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菊と刀
兵士は消耗品
自由と平等を信じない
民主制を受け入れると思わない
フランス革命と正反対
悪の概念がない
浮気は妻個人の問題
恩は借金
幸福を追求する気がない
この本を私は図書館で借りたのだが、出てきたのはなぜか対訳版という、そして簡訳版というなんだか胡散臭いものだと言っておく。
ざっと読んでいてもかなり厳しい言葉が並んでいる。私は本書の評価をネットで見たりしないが、反感を買ってるだろうなとは想像できる。多分、間違ってるとかアメリカだって侵略してるとかそういう筋違いな反論だろう。
読んでいて思うのだが、日本人は強情で間違いを認めない。
そして他人の事や国のことは饒舌に喋るが、自分の事を言われるとムッとして黙り込む。
自分ルールを外の世界に押し広げていくが、それが分かってもらえない時頭をかしげる。だからこそ他人からの評価が大切なのだが受け入れる気持はサラサラないのだ。
本書の感想を書くなら、戦争について、或いは日本人についてという2種類に分ける必要があるだろうが、相互に密着していて雑多にしか書けない。
戦争については例えば、
さらに日本軍の態度に関連した事柄があります。その一つは、彼らが自らの部下の命を大切に思っていないように推測できることです。(中略)戦争中、日本軍は最初の救命措置を行う救助部隊の訓練を完全に怠っていました。傷病兵を収容する病院のシステムもないのです。
p30
兵士や民間人に手榴弾1つ渡して
「自爆して来い」
というのが大本営の作戦である。ふと沖縄戦を思い出すが沖縄の人が日本人を内地人と呼ぶには奥深い意味があるのだろう。なんくるないことないのである。ともかくこの事から戦陣訓、教育勅語があって天皇に対する忠義という名目で理不尽な医療体制もない軍隊がバタバタ倒れていく。
前線の兵士からするとただのファナティックだが、学者が説明するとスッキリ分かる。余談だが、ファン――英語ではfan――というのは今だと「推し」ということだが、これはfanatic、つまり狂信的という言葉からきている。
一億総天皇推しだった時代があったということだ。
AKB推しがただの狂人集団であるのと何も変わらない。ウクライナではカミカゼドローン(kamikaze drone)がかなり使用されているという。インドネシアの辞書にromushaという言葉が未だにあるそうだが、日本の世界に与えるイメージなんてこんなもんだと思う。
英語の著者のwikiを見ると書かれてあるが(日本語には書かれてない)、著者はルーズベルトに対し天皇制を残すことを進言したという。著者は日本が自由と人権を受け入れると思っていないし押し付けてもダメだという。もちろん共和制にするなど論外、というわけだ。もし仮にそんなことをしてしまったら、彼らは絶滅するまで竹槍で抵抗するだろう、ということなのだ。
天皇の号令で始めた戦争なのだから天皇の号令で終わらせましょうね、というアドバイスである。
そして事実、そうなったのだからいやはや感嘆せざるを得ない。釈迦の掌で踊る孫悟空のようなものである。
明治維新の分析も読むに値する。
これは10世紀に回帰する運動でフランス革命とは正反対、かつての外様大名が政権を奪取したのが明治維新だとハッキリ書いている。
新政府のこうした変革は不評でした。1868年から78年までの間に、190回にのぼる百姓一揆が起き、政府は一般人に対する課税率の引き下げを余儀なくされました。それほど一般民衆は抵抗したにも関わらず、政府は学校を建設し、国民に徴兵制度を押し付け、賤民を他の階級と平等に引き上げます
p58
維新と言われると何か新しいものだと誤解されないが、実際は900年も時間を巻き戻すスローガンだったわけである。つまりこういうことだろう。頭の中身は平安時代に戻し、外側の鉄道軍事船舶技術と徴税システムだけは近代化したのだ。
日本人には、「忠の領域」、「孝の領域」、「義理の領域」、「情の領域」があって、明治からの教育ではこの「忠の領域」を中心に据えた教育を行っていた。その形として恩賜のタバコや、菊花紋の入った三八式歩兵銃があるのだ。
誰もが天皇の赤子であって恩義を感じるよう洗脳していた。家族制度から国家に至るまで階層的なカースト制度があり、その中で日本人は自分を位置づけ安心する。家族ではこういう立場、社会、共同体ではこういう立場といった具合に最終的に天皇を頂点としたのである。
坊ちゃんの話しが出てくるが、校長が学校に火事があって天皇の写真を燃やしてしまったために自殺した例もかなりあるそうである。
恩義の話しも当然ある。
ハチ公のハナシは学校の教科書に載っていたようである。この忠というのは言うまでもなく天皇への忠義を教育するためである。単なる飼い主とペットの愛情物語なら、別に軍国主義下の日本で持ち出す必要がない。
