【手記】親として目を背けるのではなく考えておくべき事件
愛知県の中学で14歳の3年生の男子生徒が同学年の男子生徒に包丁で刺され死亡した事件。
このニュースは覚えている。中学一年生の娘を持つ親としては、やっぱり衝撃的だった。
ただ、ぼくはいつもこういった事件に関して被害者の立場に立ったり、あるいは加害者の立場に立って事件の原因や経緯を考察する事はしない。
理由は単純で、真相はどこまでいっても当事者にしかわからないことだからだ。
それを自分の憶測のもとにどちらかに加担したりするのはあまりにも危険。報道にしてもどちらかの親へのインタビュー記事を見れば、筆者のなんらかの意図が出ていたり、発言がそのままに書かれていたとしても見る親としてはどちらかに傾向した見方をしてしまう。
そしてその場合、どうしても自然と被害者の側に立ってしまう方が多いというのは容易に想像がつく。
親ならば「自分の子が誰かを傷つけるはずがない」と思うのは当然だからだ。
それよりも、今日はその被害者のご両親が今の心境を述べた文書が記事として出ていたらしく、ぼくはその内容よりもそれに対してtwitter等でコメントをしている人たちの意見が気になった。
Twitterで意見をする人たちが注目したのはご両親が語ったこの部分だ。
(前略)
私たちにも事実関係の詳細はわかりませんが、加害者からのいじめがあった、嫌なことをされたとの一方的な報道があった為に、さも息子がいじめの報復で殺害されたような報道をされ、息子を失って悲嘆に暮れている中、私達は更に深く傷つけられました。(以下略)
(参照:「愛知の中3刺殺、被害生徒の両親のコメント全文「大切な息子を奪い絶対に許すことはできません」」12/14(火) 17:51配信)
引用元:Yahoo!ニュース
この発言に対してのコメントはというと、
「中学生にもなると親が見ていないところでは何をしているかはわからない」
「中学生は隠れてなんでもする」
「親の知らない子供の世界が存在する」
のようなこと。
確かにその通りかもしれない。でもぼくはこの親御さんの意見に対しての唯一の正しい反応は「言及しないこと」だと思っている。
これを「無責任なこと」だと思うだろうか。当事者以外に何もわからない以上は、他人が口を出すべきことではない。どんな言葉であっても加害者、被害者どちらかあるいは両家の親御さんを傷つけることになる。
他人事のフリをしていると言われたらそれまで。誤解を恐れずに言えばまったくその通りで、他人事なのだ。だからこそ、なんの関係もない人間が軽々しく言及すべきではない。裁判でもない限りは、興味を引かれたとしても「見守る」のが正解だとぼくは思う。
ただし他人事とはいえ、自分のこどものことを考えるのであればそれは目を背けてもいい問題ではないと思う。
ぼくだって普通の親だ。自分の娘が誰かを傷つけてしまうようなことはないと信じている。
一方で、ぼくは親ではあるけれど、娘はぼくとは違う人間。他人なのだ。
そしてその娘も人間だ。娘に限らず、ぼく自身だって間違いを犯すことが絶対にないなどという保証はどこにもない。
その上で親ができることとなんなのかを考える。倫理観を伝えることは重要かもしれないが、それでもそれを聞いて育った子は誰かを傷つけることはないと言い切れるだろうか。自分自身ですらどんな考えを持って生きていくのかもわからないのに、他人である子どもがどうなるかなど、わかるはずがない。
ぼくが親として、娘にできることと言えば「信じること」だけだ。
それも「間違いを犯さないこと」をではない。
人間は、間違える動物だ。もしも絶対に間違いを犯さないのであれば殺人を犯したり、自殺をすることもないはずだ。
であれば、親が子どもを信じるとしたら、子どもが「言うこと」「考えている」ことではないか。どんな状況になったとしても、子どものことを信じる。
もしも間違いを犯したり、そうでなかったとしたも、子どもが感じていることや言おうとしていることを素直に受け止める。他人である親ができることはそれだけだ。
それから、ぼくはこういう事件が起きた時に思うところがある。
これは親であるぼく自身も危険な思考を抱えているような気がしている。
きっと、この当事者である被害者、加害者の子どもはどちらかは学校に行きたくなかったんじゃないだろうか。
二人の間に何があったのかは本当にわからない。だけど、きっとどちらかもしくは両方の子供は学校に行きたいとは思っていなかったと思うのだ。
そのことを親が事前に悟ってあげることは難しい。学校は行けるものなら行くべきところだという考えが大半の人たちの共通認識にある。
