本家の後継 13 酒乱・暴力
自分の育った環境が当たり前になり
いつの間にかそれを基準として世の中を見るようになる
自分はどの位置にいるのだろう
果たして、その基準は
自分も他の人も幸せにするのだろうか
この話は、隆子(私)が自分自身の人生を振り返って、その苦悩の中を生き抜いてきた話や人生について考えるきっかけになった思い出です。実在する人物が登場するため各所に仮名を使わせていただいています。
昭和60年代〜70年初期
テレビが白黒からカラーになったり、番組も多様性がで始めたころでした。
流行り物好きだった真一は、まだ、ほとんどの家が白黒テレビだった頃にいち早くカラーテレビを分割払いで購入した。
分割払いという支払い形式は、このころくらいから出来始めたように思います。
それまでの「ツケ」という信用ありきの後払いとは違って「均等払い」「指定払込日あり」の方式で、現代のクレジットに近い支払い方法です。
「ツケ」の場合はそのお店と個人との関係ですが、分割は金融会社との契約になるので、お店としては「ツケ」だった場合、いつ払ってくれるのか、いくら払ってくれるのか、踏み倒される心配、これらから開放され安心して商品を売ることが出来るようになります。
当時、私住んでいた地域では、お金の代わりに「米」を使って払うということもされていました。
「一升」(1.8kg)単位で、交換していたと記憶していますが、何円だったのかは覚えていません。
魚売りのおばちゃんがきた時や、父が酒店などで買ってきた時に、そのような支払いをしていたのを見てきました。
田んぼを持っていない商売の人たちは、お米を買って食べなくてはいけなかったので、買うよりも少し安い単価で取引出来るのは、有り難かったのかも知れませんね。
しかし時代と共に、米より「お金」にしてくれと言われるようになり、「お米が払われる」ことは無くなって行きました。
真一は、様々なことにお金がかかったり、仕事を転々としていたために収入が安定せず、金にはいつも苦労をしていた。
でも酒だけはやめられない。
お金を払うつもりでツケで酒を買ってきていたが、給料をもらって返してはまたすぐにツケをするので、ツケが無くなるどころか膨らむ一方だった。
酒店の店主が溜まったツケを払うように再三請求したが、真一がなかなか払ってくれないので、家まで取り立てに来た。
「払う金が無いんだったら、米でもいいから払ってもらうよ!」
そういって、30kgの米袋をいくつか持って帰って行った。
真一自身も、自分のツケがどのくらいで、払ったのがどこまでなのか把握できなくなるほどで、店主と言い争うこともあった。
そんなことが何度も繰り返されたために、遂には自分の家で食べる米が、次の収穫の時期まで持たなくなってしまった事さえあった。
そんな時には、家族が親戚に頭を下げてお米を分けてもらった。
自分の不甲斐なさでなってしまった結果なのに、米を持って行った酒店の店主に罵声を浴びせ悪口を言い、家族にまで、相手の悪口を吹き込んだ。
狭い村社会のことなので、そんな噂はすぐにみんなに伝わってしまう。
それが原因で子供同士の関係でも、いじめられる原因になった。
子供である私達も、大人から「お前んちの父ちゃんに借金返してくれるように言ってくれ」とか「酒飲まないで真面目に働くように言いな!」とか言われた。
子供なので事情が飲み込めないこともある。自分たちが言われるのは理不尽な気がしたが、相手からすれば当然のことだったのかも知れない。
それで、先の読めない私など、正直によその大人に言われたように父、真一に言ってしまった時には、逆上されて殴られる結果となってしまった。
真一は
みんなでオレのこと馬鹿にしやがって!
てめーらなんか畜生と一緒だ!
畜生殴るのにオレの手で殴るとオレの手が痛む!
そういって近くにある食器を投げつけたり、囲炉裏にあった鉄の火箸や薪などで叩かれた。薪を割る斧を持ち出されたこともある。
そんなふうに、真一は一人で飲んでる時は始終機嫌が悪い。
ある時に、三女の富子がテレビドラマを見ていた。
すぐ側ではいつものように、真一が酒を飲んでいる。
「さっさと風呂に入れ」
富子はドラマに夢中で、真一の言葉が耳に入らなかった。
その時、真一が何かを振り下ろし「ボンッ!」という音がした。
富子の頭から、血が吹き出した。
真一は言うことを聞かない富子に腹が立って、側に置いて飲んでいた酒の一升瓶を振り下ろしたのだ。
しかし、真一の口から出た言葉は・・
「ああ!! まだ酒入ってた!」
「もったいねーことした!」
という言葉だった。
富子は、当然、倒れた。
が、何と!すぐに「痛って〜」と起き上がった。
(何という石頭だろう)
真一は、少しだけ我に返り、言い訳をした。
囲炉裏で温まった一升瓶が酒を注ごうと思ったら、暴発したと。
(な、わけあるか!!)
富子は、命に別状はなかったものの、3針縫うほどの怪我だった。この時の傷跡は髪の毛で隠せない場所で、傷跡はケロイドになり毛が生えてくることは有りませんでした。
どこかの歌に「毛が(怪我)ねえで良かったな」なんていうのを聞いたことがあるが、怪我で毛がねえ(毛が無い)富子になってしまい、洒落にならない。
年頃の女の子だというのに同級生に「ハゲ」「ハゲ」言われて、父親に対する恨み心を何倍にもしていったのは言うまでもない。
段々と暴力を見慣れていく。
学校でいじめられるのも日常になっていく。
隆子の中で「恐怖心」が段々と育っていきました。
その「恐怖心」は自分の思考と行動力を閉じ込め、数々の間違った行動へと自分を走らせる結果となっていきました。
事件性のあることに足を入れてしまったことも有りますが、その話はいずれ機会があればと思います。
冷静さをコントロール出来ない時には、「ヒステリー」という形をとって自分の感情を爆発させるようにもなっていきました。
当時、家庭内暴力は珍しく無かったと思っていましたが、それは日常的に自分が見て体験していたから「それが当たり前」になっていただけで、決して肯定されるべきでは無い!
何を見、何を聞き、何をして生きていくのか。
その積み重ねを、心から大事にしたいと、考えるようになりました。
本家の後継をお読みいただき、ありがとうございます。
この続きは、また次回に。