岸本昂一(教育者、著述家・雑誌編集人、1898-1977) ブラジル版百人一語 岸和田仁 月刊ピンドラーマ2022年10月号
根川幸男氏(元ブラジリア大学准教授)の労作『ブラジル日系移民の教育史』(みすず書房、2016年)は、在ブラジル日系移民子弟教育史の実相を歴史社会学的に理路整然と叙述している快著(全632頁のヘビー級力作!)であるが、戦前期のサンパウロ市における日系移民子弟教育機関として①大正小学校、②聖州義塾、③暁星学園がそれぞれの“歴史的意義”を有したことを筆者が具体的に学べたのは、この著のおかげである。
小林美登利(1891-1961)が創設した聖州義塾は、キリスト教的普遍主義に基づき、英語やポルトガル語の教育に重点をおいたが、岸本昂一が開設した暁星学園(1932年創設、1971年閉校)では、語学教育もさることながら勤労教育(洗濯、裁縫)や実技教育といった社会に出て役立つ実践的教育を重視した。これは岸本のイデオロギー的立場が神道的日本ナショナリズムと救世軍的キリスト教の混合であったからだろうが、彼自身の大陸(満州・シベリア)での原体験が影響していると思われる。
新潟県新発田市出身の岸本は、新発田農学校を卒業後、満州ハルビンでロシア語を専攻した後、シベリア出兵を経て、1921年ブラジルへ渡る。サンパウロ州内陸部の日系殖民地での日本語教師を経験したうえで、サンパウロ市で寄宿舎学校としての暁星学園を開校する。単なる日本語学校ではなく、軍隊式規律に基づくスパルタ式教育を特徴としていた同校の卒業生には、戦後の日系社会で活躍することになる日系二世が少なくない。
教育者としての業績を残した岸本は編集者・著述家としても活躍し、1950年代から60年代にかけて何冊も啓蒙的著書をものにしている。ペンネーム「岸本丘陽」で書かれたものでは、『南米の戦野に孤立して』(1947年)、『世界の果てに黎明を創る ブラジル先駆者の足跡』(1955年)、『ブラジル踏破 一萬二千キロ』(初版1962年、再版1964年)などがあり、終戦直後の「カチ組マケ組抗争」という苦難の時期を経て、ブラジルという“世界の果て”で活躍するようになった様々な日系人を詳細に記録しているのが特徴である。今日の読者にとっては史料的価値もある著作群であるので、筆者も本棚から引っ張り出して久しぶりに再読してみた。
なかでも1962年刊の『ブラジル踏破』は、1960年代前半のブラジル各地の実態が観察・記録されているので、実に興味深い。はしがきの書き出し「今度の旅行は私の過去十年間のうちで最大の旅行で、将に空前絶後のものと言っても過言でない」となっているように、北はアマゾン各地、中西部は遷都間もないブラジリア、南はサンタカタリーナからリオグランデ・ド・スールまで、ブラジル全土を巡る大旅行といえる。
冒頭に引用したのは、北東部の章であるが、当時ペルナンブーコで一番有名な日本人であった玄場平治の証言「大正十四年日本を出て直ぐペルナンブコに来てもう三十三年になる。レシフェの郊外で最初に野菜作りをしたが、大して儲からなくて町に出てソルベツテ専門店(アイスクリーム店)をやって今日ではレシフェで第一流といわれる迄になった。(後略)」も収録している。
アマゾン地方のイキトスでは、「ペルー下り」の先駆者、山根武一について、「この黄金郷に憧れて多くの青年がアンデスの深山幽谷を彷徨いながら志を得ずして、アンデスの幽鬼となった者も数知れない中に山根武一氏は四十七年前に入ってきた神代時代の人である」と記している。
ミナスでは開業したばかりのウジミナスについて、「ミナスの鉱山地帯から製鉄所の活動をみて、ブラジルが今、工業国として立ち上がろうとしているその偉大な現実の姿に触れてブラジルに大きな夜明けがやって来つつあることを知った」とやや興奮調の文章が続き、ブラジリアについては「ブラジルの首都を何故此処に移したか」と背景を詳しく記述している。
月刊ピンドラーマ2022年10月号
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