J・A・ディアス・ロペス(ジャーナリスト・作家、1943年生まれ)(その4) ブラジル版百人一語 岸和田仁 月刊ピンドラーマ2023年8月号
ブラジル民俗学の泰斗カマラ・カスクードが「小鳥が飲まない水」について論じたのが、『カシャッサ前奏曲』(初版1968年)である。第1章Abrideira(食前酒)でベイツの名著『アマゾン河の博物学者』からの巧みな引用で始まり、最終の第17章Saideiraで、「友よ、以上をもってサイデイラ(最後の一献)とします」と粋(酔)人らしく締めている。文献上は16世紀に初出するカシャッサは恐らく15世紀に創生された。カニーニャ、アグアルデンチ、メラードなどとも称され、世界最大の黒人奴隷輸入国であったブラジルへの奴隷貿易では、タバコと共にカシャッサは奴隷を購入する時の交換通貨の役目を果たし、さらには、反乱を事前に鎮静するためにも船内の黒人たちを適度に酔っ払い状態にすべく強制的にカシャッサを飲ませたりもした。また、先駆的独立運動であった1817年の「ペルナンブーコ革命」では、ポルトガル植民地主義(=ワイン&小麦)に対抗するナショナリズムの象徴としてカシャッサが意味付けられた、といった史実を復習しつつ、「ブラジル人はカシャッサを愛してやまないが、決してカシャッサ・アル中ではない」ことに留意しよう、と述べるカスクード教授の語り口調はまさに酔人にして粋人の域に達している。
カスクード教授の素敵なカシャッサ論の唯一の欠陥が、(ライム+カシャッサ+砂糖+アイス)のカクテル、カイピリーニャへの言及がないことだ。①ドライマティーニ、②マンハッタンに次いで世界で三番目に消費されるカクテルがカイピリーニャといわれているが、その歴史は意外と短い。冒頭に引用したのは、食文化研究家J・A・ディアス・ロペス(1943~)の快著 “O País das Bananas” の最終章からである。
カイピリーニャが生まれたのは、20世紀前半、場所は、リオでもノルデスチでもなく、サンパウロ州内陸部、だ。風邪をひいた時薬の代わりで飲まれたバチーダ・デ・リマゥン(ライム+ハチミツ+カシャッサ)の蜂蜜が砂糖に代替されてカイピリーニャとなったと思われる。都市住民(男性陣)が飲むお酒は、1950年代まではビールとウイスキー(スコッチ)が主で、輸入ワインは金持向け、カシャッサは貧乏人向け、と色分けされていた。日本人移民の場合も同様で、社会上昇に従って、大衆酒カシャッサから高級酒スコッチへと嗜好が切り替わっていく。
サンパウロ州内陸部から中西部(ミナス~ゴイアス)に住む無学の農夫たちはカイピーラ(田舎者)と呼ばれていたため、このカクテルも、縮小辞カイピリーニャと呼ばれるようになった。このカイピリーニャが “bebida de praia”(ビーチで飲むお酒)として最初にブレークしたのが、サントス海岸だった。1950年代以降、サントスから全国のビーチへ伝播されていく。
ホテルのバーでカイピリーニャが供されるようになったのは、サンパウロのHotel Ca’d’Oroが最初で、1957年のこと。小さく割った氷(当時はアイスは貴重品)を加えるようになったのも、このホテルからだ。カイピリーニャ用の、やや大きめのグラスが定番化したのも1960年前後だ。
カイピリーニャの進化型として、ラム⇒ caipiríssima、ウオッカ⇒ caipirosca、日本酒⇒ saquerinhaなどが登場したが、こうした“進化型カクテル”が、ブラジルで広まるのは1980年代以降だ。まさにカイピリーニャの歴史はブラジル現代史そのものである。
月刊ピンドラーマ2023年8月号表紙
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