江戸のバロキスムー刺青浮世絵(『日本の図像 刺青』序文)
文・谷川 渥
刺青は人間の皮膚をキャンバスとする絵画である。絵画ではあるが、しかし描くとはいわない。刺青は彫る(刺る)ものだ。立体的な人体に彫るものではあるが、もとより彫刻ではない。絵でありながら彫る、ここに行為としての刺青の微妙にして本質的な特異性がある。
その彫り方は、墨や朱などの色料を一点一点刺し入れるかぎりにおいて、いわば点描法である。それは西洋絵画におけるスーラやシニャックなどの点描法と軌を一にする。とはいえ、刺青において個々の点は見えるものとはならない。色彩が皮膚に染み込んで連続するからだ。むしろ染み込ませることこそが、刺青の本質である。それは「カラー・フィールド・ペインティング」(色彩の場の絵画)の代表者のひとり、モーリス・ルイスの実践した染み込み画法に似ている。生(ロウ)キャンヴァスにアクリル絵具を流し込むのである。皮膚がまさしく生(ロウ)キャンヴァスになる。
染み込み画法に似ているとはいえ、刺青は基本的に線描的である。線描的であるとは、色面と色面の境界が線としてあらわれるということである。だからそれは、やはり染み込み画法とは明らかに異なる。ルイスの絵のように染み込ませた色彩同士が重なり合うということがない。くっきりと輪郭をたどることができる。
刺青の起源のひとつとしての「文字彫」は、もとより線描である。文字は、「筋彫り」による線描によって成立するからだ。そして線描によって文字ならぬ図柄を浮き出させる、いわゆる「ヌキ彫」が試みられることになろう。「ヌキ彫」は、いわばデッサンないしドゥローイングに相当する。
しかし、郡司正勝「刺青と役者絵」(1976 年)がいうように、「浮世絵が紙を離れて、人間の皮膚に移ったのが日本の刺青であって、それは原始的な黥(げい)とも、また入墨ともちがった、一種の芸術運動を意味している」とすれば、地肌をつぶして色面を成立させること、いわゆる「ぼかす」ことこそが、刺青の最大の眼目となるだろう。こうして「生きた錦絵」が展開されることになる。点で面をつくる。無数の点描による面の形成。この比類のない行為に、刺青に特有の情念がまつわる。
浮世絵が人間の皮膚に移ったのが日本の刺青だとしても、浮世絵と刺青とではやや異なる点がある。それは、刺青の場合にはほかならぬ色彩が比較的に限定されるということだ。
「生きた錦絵」の色彩は、いうなれば基本的に二系統しかない。青(ないし藍)と赤である。色料でいえば、墨と朱である。墨の黒色は皮膚を透して青(藍)色として現象する。他の色彩も用いることもできないわけではないが、結局それも青(藍)か赤に収斂しようとする。刺青は、端的に寒色と暖色の芸術なのである。
刺青の精神的基盤がいわゆる起請彫(きしょうぼり)に発することは間違いあるまい。願い、信条、祈り、あるいはこれはおおむね遊女のあいだでだが、思う相手、約束を交わした相手の名前など、いずれにせよ「起請」すなわち神仏に誓いを立てる文字を入れるのである。起請彫は、それゆえ「文字彫」である。18 世紀後半、宝暦(1751 〜64)以降、明和(1764 〜72)・安永(1772〜81)年間に、とりわけ江戸の俠客、博徒、鳶の者、火消人足、駕籠かきなどのあいだに、こうした起請彫、あるいはさらに小模様の威嚇彫・伊達彫とでもいうべき刺青が急に目立つようになったという。
そこに『水滸伝』ブームが起こった。『水滸伝』は明代初めの成立と推測されるが、宋の徽宗(きそう)の時代、宋江(そうこう)ら百八人に及ぶ反骨の豪傑たちの梁山泊(りょうざんぱく)への結集と、その後の悲壮な運命を描いた大長篇小説である。わが国では安永・天明(1781 〜89)・寛政(1789 〜1801)年間に、これがさまざまなかたちで翻案脚色され、すでに歌舞伎上演されさえしたようだが、ここでまず特筆すべきは文化3 年(1806)から刊行された馬琴訓訳・北斎画の『新編水滸画伝』であろう。挿絵の花和尚魯智深(かおしょうろちしん)の背中に花模様の刺青が、そして九紋龍史進(くもんりゅうししん)の全身に刺青が見られるが、これは「ヌキ彫」であって、まだいわゆる「ぼかし」を入れていない。地肌をつぶす「面」が見られないのである。
