日々の差はあるんだって、認めてしまえばいい
とつぜん冬みたいに寒くなって、たじろいでいたんだけど。
今日は朝から「すんっ」って感じの穏やかに秋晴れを見せつけてきて、
「なんだよこのあいだのアレは脅しだったのかい?」
って言いたくなってしまう。いや、こっちの方がぜんぜん「ありがとう」なんだけれども。
そんな時のぼくの気分もやっぱり穏やかで。
noteに記事を書くときなんかも、そこまで自分を奮い立たせたりなんてこともせずにふらっと書き始められる。
「秋晴れ」って素晴らしい。
それと同じように、自分が書いた記事(日記)にもクオリティには差があって。「クオリティ」なんて元々そんな何かの専門家みたいな大層なものを書いてるわけじゃないのに、それでもやっぱり自分の中で「今日はよく書けたな」とか「今日のは全然おもしろくないな」とかいうのがある。
良いとか悪いとかではないにしても、自分自身がどんなスタイルで書くとか決まっていないものだから、記事自体がいつもと違う感じになっている時も、よくある。
そんな時、
「なんでこんなことを書いてしまったんだろう」
とか、
「今日の記事は読みにくそうだな」
とかを考える。
なんなら書いている途中にもそんなことをよく考えてしまって、全部なかったことにして消してしまいたくなるのだ。
それでも、ぼくは消さない。
ぼくは今、この記事だってお仕事として書いているわけじゃない。
自分が書きたい何かを、自分の意思にただしたがって書いているだけ。それはつまり自分の心境であり、思いそのもの。
それを書いている今の自分にはウソとか着飾るとかはないのだ。
だとすれば、今のこの記事がどんな姿かたちであろうと、それはそのまま書くべきだと思っている。
たとえ今すぐに 「Ctrl + A」→「delete」(全消去)を押してしまいたくなっても、それはしない。それこそが今日の自分にウソをつく事になる。
自分自身で納得がいかないどんな形であっても、書き切って、放出する。
それがぼくのこの記事に対する誠意だ。
下手だなと思ったところを少し修正してでも、出してしまおうと心に決めている。スベリ倒しているかもしれないジョークが含まれていたとしても、それはそれで今日の作品、それが今日の自分なんだ。
人間は不完全な存在だ。
大げさなことを言っているようだけど、それが真実だと思う。
日々の天気とか気温とか、気圧とか湿度とか花粉の量とか洗濯指数とか。
そういう身体に影響する何かだけじゃなく、自分の心を動かす何かが時には、やっぱり精神状態も平常時とは違っていたりする。
当然だ。人間だもの。
そういう日々の違いを、日記へと映し出してしまえばいい。むしろそれが正解なんだと思う。
毎日毎日、正装した自分を出したところで、それはもはや自分ではないのだ。
スーツを着たサラリーマンなんて、みんな見飽きてるでしょ?
それよりも普段着とか、パジャマをきてる自分の方がよっぽど人間味があってイイじゃない。
それに、自分自身の魅力というのは、得てして周りの誰かが見つけてくれるものなんだ。
「自分の魅力はこれだ!」と見せつけられても、相手からすれば「お、おう…」と引いてしまうかもしれない。
そんな押し付けがましい自分よりも、さらけ出してしまった自分の方が魅力的に映ることだってあるかもしれない。
仮に、さらけ出して嫌われてしまったとしても、それはそれでいいんじゃない?
嫌われることだって、人間としてはきっと魅力的だ。
誰かに嫌われるくらいの方が、自分をとがらせて引き立てることになるかもしれない。
ぼくは、誰かに嫌われたい。
ウソです。やっぱり好かれたい。
でもね、そのくらいに誰かに嫌われることを恐れて自分を出せない方が、自分にも健全とは言えないんじゃないかな。
だからさ、毎日の自分の違いなんか、あって当然。書いている記事もクオリティが違って当然。
きっとそんな日もあるさ。
今日は今日の自分がいるし、明日は明日の自分がいるんだよ、きっと。
じゃあ、またね。
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