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【感情紀行記】籠鳥檻猿
最近、ポケポケなどというゲームが身の周りで流行っている。大学でもバイト先でも、ありとあらゆるところでそのゲーム名が挙がり、そのゲームを始めることを勧誘される。しかしその度にこう返す。『3ヶ月後に会った時に開口一番「ポケポケやろうよ」と言えたのならやる。』と。所詮流行りものである。加速度的に流行ったゲームというのは廃れるのもそう遅くはない、という算段である。このような現象を勝手にクラブハウス現象と名付けている。
そんなことを言わずに始めれば良いのだが、色々と始めないのには理由がある。まず、根幹的なものとしては、自分が捻くれているということが大きい。流行り物だから乗るというのがどうも受け付けないのだ。そして、その流行りを先導するほどの力も、乗り切る自信もないのだ。所詮、流行りを人から教えてもらうような立場なのだから尚更である。それならやらない方がましである。他にも、陰でどハマりする危険性があるからだ。流行り物だから乗りたくないと言っても、この手のゲームには頭の良い人が考えた巧妙な仕掛けが施されているのが世の常である。単純人間な自分は簡単にその罠に引っかかる。興味本位で始めたが最後、変に負けず嫌いというブーストが付き、金銭と時間の支出は異常値に進んでいってしまう。こういう人はこの手のゲームやサービスを始めるべきではないし、ましてや流行の途中に、周囲からの紹介で始めてはいけない。しかも、前述したことにも通ずるが、このようなことをつらつらと講釈を垂れている自分だが、飽きるのも一瞬であることを付言しておきたい。
さて、そんな歪んだ世界から物事を自称俯瞰している自分だが、昔からインターネットサービスにお金を払うことを嫌悪していた。自分が最も理解し得ない類の「課金」は、ゲームでの服装を当てるための課金だ。自分よりも時代が数歩先にある人々は、自分の現実の服装を差し置いて、いわゆる仮想世界への服飾投資に励んでいる。自分にはまだ理解すら追いついていない程の遠い先の現実である。高校生時代、そんな友人たちを見て、「所詮そんなの0と1の塊なんだよ」と言っていた数年前の自分と現在も大差がないことには落涙だ。しかし、最近はAIに対する課金という分野も出てきた。こちらはゲームとは少し違い、アウトプットがある。生活を便利にし、仕事を効率化し、ブラッシュアップする可能性を秘めている。確かにある程度は費用対効果は高いのではないかと思い、さすがに課金を検討してしまっている。
そんな中、最近のニュースで、Suicaの情報を使い、顧客の生活を豊かにするというものを見た。とても便利そうだし、最新技術とその民間生活への活用が大好きな自分は、すぐにでも使いたいと思った。その一方、ふと思ったことがある。AIは本当に自らの生活を高めるために、そして自分のために動いているのだろうか。巨大な資本主義社会の中で、そんなはずがないと勘繰ってしまうのが自分の嫌なところである。このAIというものの急速な発展によって、我々は大きな転換点を迎えているのではないかと思う。一人一人の個人が、AIという膨大な知識を持つ得体の知れない何かの情報源の一つとなり、それが認知する「社会」という2文字に括られるような、こちらも得体の知れない集合体の一部となっているのではないだろうか。自分たちの行動の一挙手一投足が情報としてAIの養分となり、データとなっていくのだ。いわば、行動経済学の養分としての大衆化が急加速しているのだ。「私」という個人の情報化が進み、利便性という自由の翼と引き換えに、0と1で表記されるものへと分解されていく。その度に枠組みへの固定が強くなり、いつの間にか社会という檻に閉じ込められ、翼はその檻の中でしか羽ばたけなくなるのだ。所詮自分も、0と1の存在なのかも知れない。