北東伯ピウン移住地出身の宮川頼周(みやがわ・よしのり)さん 移民の肖像 松本浩治
#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文
「自分たちはドミニカ移民と同じようなもの」—。
こう語るのは、日本政府の国策として1956年に「あめりか丸」で渡伯し、リオ・グランデ・ド・ノルテ州のピウン移住地を経て、現在はバイア州イトゥベラに在住、同地を拠点として活動する宮川頼周さん(78、長野県出身)だ。2006年で半世紀を迎えたブラジル生活だが、日本から「棄てられた」という気持ちが宮川さんの心を支配している。
1944年、日本の陸軍航空飛行兵として1000人の志願者の中から選ばれた経験を持つ宮川さんは、「一機一艦」を合言葉に米軍攻撃を目標として自宅待機していたが、その機会もなく終戦を迎えた。戦後の食糧難の時代に神奈川県に移転し、日本の自動車免許とともにアメリカのライセンスも取得。米軍の駐留軍用員として、比較的恵まれた生活ができていたという。
宮川さんの人生を変えたのは、結婚して間もない夫人と実弟が日本政府の南米移住政策の宣伝を聞いてきたことだった。
「ブラジルには『緑の大地』が広がっている。『こらあ、ええぞ』ということで説得されて来たみたものの、真っ赤なウソでしたわい」
と宮川さん。海協連(日本海外協会連合会、現JICA)を通じて、当時の金で「数十万円」という移住資金を貯めて、56年7月10日にリオ・グランデ・ド・ノルテ州のピウン移住地に10家族とともに入植。
「入植と同時にココ椰子の作付け可能と聞いていたけど、土地には泥炭地ができ、池の中にゴミが溜まっている。契約した土地は10町歩と聞いてきたのに、実際には1町歩くらいしかない。おまけに、2年経ったら地権を渡してくれるという話だったが、全然話が違ったのよ」
と当時を振り返る。
家長会議を開き、「こんなことでは居られない」と、当時リオ州管轄だった海協連引受責任者を呼び出した際、その担当者は
「頑張ってください」と言いながら、ただひたすら土下座していたという。
自分たちの土地に入れない宮川さんは、
「(移住地の)下の方に農場が余っているから、そこで作付けをやってほしい」
との指示により開墾作業を行い、
「血豆の中に、また血豆を作りましたよ」
という生活を続けた。他の移住者が離散する中で、宮川さんを14年間もピウン移住地に引き留めたのは、ブラジル農務大臣の言葉だった。ある年の北伯の大干ばつで宮川さんは、自分たちの暮らしぶりも厳しい中で、救援物資として10俵分のサツマイモを送った。このことが農務大臣の目に止まり、
「ぜひ、ブラジル人として帰化してほしい」
と依頼され、宮川さんは62年に帰化している。
60年代初頭には、当時の衆議院議員で、後の日本海外移住家族会連合会会長を務めた故・田中龍夫(たつお)氏がブラジルを訪問した際、移住地の現状を訴えようと陳情書を持って、他の移住者たちとジープに乗って移住地を発った。しかし、途中で交通事故に遭い、1人の死亡者を出した。宮川さん自身も膝の皿が外れるという大怪我を負った。
ナタール市の病院で手当てを受けていた宮川さんのもとに、移住家族連合会事務局長だった故・藤川辰雄(たつお)氏が見舞い、枕元で「頑張ってください」と言われたことが今も耳に残っているという。
その後、宮川さんは70年にバイア州イトゥベラに移転して、同地でもマモン(パパイヤ)などの果樹生産を行ってきた。現在は長男が農地を継ぎ、インドネシア原産熱帯果樹のランブータンやマンゴスチンのほか、クプアスーなどを生産している。
内臓を患い、2005年にサンパウロ市の日伯友好病院で手術した宮川さんは、療養を兼ねて現在は半年ごとにサンパウロとイトゥベラを往復する生活を続けている。
「僕はウソをつくことが大嫌いなんです。日本に行って、外務省の連中にブラジルで見てきたことを陳情したい」
と話していた宮川さん。
「貧しくても心は立派でいたいね。人間的な完成を目指してあと30年は生きたい」
と笑っていた。
(2006年7月取材、年齢は当時のもの)
松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/
月刊ピンドラーマ2022年1月号
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