文政10 年(1827)に板行の始まった歌川派一門の一勇斎国芳の大判錦絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(ひとり)』のシリーズこそが、刺青浮世絵の真骨頂である。北斎に触発されもしたのであろうが、しかしその武者絵的世界は尋常ではない。画面いっぱいに広がる臨場感、歌舞伎の隈取(くまどり)にも似た強烈な表情、躍動する肉体の迫力とダイナミズム、そしてなによりも絢爛たる色彩の乱舞、まさにいまだ誰も見たことのない、全身彫を初めて絵画化した、文字どおり前代未聞の世界が現出した。松田修は、その著書『刺青・性・死』(1972 年)において、国芳の刺青画を「バロックの極地」と呼んでいるが、これを江戸爛熟期頽廃期幕末のバロキスムと称することができよう。そしてこのバロキスムの意匠は、まったく国芳の創意、独創になるものである。
実際、岩波文庫版『水滸伝』(吉川幸次郎・清水茂訳)全篇に目を通してみても、刺青の描写はきわめて少ないというかむしろ貧弱であることに注意しよう。「銀の皿にも似た顔して、年のほどは十八、九」の九紋龍史進の「総身には青い竜の彫りもの」とあるだけだし、「太っちょの大入道」花和尚魯智深の背中に彫りものがあるといわれるだけである。解宝(かいほう)には「両方の腿にほりもの、二体の飛天夜叉(ひてんやしゃ)」、花項虎龔旺(かこうこきょうおう)には「からだじゅう虎斑(とらふ)のほりもの、くびには虎の頭が大口をあけています」とやや詳しいが、あとは林冲(りんちゅう)も何濤(かこう)も揚志(ようし)も唐の牛公(ぎゅうこう)も武松(ぶしょう)も盧俊義(ろしゅんぎ)も、そして中心人物の宋江(そうこう)も、刑罰として顔に「入れ墨」をされ流罪になった存在でしかない。ちなみに、宋江の入れ墨を「療治」して消す次第も書かれている。「毒薬をさしてから、あとでよい薬で療治しますと、赤い傷あとがもりあがります。今度は、上等の黄金白玉(こがねしらたま)を粉末に碾(ひ)いたものを、毎日擦りこみますと、おのずから消えてしまいました」と。
原作では彫りものをみずから背負う豪勇たちはわずか数人にすぎなかったが、国芳はそれを恣にほぼ三倍、十数人にまで広げた。異様な国芳ブームのなかで、天保4 年(1833)9 月に中村座で上演された中村芝翫(しかん)の「手向山紅葉御幣(たむけやまもみじのみてぐら)」では、国芳の下絵による「くりから太郎」の倶利伽羅龍の刺青が評判になり大当たりをとったという。ちなみに、後世、刺青のことをたんに「くりから」といい「くりから紋々」というのは、郡司正勝の前掲論文によれば、「倶利伽羅が刺青を代表し、竜紋がその王者を占めたからで、これは流行としての水滸伝の九紋竜と、信仰としての倶利伽羅竜が合体したもの」であろうという。倶利伽羅竜王とは不動明王の化身である。
国芳の刺青画は、歌舞伎の世界に波及したばかりではない。威嚇彫や伊達彫に現を抜かしていた俠客、博徒、火消し、鳶などが競ってその刺青画そのものをみずから背負おうとし始めた。すでに刺青を背負う英雄像を、いままた己れの肉体に彫り入れる「二重彫り」という、これまた前代未聞の行為が成立することになった。肉体にいわば画中画が成立するわけである。それは男伊達でもあり威嚇でもあったろうが、なによりも無頼の英雄像にみずからを重ね合わせようとする一種の「見立て」でもあったろう。
ところで、国芳に関係する注目すべき小説に触れておこう。赤江瀑の『雪華葬刺(せっかとむらいざ)し』(1975 年)だ。谷崎潤一郎『刺青』(1910 年)以来の刺青を主題にした小説のなかでも特筆すべき作品である。高木彬光に『刺青殺人事件』(1953 年)があるが、これはあくまでもアリバイ工作として刺青を利用するという推理小説であって、刺青そのものを主題化しているとはいえない。
赤江瀑の小説は、全篇これ国芳讃ともいうべき異色作で、刺青狂いの藤江田の妻、茜(あかね)が国芳の画帳からみずから選んだ彫り物の図柄は、「本朝武者鏡・橘姫「本朝武者鏡(ほんちょうむしゃかがみ)・橘姫(たちばなひめ)」の構図である。こう描写される。「巨大な鱗身を逆巻きおどらせている龍は、獣頭を上からではなく、橘姫の下から立てて襲いかかり、咽笛(のどぶえ)近くで緋色(ひいろ)の口を裂いている。美姫は、その龍の咽元を毅然とつかみ、朱房の芭蕉扇ではなく、抜き身の白刃を髪ふり乱した頭上にふりかぶっている」と。京都二条寺町に居を構える大和経五郎は、彫経(ほうきょう)と呼称される名人彫師だが、茜の背中にくだんの図柄を彫る際に、仰向けになった一人の若者の上に彼女をうつ伏せに寝かせる。つまり男に下から抱かれた女の背に彫りを入れるというわけである。苦痛と快楽の極みに彫りが成立する。その若者、春経(はるつね)の裸体前面には国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』の「水滸伝中無双の剛力を誇る屈強な花形人物」たる「浪子燕青(ろうしえんせい)」の、背にはその燕青と「若い美形を競う怪傑」たる「九紋龍史進」の絵姿が彫られていた。「裸身の若者は、つまり背胸両面から、裸身の若武者に相擁(あいよう)されているかに見える、全身二重彫りの彫り物に飾られていた」というわけである。二重、三重の国芳幻想…。