ぼくだってそうだ。自分の子どもが学校に行けている間は行ったほうがいいと思っている。でもその「行かなくてはならない」という風習は子どもにとっては脅威になっている可能性もあるんではないだろうか。
子ども本人は脅威とは思っていないかもしれない。それが当たり前になっているからだ。習慣と言い換えてもいい。確かに習慣として学校に行っていることはマイナスにはならないから、そのこと自体はいいと思う。
ただ、今回のように避けなければならなかった時でさえ、学校に行くことが正しいとされてしまうことには問題があったんじゃないか。
ちょうど最近、娘は体調が不安定で頭痛がするなどの理由で学校を休んだり、早退することが多かった。体調が整わないのは娘自身が運動不足だったり、スマホを眺め続けるなどの不摂生があったのでそこは改善して行くべきだと思っている。
それよりも、学校側の対応が少し気になるのだ。
ぼくの娘は、今のところは学校が嫌いとか嫌いな子がいるとかいう理由で休むことはない。それもぼくの思い込みだとしたらそれも危険なことだが娘の言葉を信じるのであれば今はそこまで心配することはないと思っている。
学校はというと、娘のことをとても心配してくれている。それは純粋に体調のことなのかもしれないが、それよりも学校に来れていないという事実に対して「なんとかして来させられないか」と言う意図を感じるのだ。
ぼくの気のせいだろうか。心配してくれているのはありがたい。でもそうではなくて学校は本来行くべきところで、行けなくなっているのは問題だとしているのが学校側のスタンスに見える。
どこの学校でも、そのように「不登校」になってしまう児童を問題視する傾向にある。なんとかして行けるようにしようというのが学校のスタンスで、でもいざこのような事件が起きた時にはそのようなことに言及することはない。
あくまで「生徒が学校でどのような生活をしていたのか」ということを伝えるだけ。
学校側にとっては生徒が学校に来ていることは当たり前という前提のもとで生徒の話をする。生徒が本当は学校に行きたくなかったんじゃないかということを考える学校は少ないんじゃないだろうか。学校内の人間関係でいざこざになるリスクは大いにある。ぼくら大人の世界にだっていくらでもあるのだ。
まだ思春期で精神的にも不安定な子たちの間にもトラブルになる要素はいくらでもある。それに対して大人の正論で「誰にでも優しくしましょう」なんていうきれいごとを押し付けるのはあまりにも横暴ではないだろうか。
大人自身は嫌いな人や気の合わない人からは距離を取っているのにも関わらずだ。
最悪の場合、大人が職場での人間関係がどうしようもなくなればその会社を辞めればいい。だけど子どもにはそれができない。「転校」という手段はあるのかもしれないが、少なくとも大人の転職ほどに気軽にできるようなことではないのはわかる。多くの場合は家族全員で引っ越しを強いられることにもなるだろう。
そんな状況で、大人の心を持ち始めている中学生が大人の対応をしようとしたとしてもなんら不思議ではない。むしろ親のことを大切に思っている子どもほど心配をかけないようにとか、迷惑をかけられないと考えてしまうのではないだろうか。
一般論として日本のそういった風習も影響している。
学校には通った方がいい。
体調がいいならば学校に行くべきだ。
行けないならば行けるように努力しよう。
ただ漠然とそう考えてしまう自分がいる。子どもの本当の心はどこにあるのか。何を考えているのか。思春期に入っている子どもは、もしかしたら本当のことも話してくれていないのかもしれない。
日々、そのような不安を抱えながら、ぼくは娘のことをいつも考える。
これからの進路にしてもそうだ。
「高校にも行けるなら行っておいた方がいい」というのは簡単だ。
だけど本当にそうなのか?その根拠はなんなのか?今のぼくにはそれを明確に答えられる自信がない。
それでもやはり親としてぼくが娘にしてあげられるのは、彼女の考えを信じ、意見を信じることだけだ。
彼女が本当にやりたいことは何か?
彼女が本当に好きなものは何か?
彼女が本当になりたい姿はどんな姿か?
それをいつも大切にしてほしいと願っているし、伝えている。
親としてもできることは限られている。
人間は常に間違える動物だ。ぼくも、娘も。
それを前提にぼくたち人間は今日も、明日も生きていく。
この先に何が待っているのかは誰にもわからない。
わからないからこそ、人は人を信じるしかない。
おわり
(2021.12.15)
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