映画『成功したオタク』を観て


すっご〜〜〜い久しぶりの投稿です。
前回の記事で「心に残った作品について書いていきます!」と大口をたたき、「1作品目」で終わっているところも自分らしくてわろてしまいます。ほんとうに気分屋さんですね、ワタシ。がんばってくれ、ワタシ。笑

先日、映画『成功したオタク』を観てきました。
なかなかスケジュールが合わなくて。でもどうしても観たくて観たくて、ぷち遠征してきたのですが、結果「この作品を観れて、本当によかった」と心から思える作品でした。
ーーというのもワタシ、2007年8月から「オタク」をしており、その後約17年(年齢バレてまうって)なにかしらの界隈のオタクをして生きてるんです、・・・17年?!!!!!!!!ええ。数えてみたら、こわいですね( ◜◡◝ )今は空前の「推し活ブーム」真っ只中なので、しがないオタクの感想になってしまうかもしれないけど、いま、自分のこころの中にある感情をどこかに残しておきたい、という気持ちが湧いているので、勢いで綴っていきたいと思います。
※一部ネタバレを含みます。

あるK-POPスターの熱狂的ファンだったオ・セヨンは、「推し」に認知されテレビ共演もした「成功したオタク」だった。ある日、推しが性加害で逮捕されるまでは。
突然「犯罪者のファン」になってしまった彼女はひどく混乱した。受け入れ難いその現実に苦悩し、様々な感情が入り乱れ葛藤した。そして、同じような経験をした友人たちのことを思った。
好きだから幸せだった。好きだから苦しい。
信頼し、応援していたからこそ許せないという人もいれば、最後まで寄り添うべきだと言う人もいる。ファンであり続けることができるのか。いや、ファンを辞めるべきか。彼を推していた私も加害者なのではないか。
かつて、彼を思って過ごした幸せな時間まで否定しなくてはならないのか。
「推し活」が人生の全てだったオ・セヨン監督が過去を振り返り傷を直視すると同時に、様々な立場にあるファンの声を直接聞き、その社会的意味を記録する。「成功したオタク」とは果たして何なのか?その意味を新たに定義する、連帯と癒しのドキュメンタリー。

(公式HPより抜粋)

↑太字にしている部分が、私の感情がぐちゃんぐちゃんになったシーン、場面と紐づいているところです。ここから場面ごとに分けて綴ります。

(1)監督であるセヨンさんがキャンバスに向かって推しの絵を描いていくシーン

→「私たちが見えているのは、彼らの一部でしかない。」
ニュアンスなので、全文完全一致ではないんですが、このシーンがもう、胸が張り裂けそうな気分になりました。
当たり前のことなんだけど、頭ではわかっているんだけど、どうしても自分の中でどんどん美しくしてしまう。「依存症と同じだ」という語りも混じっていたけれど、本当にそうだと思う。オタクはこれをぶっ飛ばしてしまうんだ。それは、推しを想い、推しに没頭した時間や想い出があまりにも粒子の細かいハッピーパウダーで溢れているから。
”自分の好き”で推しを捉えて、”自分の好き”で推しを創ってるってね。この当たり前にやっちゃっていることを、飲み込み切れずにいる自分に気付いている自分もいて。わかってはいるけど、気づかないフリしてるんだよね。だから、あまりにも現実of現実的な状況が降りかかってくると、フリーズしたくなっちゃうんだ。ああ、嫌になっちゃうけど、ここは本当に、ぐさぐさ刺さるシーンでした。

(2)セヨンさんとセヨンさんのお母さんが対話するシーン

→「その(苦しい)時期を乗り越えることができたのは、”推し(の音楽)”があったからだと思う。」
これは、セヨンさんのお母さんから出た言葉なのだけど、自宅でひとりで過ごす時間、推しの音楽で不安な気持ちにも打ち勝てていた、というエピソードがあり、自分のオタク人生を振り返ってみても、重なる部分があり、心臓がぎゅううっと挟まれていく場面でした。
その時々の自分にとって、生きていくために推しの存在が”生きる糧”になっていたから”そのときの私には、必要不可欠な存在だった”でしかない。だから、これまでの想い出や抱いていた気持ちを否定することはできないし、否定する必要もないんだよって背中をさすってあげたくなりました。その瞬間、大切に大切に愛おしく感じていた気持ちは、その瞬間をめいいっぱい生きた、という証でもあると思う。だから過去の想い出や、辛すぎる現実や枯れそうなこころをいっぱいに満たし、癒してくれたあのときの感情は、当時の輝きのまま、こころのなかに持っていてもいいんじゃないか、と思えた場面だった。

(3)成功したオタクとは

*成功したオタク:自分が好きな分野で成功している人物や、好きな歌手や俳優に会ったことのあるファンなどを意味する。原題の성덕(ソンドク)は“成功したオタク”の略語。

(公式HPより抜粋)

本作は、監督のお人柄や登場するオタクのみなさん1人1人がまっすぐなのも相まって、一貫してあたたかみのある作品です。ずっとあったかい。オタクじゃなくても、好きな人や好きなことがある人類は、どこか共感できたり、何か気付きがある作品なんじゃないかな、と思います。

だからかな、他人事とは思えなくて、全体を通して、終始体内中の血流がドクドクしていく気がした。たぶん公になっていない、あんなこと、こんなことがホコリをかぶってることがあると思います。(だれでも情報が発信できる時代になって、一部顕になっていることもあるけれど)どこかの偉くてお金をもっている人たちは、悪いことも隠すことができているのかもしれません。
自分が愛してやまない推しがブラックホールに包まれていたら・・・と思うと、胸が張り裂けそうですよね、本当に。悲しいとか、失望だとか、抑え切れない感情がわいてくると思う。

現推しの界隈は、とにかくお金で解決できることが多いです。直接会ったり、話したりしたかったらCDやグッズをたくさん買えばいい。シンプルな構造です。推しに認知されたければ、それなりにお金をかけることで、ここでいう成功したオタク「성덕(ソンドク)」になれるとされているし、推しに覚えてもらえて特別なファンサがもらえたりすれば、称え崇められる世界である。

だから、だけど。本当にそれって健全な関係なのだろうか?
(1)にも通ずることだけど、”誰かに対する期待”って、自分の押しつけにすぎないのではないだろうか。心から人を応援するって、もっと根底にまっすぐな愛があってもいい気がする。
この映画を観て、数年前の芦田愛菜ちゃんの言葉を思い出す。

「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」

芦田愛菜ちゃん(2020年9月映画『星の子』完成報告イベントでのコメント)

沼りはじめのころの純粋に応援したい、というピュアな気持ちは薄まっていき、ランダムの封入トレカがほしかったり、接触イベントに行きたくて、しこたま買ったCDやグッズ・・・。段ボールにいれて、ガムテープまで貼って、封印している自分がいて。部屋には封印されし段ボールたちが溜まっていく。欲望モンスターになる自分。虚しくなってきている自分。この習慣に慣れてしまっている自分。どこか歪んでしまっている気がして、考えれば考えるほど気分が悪くなります、正直。私はどこへ向かっていくのか、私はまっすぐな愛をどこへ置いてきたんだろう。そんなことをぼんやり考えていたところで。

ああ、いったい「真の成功したオタク」ってなんなんでしょうか。
私もこれからは私なりの「成功したオタク」スタイルを模索しながら、これからも推し活をして、こころが動く瞬間を大切に、めいいっぱい生きていきたいと思います。

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