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「SAKAMOTO」でクレモナは世界を目指す。
10月のレックが終わった後に書き始めたこのnote。やっとひとまず書き終えることが出来た。このあとこのページをハブに、動画解説などもアクセスできるように作っていくつもりだ。
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『クレモナ』としては2年越しとなるレコーディングだった。
私としては2回目のピアノも使ったレコーディング、というよりピアノがほぼほぼメインのレコーディングとなった。
坂本龍一、という作曲家に取り組むようになって1年半。心の底から突き上げるような感動や情動ではなく、音楽という芸術の美しさそのものを愛で、表現する喜びを感じている。壮大なドラマや雄大さに圧倒されるのではなく、より小さくて儚く美しいものを味わい嗜む感覚。今までの自分にはなかった休符の捉え方に気づく。
彼の作品は余白までもが完璧だと思う。
レコーディングで学んだ「絶対」
どこどこの指揮者とオーケストラのいついつの録音はどうだったが、昨日の別の指揮者はどうだったとか、クラシック音楽には基本的には余地がありすぎる。というより、作られたのが前すぎるのと、それを演奏する人たちが古今東西多すぎて、演奏に様々なバリエーションもあれば、解釈もあり、併せて時代の流行スタイルみたいなのもあり、ある意味よっぽど真逆なことさえしなければ、許されてしまう。作曲家にショパンと書いてあるだけで、どんな演奏でも基本的にはなんの疑いもなくショパンだと思って聞くだろう。もはや作曲家が絶対というよりは、作曲家の名前が絶対というレベルだと思う。
坂本龍一さんの作品は違う。作品が絶対であり、彼の演奏が絶対である。もしかしたら昔はベートーヴェンもショパンもそうだったのかも知れないが、これほど時代を超えてしまうとどうしても薄まってしまう。
絶対的なそのタイム感、その休符の捉え方、そのテンポ、そして、管楽器ではかなり厳しいことであるが、そのバランス(あるいはピッチ)でないとその曲に違和感さえも感じてしまう。
特に千のナイフ、戦メリ、アクアはその傾向が強く、しかも「1発録り」でないと整合性が取れない。メンバーの音楽的な緊張感がきっとひしひしと伝わってくると思う。慎重にかつ可能な限り表現をしていく。坂本龍一の音楽が持っている、波の相関性(今寄せる波は、今引く波と相関性があるが、30分後に寄せる波は今引いた波とはほとんど関わりを持たない)のような表現は、私たちを下手したら無意識のうちに曲の終わりへと誘ってしまう。
だからこそ意志を持って、自分たちで決定する、自分たちの出す音に隅々まで責任をとる、ということがとても重要となっており、今回はかなり重たくのしかかっていたテーマとなった。
曲順も絶対である
今回はピアソラの作品(組曲や作品群)とは違って、坂本作品のアラカルトになるので、曲順についてはかなり慎重にならないといけなかった。ライブのセットリストもそうだが、どうやってお客さまに届けたいか、どういう風に感じてもらいたいか、ということと、曲同士の整合性や非整合性を考えながら曲順は考える。だから、それだけで一苦労である。
今回、私の中では「aqua」で必ず終わると決めていた。そうなると自然に「戦メリ」は冒頭になった。クレモナだけの演奏から色々な編成での演奏となり、そして4人の演奏に戻る。最後はピアノで締めくくるのだが、「aquaの最後の音は絶対にペダルじゃなくて、手で切りたい」と強く思った。
最初と最後が決まると、必然的に中身の曲の順番が決まった。坂本龍一という人の作品をクレモナが必死で演奏する。
そこから生まれてきたイメージを確実にお客さまに届けるには?
