日常を大げさに感じよう
アラームをセットした時刻より1時間前に目を覚ますとまだ寝られることがうれしくて、10分前に目を覚ますともう寝られない絶望感に襲われてひどく落ち込んでしまう。
こんにちは。ぴこつです。
毎朝、通勤で電車に乗ることはぼくの習慣だ。
家から出て最寄り駅とは反対方向に歩いていくのはあまのじゃくであるぼくにとってはむしろ快感でもある。すぐ近くの駅を使ってしまえば見える景色も変化を感じにくいし、何より歩く距離を稼げなくなってしまう。
通勤を自分の運動と定義しているぼくにとってはこの距離がとてつもなく重要で、通勤距離を縮めることは自身の寿命を縮めると言っても過言ではないのだ。
最寄り駅から一つ先の駅に向かうまでの間、意識的に大またで歩く。
腕も肘を意識しながら幼稚園の運動会さながらに前後に大きく動かす。
はたからどう見えるかは今となってはもうどうでも良くなった。どんなことであろうと、他人からの見た目を意識するのは最初のうちだけだ。
ぼくは元々、ノミの心臓なので他人からの目をかなり意識してしまう。身長は180cmあって他人からの第一印象では「怖い人」と思われることもあるけれど、実際にはただのヘタレ。
※実際に話してみると男女問わず「話しやすい」と評判です。人見知りだけど。
通勤時の徒歩をウォーキングに変換したての頃は、大またで歩くことも、腕を大きく動かすことも他人からの目を気にして少し恥ずかしいと思っていた。
だけど、自分が他人を見ていることを想像してみると、大して気にしちゃいない。もしかしたら「あの人は運動してるな」と思うことはあるかもしれないが、だからと言ってその人を「カッコ悪い」と思うことなんてない。
むしろ「ガンバってるんだな」と関心するんじゃないだろうか。
ただ、他人の目はそもそもがどうだっていい。
自分がどうしたいか?
と
自分がどうなりたいか?
だけの話なのだから。
他人の目がどうとかは自分の人生には関係はない。ぼくが通勤を運動化しているのは自分が運動することが嫌いだから。
それにぼくの体を壊せば自動的に家族の生活も死ぬので、健康でいることが極めて重要だし、ぼくがまず健康でいることが家族を助けることにつながっている。
年齢を重ねていくと職場でもなぜか不健康自慢をしているおじさんがいらっしゃるんだけど、あれはぼくには意味がわからない。自虐ネタだけで済んでいればいいが、そのうち本当に入院してしまったりするので、そうなるとネタにされてもどうリアクションをとっていいのかわからないからタチが悪い。
今朝も、いつもと同じように駅に徒歩で向かった。毎日毎日同じ時間に同じように歩いていると、それが当たり前だと思うようになる。
ぼくが今のところに引っ越してきて半年ほどになるけれど、最初の頃はみる景色がすべて新鮮で、少しばかりの緊張感もあった。
たとえメンタルの弱いぼくであっても、何ヶ月も同じところを通っていれば自然と慣れてくる。少々ストレスを感じることであっても、毎日続けてさえいれば無意識に苦もなく続けて行けるようになる。
それが習慣というものの本質なんだろう。
だけどその普段と変わらない日常が「当たり前」かというと、きっとそんなことはない。
朝、スマホにセットしたアラームが鳴った瞬間にすかさず起き上がってアラームを止めるけれど、そもそも目を覚ましたことは当たり前なんだろうか。
眠っている間というのは、意識がない。生物学的に「意識がない」の本来の定義は知らない。でも少なくとも寝ている間の記憶はぼくにはない。
寝ている記憶があるとしたら、それはきっと夢だと思う。
夢の中で寝ている自分が出てくることってあるよね?
夢の中で「夢だったか」と思って目を覚ますこともある。本当は夢の中の自分が目を覚ましただけで、実際の自分はまだ眠ったまま。
そう考えると、自分がちゃんと目を覚ますというのも不思議なことであるような気がしてくる。
目を覚ますという奇跡から始まった自分の日常は、当たり前のようで当たり前ではない。目を覚ますことすらも奇跡だというのであれば、毎日歩いて通勤できることも奇跡。
通勤途中に見上げる空が青いことも、まだうっすら白く残っている月も、いつ通ったかわからない飛行機雲も、たまに見かける野良猫も。すべてが偶然。
駅に着いて、ちゃんと時刻通りにやってくる電車とか、何のトラブルもなく目的の駅に到着することだって、当たり前のようで当たり前ではない。そこにはいろんな人が介入していて、それぞれにしっかりと仕事をこなしてくれているから成立している。
自分の力だけでは絶対にあり得ない日常なのだから、当たり前の日常にも感謝するのがきっと当たり前。
毎日同じことの繰り返しで生きているように感じているけど、朝を迎える自分の体も、訪れる日常も、大切で貴重な1日の連続だ。
通勤でみる景色も機械的に同じことを繰り返しているわけじゃない。空も、地面も何かしら変化している。そういうところに目を向けていると、自分の日常もいつもとは違ったように見えてくる。
大げさに「新しい世界の始まりだ」と思ってみると、日常のようなその日も特別な日になるかもしれないな。
明日がぼくらにとってどんな日になるのか、楽しみだね。
じゃあ、またね。
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