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フォーティンブラス観劇感想

ごきげんよう、ぴ〜です。

 この前佐々木大光くん主演の舞台「フォーティンブラス」を観劇しました。
 一回しか見ていない状態で見たまんまの感想を書き殴ってますので、セリフはニュアンスです。あと、考察はあくまで私の勝手な考察なので、ひとつの感想として捉えてほしいです!


・まず始めに言うと、登場人物の誰にも共感できなかったです。強いて言うなら和馬可哀想。1番好きなキャラはオカマニキ。
・共感できなかったからといって面白くない訳ではなくて、話は集中して見られたんで展開がみごたえあったのかも。というか、こんなに感想出てる時点でイライラしながらもハマってる。
・いつも7 MEN 侍(好きな男)が見られる!という気持ちで演劇を見てる節があったんだけど、今回は1人の俳優の佐々木大光を見てる気分でした。だから感情移入できなくてもどかしく思ったんだな。これほどまで1人の俳優として魅せることができたのは、劇の主題(どんな立場だろうが演劇をやりたい人たちの集まり)のコンセプトを上手く消化できた大光の努力の賜物だと感じました。
・「演劇の端役であろうとプライドはある」もテーマだったと思うんですけど、それをよりによっていろんなジャニーズにやらせてきたの皮肉すぎてやばい。
・かといって、別に坂道やジャニーズが主演をやること自体を否定する内容ではなく、むしろ「私らも私らでプライドはあるし泥臭く頑張ってんだよ」みたいな内容だった。ヒールの黒沢ですら野良犬と呼ばれても奥底には演劇魂があることが描かれていました。
・なので、演劇をマジでやろうとする者は演劇の神様が応えてくれる的な玉代のセリフがジャニーズも坂道も主演も端役にも言えることだなと感じました。
・登場人物には共感できなかったけど、主役を喰うくらい光る脇役がいるというのは私の数少ない鑑賞体験の中でも理解してて、岸田和春もそういう人だったんだろうけど本人が納得せずに亡霊になってたのが切なかったです。名脇役として地位を確立してても本当は誰しも主役をやりたいのかなと思わせるメタ的な話でした。
・突如流れるBelieve Your Smile は初代草なぎさんと共演したイノッチのグルの曲だから流してるのかなと思ったけど、意外とタイトルと演劇が合ってる。刈谷さんに羽沢が「太陽の笑顔が似合う〜、紐なしバンジーしても笑ってる君が良い」的なところで流れるのとかピッタリでいいなと思いました。
・ハムレットは恥ずかしながら読んだことなかったんですけど、そんな私でも話の大筋を理解できたので書き換え戯曲として名作である理由が分かりました。あの難しそうな古典作品のワンシーンをここまで説明っぽくならずに分かりやすく組み込むの素晴らしいです。
・結局、亡霊は一度たりとも本来の岸川和春に戻ることは無くハムレットの世界観のまま消えていきました。私は本当の息子になんか一言くらい欲しかったというのが本音です。しかし、実の息子や愛人がいても関係ない、死してなお役を演じることを全うする俳優、岸川の凄さが際立った演出でもありました。
・そんなお父さんの俳優根性を見せられた和馬が今後どんなキャリアを歩むんだろうか気になります。あれは、父親の演技が大好きだった息子からすると見たくない一面だったはずです。自分の父親が亡霊になり狂気的ななりきりをしており、自分で自分のことを否定する姿(二流の息子は二流、端役が主役のハムレットなんかに1人で敵うかなどの発言、ハムレットになりたがる姿)は、これまでの父親像、そしてその血を継ぎ同じ道を行こうとする和馬にとって胸が痛くなるセリフです。少なくとも和馬は端役である父を認め愛していましたから。そして、彼女を主役に寝取られて助けることもできずに役を下されるというかなり屈辱的な体験が彼を襲ってきます。さらに言えば、公演期間中に共演者が亡くなるというショッキングな出来事も。他の登場人物にはまだ役者としての未来が見えるエンドでしたが、和馬だけはちょっと立ち直れそうにないレベル。なんかハムレットが終わった後に俳優引退してそうな儚さを感じたのは私だけ…?
