ソラニンが憧れじゃなくなった
大学生のころ、ソラニンという映画が好きだった
映画をあまり見ない私が唯一、何回もリピートして見た映画だと思う
もちろん漫画も買い揃えていた
私はとにかく憧れていた
ソラニンの登場人物に、ソラニンの世界観に
何者かになりたい、でも何者にもなれない2人
それでも学生時代の幻に縋って足掻く
なによりいつも味方でいてくれる恋人がいる
そんな恋人の死という悲しみ
悲しみを背負って音楽に昇華する姿
私もこんな人生が送りたいと思っていた
誰かに、何かに人生をめちゃくちゃにされたくて、誰かと、何者かになりたくて必死に息をする、そんな人生を生きたいと思っていた
そしたら自分の命が燃え尽きたとき、人生を生きた!と思えるだろうから
今、26歳になって、芽衣子さんの歳を追い抜いたのかな、作中に年齢って言及されていたっけ
まあなんでもいいんだけど、多分同じくらいか追い抜いてみてソラニンは私の憧れではなくなった
憧れから、共感みたいな、どうしても色々わかってしまう自分がいる
この歳になるとだいたいの人間は、何者にもなれないことはわかっている
主人公の2人だってきっとそう
20歳の私からは、本気で何者かになりたくて足掻いているように見えた姿は、26歳の私からは、本当のことなど全部わかっているけど、現実を見るにはあまりに辛すぎてなんとなく逃げ惑う姿に見える
友人はどんどん就職し、堅実な道を選んでいる
それも上手く選べない、選びたくない
交際して6年経ってもなかなか結婚できないし(結婚が全てじゃないけどね)、お金はないし、でも恋人は大好きだし離れがたい、この状態1番辛いよね、って
そしてこんなことを言ってしまう
最低の男である(褒め言葉)
乱されてばかりじゃ生きていけない、理想だけじゃ生きていけない、それをわかってしまった今、もう一度見返したらどんな感情を抱くんだろう
私も何者かになりたかった
なれなかった
でもそれが大多数
芽衣子さんが会社を辞めた日の帰りの電車
西陽が差し込む瞬間
自分が電車に乗っていて西陽が差し込んでくるといつもこのシーンを思い出す
わたしはつまらない会社員になっちゃった
口では色々言いながらも、それで良かった、それが良かったのかもしれないね
なんてムスタングを聴きながら思う
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