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本家の後継 3 小さな命
親は子供を選べない。
子供は親を選べない。
そんな風に聞くこともありますが本当でしょうか?
私は何か、運命のようなものがあるような気がしてなりません。
望まれない所に生まれてしまった子供の人生ってなんなのでしょう?
そして親子や家族の愛情とは、当然のものなのでしょうか?
*この話は実際の人物が登場するため、仮名を使わせていただきます。
本家の後継になる男の子を待ち望んでいたのに、その期待を裏切って四女が生まれた。
戦死した真一の父親の隆雄から一文字をとって隆子と名付けられた。
とりあえず、殺められることもなく、捨てられることもなくスクスクとそだっていた・・・はずであったが・・・
隆子が生まれてひと月半が経った。
3月中旬になってもまだまだ雪深かった。
隆子の咳が止まらない。
苦しいのかずっと泣いているその泣き声が時々聞こえなくなると、次第に顔色が紫色になっていく。
段々と泣き声も弱々しさを増してきた。
まさ子は姑に「隆子を病院に連れて行きたい」と言ったが、なかなか渋っている。
理由はお金のことだ。
真一が出稼ぎに行って、本来ならば家にお金を仕送りしてくれるはずなのにしてくれない。
真一は、日銭を稼いではいるが実家から開放され、好き放題の生活をしていた。何をしてお金を叩いてしまったのか真実は聞かされなかったが、まあ、酒と遊びに使ったことは間違いないだろう。
実家には姑とまさ子と女の子四人。女だけで家を守っている。収入は恩給だけ。いくらもらっていたのかはわからない。しかし、余裕がないことだけは予想がつく。
泣き声さえ聞こえないくらいになり母乳も飲まなくなった。顔色が始終むらさき色をしているようになると、まさ子は半ベソになりながら姑に頼んだ。姑も渋々やっと病院にいくのを了承してくれた。
ど田舎だったこともあり、病院と言うよりは田舎の診療所だ。
家からは10キロほども離れている。
一番近いバス停でさえ2キロ近く歩かなくては行けない。それに本数も少ないし、病院にかかるお金しかない。
車もそうそう持っている人のない時代で、村でもお金持ちの二軒くらいしか車のある家はなかった。
吹雪の中、頼んで車を出してもらうなどと言うことが出来るような関係でも無かった。
仕方がないので、まさ子は隆子をおんぶして雪の中を歩いて診療所にむかった。雪に足をとられながら、背中の隆子の泣き声が段々と小さくなって聞こえなくなる。
やっと診療所について診察を受けると、百日咳だと言われた。
生後1ヶ月半にして、二度目の命の危険。
一度目は生まれたその日。
そしてこの時で二回目。
不運と言うべきか?
いいえ。強運である!
この後も、何度も命拾いを体験することになり、一体自分はどんな運命を授かってきたのかと思う。
とりあえず、診療所で適切な処置がなされると、隆子は元気を取り戻していった。
「死ねば良かったのに」と思った大人がいたのか居なかったのかは、ここでは明言は避けようと思う。
季節が過ぎ、緑の濃い季節がやってきた。
夏になると決まってこの辺りを托鉢のお坊さんが回ってきていた。
一軒一軒をお経を唱えながら回っていた。
村の人はこのお坊さんが来ると、お米を一合ずつお布施していた。
しかし裏では「あの坊主は頭がちゃんとしてないから、お経が覚えられないんだ。だからいつもお経じゃなくてウーウー言いながら歩いてまわてっるんだ。」「しかもそこん家のそばに来るまでは、黙って歩いてるんだ。」と言って馬鹿にしていた。
私はこのお坊さんのことは何故かとても怖くて、泣いて母のところに隠れたのを記憶している。まだ2歳頃のことだと思う。
さらに月日がすぎ、再び冬を迎えていた。
母が私のオムツを換えている。
「うわーん」と体をよじる私。
姑が母に言った。
「まさ子や!赤(赤ちゃんのことをいう)のシリくらいお湯でふいてやれ!」
母はお尻を拭う手拭いを、手抜きして水で濡らしただけだったものだから、冬だったこともあり、その冷たさに赤ん坊の私も流石にたえられなくて声をあげた。それで、おばあちゃんが嫁を諭したのだ。
なぜこんな話をしているのかというと、実は私が2歳半過ぎた頃に両親が離婚したために、母との思い出というのは小さかった私には無いに等しいのです。
わずかに覚えている光景があって、自分でもそれが不思議に思っていたので大人になって(私が30歳を過ぎてから)実際に母に確認してみました。
「母さん。私ね、赤ちゃんの時、おむつ換えてもらうのが冷たくて嫌だったんだよ。毎回、毎回、冷たくて泣いちゃったんだよ。」
という話をした時に、先ほどの姑に叱られた話をしてくれたのです。
その時、母は「へえー?」と、とても不思議そうに返事をしました。
2歳の時の夏に、母の兄弟家族と海に行って従姉妹がボートに乗っていた話もしてみたら、とても驚いていました。母も忘れていたものの、その後にすぐ離婚したこともあって、時系列的に記憶が残っていて内容も私が話した内容そのものでした。
托鉢のお坊さんの話も同様に、母がいた頃の少ない記憶のひとつとして残っているものです。
このような記憶が残っているのは、なにか理由があるのでしょうか?
それとも、母恋しさに、過ごした日を、繰り返し、繰り返し、思い出して自分を繋ぐ何かにしていたのでしょうか?
この続きは、また次回に。