「書く習慣」の正体が…おぼろげながら…浮かんできたんです。
今日で何日目の記事になるだろうか?
じぶんでもよく覚えていない。もう、この記事を書き終えて押す予定の、「投稿」ボタンの後に出る「◯日連続達成」のメッセージだけが頼りである。
ぼくのこの日記。日記というかもう何かわからないものも含まれているので、全部ひっくるめて「記事」とさせていただくが、自分でもここまでよく続いてるなと思うことがある。
その一方で、特にどうということもなく続けている自分もいる。なぜこんな習慣化できているのかは、ポンコツの自分には本当に言語化できなくてもどかしいのだが、でも習慣ってそういうものなんだよなと思っている。
歯磨きとか、お風呂に入るとか、出かける時に靴を履くとか、雨が降っているから傘をさすとか、トイレの電気は使ったら消すとか…(ネタ切れ)っていうのに特に理由なんてないよね?
そりゃ突き詰めればいろんな理由がある。
歯磨きをしなければ虫歯になったり歯周病になったりするだろう。
お風呂に入らなければ頭はかゆいし、オッサン的な匂いをかもし出すようになってしまうかもしれない。それは直ちに中一の娘から「お父さん臭い」と言われてしまうだろうからそれだけは避けたい。
雨が降って傘をさしていなければプロアーティストのミュージックビデオなら格好はつくが、現実はそんなに甘くない。変人扱いの目で見られて、もれなくソーシャルディスタンスを取られると思われる。
くだらない講釈はさておき、とにかく習慣とは自分で理由を必要とせずともやってしまっていることだと思う。
この記事も、あまり何も考えずに書き始めて、思いついた言葉をひたすら書いていっているだけなので、あれこれ考える必要もない。
ただ、長く続いているとヒタヒタと背中に迫ってくるものがある。
「マンネリ」だ。
いまのところ、この子だけがぼくにとっての厄介者で、自分が続けようものならば背中のシャツを引っ張って「ちょっと待ってよ」と呼び止めようとする。
そして実は今日、このマンネリくん(ちゃん?)へのささやかな抵抗として、初めて職場のお昼休みの時間を使って書いてみている。
きっと記事をアップするのは帰ってからになるとは思うが、書いているこの瞬間の気分というのは帰りの電車や帰宅後のリビングとはまた違うものがある。
さっきも言ったけれど、ぼくは記事を「ほとんどその時の気分」で書いている。とすれば、今このお昼休みの気分もいつもとは違うため、出来上がった記事もきっと違ったものになっているんだろうと思う。
レトルトカレーも、ご飯にかけてレンジで温めた時と、パウチのまま湯煎で温めた時では仕上がりは異なる(知らんけど)。
レトルトカレーの温め方はさておき、「書く習慣」の障壁となりそうな「マンネリ」への対抗策として、「書く環境」を変えてみるというのはありなんじゃないかと思う。
少なくとも、これを書いている今はけっこうイイ感じだ。
「書く習慣」はなんとなく続けていけているけれど、やっぱりどこかでこのマンネリとか「飽き」とかが出てきた時、その対応によっては突然「やーめた」となってしまうのがぼくのポンコツたる所以(ゆえん)でもあるので、今後もなにか気分の変わることをしながら習慣を続けていきたいと思う。
今、ぼくはお昼休みで書ききれなかった記事の続きを帰りの地下鉄の中で書いているが、もう一つ気づいたことがある。
せっかく気分良く書いていた記事も、途中でいったん止めてしまうと再開する時にまたパワーがあるということ。速度の乗り切ったタラちゃんの三輪車も、カツオ兄ちゃんにばったり会って止まってしまうと、また漕ぎ出す際にはきっとそれなりのエネルギーが必要だ。
なぜここでタラちゃんが出てきたのかは不明である。ぼくの頭におぼろげに浮かんだ物が三輪車だったので、それにタラちゃんを乗っけてみたというだけのこと。
と、こんな感じでどうしようもないたとえが出てきていても、一旦止まると思い浮かばなかったりもする。教訓としては、一度書き出したものはできればその時に書き切ってしまいたい。
ぼくのこの書き殴りスタイルだと、一回見直すと恥ずかしさに殴り倒されそうになることもあるので、やはり最後までこちらから殴り続けなければいけない。
ただ、この記事も毎度のことながら収集がつかなくなってきていることにみなさんはお気づきだと思うが、ぼくも殴り続けるスタミナがなくなってきた。この辺でおわりにしたいと思います。
おぼろげながらに見えてきた書く習慣は、実体がはっきりと見えないからこそ書き続ける意味があるのかもしれない。と、言い聞かせてみた。
じゃあ、またね。
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