしわだひとし)​
東京外国語大学卒。
3回のブラジル駐在はのべ21年間。
居住地はレシーフェ、ペトロリーナ、サンパロなど。
2014年帰国。
著書に『熱帯の多人種社会』(つげ書房新社)など。
日本ブラジル中央協会情報誌『ブラジル特報』編集人。

月刊ピンドラーマ2024年8月号表紙

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