恩とは上から下へ与えるものであり、一生返せない負債なのだ。
社長が社員に、先輩が後輩に与えるのは恩である。それは一生返せない借金である。だから「わが師の恩」なんていうのである。
このように日本人の階層社会と戦争は密接にリンクし、利用されていた不可分な社会体制である。
日本人が何を美徳かとするかを赤穂浪士という江戸時代の物語で説明する。将軍に対する忠、主君に対する義、この狭間で揺れ動く葛藤を美徳とするのだが、
西欧の人は、人が古い習慣にあらがうとき、そこに強さを見出します。日本人はそれに従うことに強さを見いだすのです。
p136
日本人がメロドラマ好きなのがよく分かる。
くだらない人間関係で義理と人情に挟まれる話しばかりである。カゴの鳥がカゴの中で一生辛い辛いと言いながら死んで行くのが好きなのだ。絶対にカゴから出ようとしないのである。
性についても興味深い。
アメリカ人にとって、特に理解に苦しむのが、日本人の愛情と性とに関する感覚です。日本人は、その概念を妻にたいするものと、そうでない部分に分けているのです。そして、そのどちらも同じようにおおっぴらで、どちらも受け入れられるものなのです。
p114
さすがにこれまで女性蔑視というやり方が西欧には合わないと自覚した明治政府は、男女の平等というものを法律に当てはめようとしたが、それは日本ではすべて失敗だったと言い切っている。夫の浮気など妻個人の問題にすぎず、妾を持つのも別に当たり前の民族なのだ。彼らの間に個々の愛は存在せず、分相応であれば何をしてもいい、それが日本人の西欧人には理解しがたい貞操観念だと、ハッキリ書いている。
セックスに対する罪悪感がないのは、個々の精神に悪がいないから。スサノオは西欧から見れば悪神だが日本人にはただのいたずらっ子としか見られていないことからも分かる。精神は磨かれるものであり魂は修練によって鍛えられる、だからこそ心に悪は存在しないのだ。
これを読んで暗然とした気持ちになる、というのが正直な感想だ。色んな事が頭をよぎる。フランス革命からの人権思想だとか、年功序列が崩壊してるとか、戦争についての悲惨な体験とか、日本特有の差別意識とか、本当に色々だ。
学者がアリの巣を説明するがその内部にいるアリとしては穏やかな気分ではいられない。丸山眞生の言う「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」とはよく言ったもので、上の責任や負担がどんどん下に降りてきて下のものが苦労するだけの、支配者にとって極めて都合のいい社会だという事になるからだ。国家は普通、軽工業から発達するという。それは国民の生活を豊かにするからだ。しかし明治政府がひたすら重工業にのみ金を注ぎ国力を上げたのも、対外的な脅威をうたい文句にしてるものの実質は自分の権力を確固たるものにするためである。そしてそのしわ寄せ――抑圧の移譲――は弱い国民になすりつけて――均衡の保持をするのである。
よく日本人は海外の脅威というのを宣伝するが、明治維新の時、ロシアやイギリスはクリミア戦争、アメリカは南北戦争があって日本に対する政策は後回しだった。日本が中国のようなアヘンまみれにならなかったのは、彼らがたまたま自国の問題で手が回らなかっただけで、実際の脅威は存在しなかったのだ。欧米列強の脅威が果たしてそこまで切実にあったか、という視点も必要ではないか。そもそもなぜ日本がアジア独立を手助けしようなどという発想になるのか。要するに明治政府も欧米と同じように植民地が儲かるという思想を輸入しだだけとしか思えない。。。
軽工業が発達しないということは小ブルジョア――市民からの小金持ち――が出ないという事に繋がる。こういう層が出たからこそフランスでは選挙権の獲得とかそういう近代化のプロセスを踏むことができたのだが、日本ではそれがなかった。よく選挙に行かないというハナシが出るが、選挙権を上から与えられた意識ではその歴史的経緯も分からないしその重要性も分かるわけがないのである。
その結果が舗装された道路やビルが整然と並ぶ近代都市でありながら、中身は農民のままというバランスの悪い国が出来上がった――としか言いようがないのである。
――だからどうするのか、というハナシではないだろう。小林多喜二の「党生活者」のように活動や批判したところで結局上手く行かないのだ。
ただ個人レベルでの付き合いややり取りで思うのは、精神に悪がないという妙なロジックをそのままにしておきたくないなぁ、と思うくらいだ。それだって一生かけて試行錯誤したところで正しいか正しくないのかすら分からないと思う。多分、日本は水と山と海に囲まれた恵まれた土地なのだ。それだけでも十分有難いことなのだろう。問題は私が海にも山にも無関係な都市に住まざるを得ないということだが。。。