・これは私の考察なんですけど、玉代さんは自分が知らないうちに演劇の神様になってたんじゃないのでしょうか。どんな端役であろうとコツコツと経験を積み上げてきた彼女。演劇とは何なのかについても「ふざけすぎてはダメ。かといって真面目にしすぎてもダメ」と明確に答えることができ、その貫禄から周りからは『劇場の主』なんてあだ名がつけられていました。
・最終的に亡霊が成仏できたのは、復讐ではなくハムレットに全員が真剣に取り組み演劇の神様が褒めてくれた時です。そして、玉代さんはその全てを見届けて納得するかのように亡霊の手を引き、自らも息を引き取ります。
 玉代さんが納得する演劇をみんながする→そこに自分はいない(神様になりかけてる)→亡霊の手を取り亡くなる(まるでお釈迦様みたい)→今まで誰の声も届かなかった亡霊をいとも簡単に冥土の道へ連れて行く
この流れで私は玉代さんが劇場の主どころではなく、劇場の神様になっていたのではないかと考察しました。そして、劇場の神様は死しても役をなりきった亡霊のことも褒めて成仏(役をおりること)を許したのではないでしょうか。
・分からなかった点は二つあって、一つ目は、亡霊が視える人と視えない人の違いはなんなんだろうかです。
・亡霊いわく、ノルウェーの血を継ぐ者は視えると言っていたけど、それは違いそうで、あの場で恵子ちゃんだけ見えない理由はなんだ?
・二つ目は、なぜフォーティンブラスを和馬にやらせなかったのかということです。言い方を変えると、羽沢というキャラの必要性です。
・脚本として、フォーティンブラスを和馬にやらせた方がわかりやすいですし、テーマの一つである「父と子」にも添いやすいです。あえて、和春と何の因果も無い羽沢という役がフォーティンブラスを演じた意味とはなんだったのでしょうか。そして、物語の主役が羽沢である意味とはなんだったのでしょうか。例えば、ありがちなのは亡霊は自分(羽沢)にしか視えず、死者と生者の仲介人をしているパターンです。しかし、亡霊は恵子ちゃん以外ほぼ全員に認識されています。
・では、羽沢というキャラクターは一体なんだったのでしょうか。
私は、「無個性がゆえに光るフォーティンブラスの演技」かと思いました。
・羽沢はいい意味で劇中掘り下げがありません。和馬みたいな因縁を抱えている訳でもなく、道化みたいにお笑いができる訳でもなく、刈谷さんや黒沢みたいに強烈な経歴と個性がある訳でもないです。父親も元気だしアルバイトしながら頑張る、つまり演劇界に腐るほどいる「演劇好きな青年」という無個性な青年です。劇中に、スター性という言葉が出てきましたが残念ながら羽沢はそれを持ち合わせていません。しかし、この劇中ですら掘り下げをされない無個性な青年が最後は演劇の神様に微笑まれて、立派にフォーティンブラスを演じきります。その姿こそが、主題である「端役だろうと頑張る」を1番体現していると言えるのではないでしょうか。つまり、羽沢という役は端役でい続けるために主演でありながら劇の真ん中にいてはいけなかったのではないかと考察しました。
・主題が主題なので、カーテンコールでは全役者に拍手をたくさんあげたい気持ちで包まれました。全員で作る演劇、アンサンブル。
・あと実はグッズ販売の時からすでに演劇が始まっていたのも新鮮で面白かったです。
・この作品の初上演はおそらく1990年ですが、当時の演劇界隈のことを皮肉ったんですかね。もしそうだとしたら、34年経った今、どうか少しでも界隈全体の雰囲気が改善されてることを願うばかりです。
・この役を大光くんがやって何を感じたのかも気になります。大光くんは舞台経験が増えてきてこれまでもいろんな役を演じきりました。いち舞台人としてどう考えたのか、彼の今後が楽しみです!

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