私はここで「隠し彫り」とか「葬刺し」という言葉を初めて知ったが、この小説は、若山富三郎の彫経、宇都宮雅代の茜、京本政樹の春経の配役で高林陽一監督によって1982 年に『雪華葬刺し』として映画化された。原作に勝るとも劣らない見事な傑作であるとはいっておかなければならない。
特権的に男のものであった刺青が、いつ頃から女の肌に蟠(わだかま)るようになったのか詳らかにしない。「白波五人男」のひとり「弁天小僧」あたりが、象徴的な転換点といえるのかもしれない。いずれにせよ、女の刺青は比較的新しい現象であろう。しかし、男であれ女であれ、本来、刺青が非日常的・異端的な「輝かしき悪の華」(郡司正勝)であることに変わりはあるまい。「悪の華」であるからこそ、それは見る者を遠ざけ、かつ惹きつける。その両義性が刺青固有の魅力につながる。
国芳に端を発し、しかもすでに頂点を極めたといっても過言ではない刺青浮世絵は、しかしもとよりその「系譜」をたどることができないわけではない。そのおおよそは、郡司正勝監修・福田和彦編『原色浮世絵刺青版画』(芳賀書店、1977 年)に収められた福田和彦の論文「刺青浮世絵師の系譜」にほぼ明らかである。
国芳とともに初代歌川豊国門下であった一勇斎国貞(のち三代目歌川豊国)は、役者絵で名声を博したが、江戸末期の俠客、力自慢、美男、毒婦など、さまざまな実在の人物をそれぞれ歌舞伎役者に見立てた刺青画で一世を風靡した。肖像画的な半身像は国芳の武者絵的な迫力と勇壮美に欠けるが、そのスタティックにして華麗な役者見立絵には独特の存在感がある。刺青の絵画化という点で、やはり特筆すべき存在であろう。
国芳門下の異才、これも北斎に私淑した江戸最後の浮世絵師のひとり、月岡芳年(のちに大蘇芳年)は、時代の狂気に照応したかのようなその『英名二十八衆句』と『魁題百撰相』における、いわゆる「血みどろ絵」「無惨絵」でとりわけ有名だが、わずかながら刺青画にも手を染めている。やはり国芳的なダイナミズムには欠けるが、精緻極まりない写実的な描刻には注目すべきだろう。それにしても芳年の「血みどろ絵」は、国芳の武者絵の踏襲という側面があるとはいえ、ひょっとしたら師が刺青でやったことを血でやろうとしたのではあるまいか、私にはそんなふうに思われもする。色料を皮膚の下に刺し入れて図柄を浮き出させるのが刺青だとすれば、血は皮膚を破り外に溢れ出て皮膚を染めるものだ。そうして皮膚あるいは肌・衣装・血の綾なす絢爛たる図柄を構成することになる。これが芳年に刺青画そのものが少ない理由とはいえまいか。
落合芳幾(よしいく)、豊原国周(くにちか)、歌川芳艶(よしつや)、そして歌川芳虎(よしとら)は、いずれも江戸末期から明治にかけて活躍した歌川派の浮世絵師である。国芳、国貞、芳年の系譜を引きつつ刺青画の芸術化に貢献した彼らの作品と師兄のそれとの微妙な異動をお確かめいただきたい。
刺青は、皮膚を徹底的に視覚的対象と化す。皮膚は、ひとえに眼差(まなざさ)されるものとなる。触れ、あるいは触れられるという皮膚に固有の相互性は、刺青によっていわば括弧に入れられる。皮膚は、刺青によって完全に対自的かつ対他的なものとなる。対自的とは、見られている自分を意識すること、対他的とは、自分を見ている他者を意識することである。意識化された皮膚のことを、日本語では「肌」という。肌の対自性・対他性は、おのずから触れ、触れられることを含意している。刺青の対自性・対他性は、しかし、見せ、あるいは見られることに結びついている。刺青は、対自性・対他性を変質させてしまうといってもいい。触覚性と視覚性とのこの微妙な乖離こそ、おそらく刺青のエロティシズムの本質である。
いま街に出ると、そこかしこに腕や肩や脚にタトゥーを入れた男女に出会う。刺青は気楽な人体装飾のひとつとして定着してしまったかのようだ。起請彫、あるいは伊達彫とも威嚇彫とも似て非なる、エロティシズムとも無縁なアクセサリーのようなタトゥー。松田修は、「刺青は無頼異端の徒のものである、あらねばならぬ」と書いていた。「顕在化してはならない秘儀である」と。いまや「悪の華」どころではない。時代の趨勢というべきだろうか。ともあれ、こうした嗟嘆に多少とも共感を覚えながら、比類のない江戸のバロキスム、正真正銘の刺青芸術、刺青浮世絵を眺めることにしよう。
(たにがわ あつし 美学者)
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