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拝啓 金子みすゞ様

突然のお手紙で失礼致します。

子どもの頃に、みすゞさんの文章を教科書で拝読しましてから、ずっと心に残ってている者です。

この度、みすゞさんの故郷であります仙崎を訪れることができまして、この気持ちを文章にしたためたいと思い、筆をとる次第です。

11月とはいえ、夏の気配をほのかにまとった仙崎の最初の印象は、とても静かで穏やかなものでした。

長門駅に到着した時から、みすゞ通りと名前のついたまっすぐで平らな道を歩く時まで、みすゞさんの詩をたくさんお見かけしました。

みすゞさんの詩は、子どもであった私にも、大人になった今の自分にも、等しく読みやすく、そのぎゅっと詰まった文章に、足をとめた、目を合わせた、そのひととき。私は何度でも貴方に出逢うような気がしています。

ふと陽だまりの中、みすゞさんの優しいまなざしが、地面をちょこちょこ飛びまわる小鳥を追いかける姿が、私の中に浮かび上がってきます。

みすゞさんの詩を読むということは、溢れんばかりの優しさに触れることだと感じています。

幼い頃、人から「優しいね」と言われることに、抵抗を感じてしまったことがあります。

他に特徴がないから「優しいね」と言われるような気がしていたのです。

「優しい」という言葉が多用されるほど、あまり意味のないものになっていくような気もしたのです。

でも恐らく今は違います。

可笑しな言い方かもしれないですが、「優しい人」にはかなわないと思っています。

人間として生きていく中で、様々な人の優しさというものに触れて、本物の「優しさ」の意味がわかるような気がしてきました。

本当の意味で人に「優しく」いられることは、決してたやすいことではないと、少しずつわかってきたのです。

そうすると自分はまだまだ優しさの足りない人間だとわかってしまいましたが、それでも、自分の中に在る優しさを表現することにためらいを感じる必要は全くないのだと、みすゞさんのいくつもの詩に触れ、生き方に触れ、そう強く感じました。

もう一つ、これは今回初めて感じたことなのですが。

優しさは、温かいもののように思われますが、寂しさを伴うものだと思いました。

そのまっすぐな優しさがいつも報われるとは限らない。
誰かが気が付くとも限らない。

それでも声をあらげることもなく、人をせめるようなこともなく。

静かに遠くを見つめて、ひとり募った想いを紙にしたためる。

それはとても寂しいことでもあると思うのです。

だからこそ、真に優しい人は、強い人でもあるのではないしょうか。

仙崎にあります、みすゞさんの記念館を出て、タクシーに乗ったその窓に見えた花津浦は、輝きに満ちていました。

目尻が熱くなったのは、きらきらと光る海に、郷愁という言葉が重なったからかもしれません。

あの景色を忘れたくないと思っています。

短すぎる滞在でしたが、記念館の方々を含め、仙崎の皆様には大変優しくしていただきました。

言葉はいきものだといわれますが、同じ時代は生きられなかった私の中にも、今もこうしてみすゞさんの言葉は優しく寄り添ってくれています。

このお手紙を書いている今。まだ雪の積もらない札幌のまちで「ジングルベル」という歌がながれている可笑しさを、みすゞさんならば、ふわっと笑ってくださるのかもしれません。

かしこ

金子みすゞ記念館


その日の夕焼け