見出し画像

Bar しゃっくり

 夕暮れどきに野良猫が入っていきそうな路地の中ほど、昭和の香りがする長屋と長屋の間にこっそり紛れるようにその店「Bar しゃっくり」はあった。通り過ぎるだけのつもりでその路地に入っていき、そっと入り口を吟味する。バーというのは分厚い扉の向こうにあるものだと思っていたが、洋風のふすまにガラスが嵌め込まれたような扉、それから大きめの窓のおかげで店内がよく見えた。
 ふと、カウンターの中の店主と目が合って、目礼される。その目礼が今の気分にちょうど良くて、なんとなく、引き寄せられるように入店した。
 てっきり「いらっしゃいませ」と、言われるものだと思っていたのに、
「ワオ、驚きました」
 と言われ、知り合いと勘違いでもされているのではないかと面食らう。店主は、そんな俺の反応を楽しみながら、「ここに座れ」と示すように、自分の前の席にコトリと水を置いた。
「たいていの方は私と目が合うと逃げるように去っていかれるんです」
 俺は、店主が水を置いた席におそるおそる座ってみる。
「目が合ってから、入ってきてくださったのはお客さんが初めてです。何になさいますか?」
 店の外で目礼したときとは違う、人懐っこい笑顔。といっても無防備すぎるわけでもなく、客と店主の線引きがきちんとされている、節度のある親しみ。
 店主はしっかりとパーマの当たった長髪を一つにくくって、アロハっぽくない柄のアロハシャツを着た長身だった。
 ずらりとお酒の並んだ棚を眺め、何を飲もうか考えながら、出されたお水を飲む。
「あ、美味しい」
「ミントとかぼすのフレーバーウォーターです。よろしければそちらを使ったジントニックなんていかがですか?」
 今日はいいクラフトジンがあるんです、と店主は言った。
「じゃあそれをお願いします」
 店主はウィンクのような瞬きをして、フレーバーウォーターを炭酸水メーカーにかける。手際よく作られていくジントニックを見ながら(あー、なんか、通っちゃいそう)と思った。
 出されたジントニックは香りが良くて、少しビターで、今日の気分にちょうど良かった。
「好きだったラジオが終わるってきいて、なんか、散歩したくなったんです」
 店主はグラスを拭きながらそうだったんですね、とだけつぶやいた。
 薄いグラスに入った大きめの氷がぶつかり合って奏でる音をもう一度だけ聞きたくて、おかわりをした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?