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迷子散歩

 時々自ら迷子になることが、人生には必要な気がしている。知らない道を歩く。地域の住人たちとすれ違う。自分が浮いている気がする。少し丘になっている坂道をいく。何か素敵なものが待っている気がする。と思ったら、さっき通った道に戻っただけ。行ったり来たり、長い時間をかけて歩く。非効率。不必要。

 「どこか余計な部分のある家で育たないと、子どもは馬鹿になる」と書かれていたのはどの本だったろうか。10年以上前のノートに書き残した言葉が、いまだにぼんやりと浮かんでくる。大人にも同じようなことが言えるのではないだろうか。余計なこと。余計なことってなんだろう。大人になると増えていく効率性の話。時々リモコンで消したくなるのはきっと私一人じゃない。心を大きく揺り動かされるのはいつだって、時間のかかる非効率な作業をひたむきに行う人だ。

 迷子散歩ではケータイのマップなんて見たらいけない。もうここがどこだかわからないと、あきらめそうになっても耐え凌ぐ。五感を使いながら、右か左か決めて歩き続ける。今朝読んでいた小説に出てきたunfamiliarという言葉が妙に心をノックした。普段ならあまり付き合いたくない言葉だが、今日は不思議とゾクゾクするよい響きに感じた。そうして角を曲がったら、目に飛び混んできた。あの知っているタイ料理店。ずっと読んでいた推理小説の犯人が、こんな身近な人だったのかと衝撃を受けるような幕の閉まり方。それが迷子散歩の終わりである。

#迷子散歩 #unfamiliar #意味を考えない意味