自己肯定感?なにそれおいしいの?→おいしいらしいけど、どうやら味覚障害みたい。
日記を書くようになってから、10日以上は過ぎたと思う。「と思う」などと曖昧な表現をしたのは、自分でもあまり覚えていないからだ。
noteと投稿した際に「◯日連続更新!」のようなメッセージが出てきていて、確か昨日は二桁の数字が書かれていたので10日は過ぎたんだろうな。という記憶のレベル感。
ぼくの記憶力が壊滅的なのは、noteを書き出すきっかけとなった「いしかわゆき」さん(ゆぴさん)著「#書く習慣」の感想を書いた記事でもご紹介済みで、ゆぴさんにも認知いただいたことでもある。
日記を書いた数の記憶が曖昧というのも、この記憶力のなさゆえでもあるんだけど、それともう一つ。ぼくは“ノルマ”が嫌いだ。学校の宿題のようなもので、誰かに強制的にやらされるものにとにかくやる気が出ないという、反抗期だか思春期だかわからないけれど、いわゆる「中二病」が持病の人間なんだと思う。
さっき「誰かに」と書いたけれど、それには自分も含まれる。自分で課したノルマおも反発して蹴ってしまうという、とんでもなくめんどくさい人間であることが解明している。これはある種、多重人格の疑いもあるのか?
自分自身が「やろう!」と思ったことに対して「嫌だ!めんどくせー!」と反発する自分を多重人格と言わずしてなんと言おうか。
とにかく、自分で決めたことすら続けられない残念な人間であることは自分でも重々理解しているので、あらゆることに関して自分自身にノルマを課したり追い込むといったことができないのだ。
「書く習慣」では「連続30日チャレンジ」というものが存在していて、読んだ方がこれに沿って続々と連続投稿しているのを見て、本当に尊敬している!
ぼくのような堕落した人間では到底及ばない存在の方だと思う。
そんなノルマをこなせない自分がいる理由を考えてみた。そうすると一つの答えっぽいものを見つけた。「自己肯定感」である。
ぼくはこの自己肯定感が驚くほど低い。自分自身を「肯定」することのなんと難しいことか。忘れ物をすれば「なんでオレはこんなものすら持っていくことを忘れてしまうんだ」と憤り、ダラダラと動画やSNSを見てしまった自分には「こんな無駄な時間を過ごしてしまった」と嘆く。
たとえnoteで無事に投稿したとしても、「やり切った」という達成感を得るようなことも滅多にない。
では「自己肯定感」とは対極とされる「承認欲求」が高すぎるのではないか?
と思われる方もいるかもしれない。でもそれも違うのだ。
承認欲求とは「他人から褒められたい」という欲のことだと自分では解釈しているが、そういう欲求も自分にはないと思う。
自分がしたことに対して褒められても、少しは喜ぶ気持ちがあったとしても、毎回「誰からから褒められたい」とは思わない。
書いていて、心底自分がめんどくさい人間だなと思えてきた。
もしもこの日記を読んでくれている人がいたとしたら、あなたはここから一刻も早く離脱したいと考えていてもおかしくはない・・・
ほんと、ごめんて!!
そもそも自己肯定感とはなんなのか、ぼくはその答えを持ち合わせていない。その答えが身近にあるとしたら、それは成人マンガ家のniko、ぼくの妻だろうと思う。
彼女は自己肯定感の高い人間だ。
自らの成果を自分で認められ、次への意欲に転化していける。継続するための活力は、自分の中にある。とても効率のいい生き方だと思う。
自己肯定感も、救いとなりそうな承認欲求も持ち合わせていない、文字通り救いようのない自分が今のところ継続してnoteを更新していけているのはなぜか?
まさしく習慣だと思う。とにかく「やろう!」とか「やらなければならない!」などと意識の高いことは考えない。言葉にすると「やるか〜」くらいである。
例えるなら歯磨き。例えるなら入浴。例えるなら寝起きのウン…これはやめておこう。とにかく、努力とか目標とかじゃなく「することが当たり前」もしくは「しないと気持ち悪い」くらいのものだという認識だ。
ただし、ぼくはとめどなく堕落型の人間だ。ぼく自身、いつなんどき「やーめた」が襲ってこないかをいつもビクビクしている。それは突然やってくる。天気が悪い日、気温が低い日、時間を持て余している日は要注意だ。
最初の何日かで苦しくなって辞めてしまうリスクよりも、むしろある程度継続してくると「これだけ続いたんだからもういいかな」のような自己完結の中途半端な達成感で辞めてしまうリスクの方が高い。
これはもしかしたら別の問題で、この継続の先になにがあるか?を自分で探さないといけないのかもしれない・・・と、書いていて思いついた。
それはまた別の機会にでも。
じゃあ、またね。
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