それぞれの曲への思い入れはそれぞれにある。どれが一番好き、という愚問よりも、どれも必死に考えたからこそ出てきた客観的な視点がある。
この時代、配信などで無作為に音楽が並べられる。またはAIの勝手な選曲でピックアップされ、全く関係のない曲と合わせられ、雰囲気作りがなされてしまう。だからこのフィジカルなCDというメディアは、本や映画と同じく、きちんと「作品=アルバム」として作りたいと思った。これはもしかしたら坂本龍一さんのアルバムを聴き込んで、自分の中で出した答えなのかもしれない。
個人的に。「tango」のこと
これは私個人のnoteだから言えることなのだが、今回3曲目の「tango」はこの坂本作品を取り組むきっかけになった曲である。ピアソラをオマージュしたであろうこの作品は、ピアソラの「Solitude」と同様の進行を持ちながらも、坂本臭いのが魅力だと言える。同じリズムの繰り返しから生まれる韻と不思議なグルーヴ。歌詞にあまり意味を持たせないようにというのが監督の指示であったが、2番の「甘い闇よ」3番の「風の叫び」というのはライブでも少し息の量を増やして歌うように心がけている。
大貫妙子さんと坂本さんの「UTAU」ライブ音源を聴いて、この曲と出会ったので、やはり一番最初の印象である大貫さんの歌をトレースしてしまいそうに何度もなった。(というより最初は真似から入った。)しかし、やり込んでいくうちに、自分の声への恒常的否定も相まって、それは私の出す答えではないと思った。
今回のレックは私にとっては自分の声と向き合う時間となった。発音、音程、自分の声の何が嫌なのか、自分の声の何が弱いのか。逆に、何がよさなのか。ファゴットでは積み上げてきた当たり前のプロセスを、歌では遠ざけていた自分がいるので、30にしてその部分を直視する作業は気持ちの良いものではなかった。
ただ、全世界のだれでも私の声にアクセスできる、と思うと、そこからは逃げられないと踏み堪えて前進することにしたのである。
結局、本番は、文字通り「First Take」となった。色んな時間の都合上録り直しは許されなかった。実際上がってきた音源を聴いて、意志の強い部分と弱い部分の表現の差がこんなに顕著になるのだと、管楽器アンサンブルではあまり気づくことのない課題の発見となった。
もし、許されるのならば、また、歌のレックはしたい。幼い時からそもそも歌が好きだから音楽が好きになったし、歌うことは私にとっての原点だと思えるから。歳を重ねて出来ることも歌ならばあるのだと思う。
このCDを通してどうなりたいか。
正直なところ、やっと音源が出来た。と言ったところである。クレモナの活動スパンとしては、新曲ができて1年以内にはレコーディングをしていた気がするので(そうじゃないこともあるが)1年半での仕上げというのは期間が長かった。
演奏家にとって音源は名刺代わりになる。今の自分たちがこういう演奏をして、こういうことがしたいんですよ、というのを伝える大切なものである。
そうなったときに、1年半前の自分と今の自分の感覚に変化があるのがわかる。なんというか、より音楽に対して、坂本龍一という人に対して、深い理解をしたいと思うようになったと思う。
より考えが固まってきたところで、というか、自分たちのやっていることについての理解・言語化ができるようになったところで、このリリースとなる。きっと、この「SAKAMOTO」の魅力を今まで以上に語れると思うし、それは私たちクレモナの今について、意思について語れるということだと思う。
私は、この音源を持って世界に出たいと思う。こんなことができる室内楽のユニットが日本にはいて、彼らはサカモトの作品をこんな風に演奏している、ピアソラをこんな風な新しい解釈で演奏している、と認知されたいと思う。そして、「ライブを見てみたい」と思ってもらえれば…と願っている。
とにかく…私たちにとっての重要な岐路であるのは音源を聴けば本人たちが誰よりもわかっている。一か八かの賭けみたいなしょうもない軽はずみなことではなく、確かにクレモナという確固たるアイデンティティが存在していると言える。
だから、ぜひ聴いてほしいんです。まずCDを買って。それで、配信でよりアクセスしやすい環境で聴いていただきたいです。なんというか、スピーカーで聴くことも、ポケッタブルに聴くこともできるのが、私たちクレモナの音源の魅力だと思う。これは、チームクレモナだからできること。
年内100枚、を目指しています。そう、今日・大晦日であと6枚、売りたいんです。何卒、よろしくお願い致します。
20241231