「わからない」から生まれる、仲間同士の関わりと私の変容
PIECESが行う地域の市民性を醸成するプログラムCforC。
その受講生たちがプログラムを通して感じた、自分自身の変化や願いについて書いた文章です。
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ぬか床にぐっと手をいれる。
そして、ぐちゃぐちゃ混ぜる。
毎朝の習慣になっている。重さだったり、やわらかさだったり、においだったり。身体で感じる。正直、ぬか床の管理の仕方って、よくわからない。でも、おいしいぬか漬けが気がついたらできている。この不思議はなんだろう、わからない。でも、楽しい。
このわからないというのが、今回のテーマである。
わからないことが嫌いになっていった
私たちって、わからないことが嫌いになってきたんだと思う。
学生のときに、先生から指名されても、わかりません!って、はっきりとした言葉で答えることができなかった。もごもご、教科書をちらちらと見ながら、なんとか答えようと口を動かしている。でも、先生や教室のみんなには伝わらない。そして、先生があきらめた表情で次の人に指名が回っていく。
わからないということは、私にとっては悪いこと、いけないこと、そして恥であった。
答えを出すことを、小学校のときからずっと求められつづけたのだから。先生の責任ではない。そういう学校のシステムに組み込まれてきたのだろう。システムのなかで私たちは、どうしても問題に対して答えを出さないといけない。それも、できるだけ正確にすばやく。これができないと、学校というシステムから、はじき出されるような怖さがある。だから、そうならないように、答えを必死に導き出そうとする。
学校から出ていく。そして、広い世界がみえるようになってくる。すると、わからないことはもっと増えていった。どうして、私はわからないんだろうか。
そんなことで、一人モヤモヤ悩むことが増えていった。
PIECESのCforCに参加する
そう、今までの文章で何度も登場する「わからない」こそ、私にとって、いや、私だけではないだろう。頭のなかに頻繁に出てきて、去っていく。そして、またすぐにやってくるもの。
そのわからないという、モヤモヤっとさせてくれる言葉に。ゆっーくりと、やさーしく、ていねいに。
そうだ、赤ちゃんを抱っこするイメージっていえばいいのかな。そういう時間を参加者みんなで共有していく。この時間は、リフレクションと呼ばれるものである。
正直よくわからないんですよね・・・
私はよくそんなことをつぶやくように話している。
はて、これはちゃんとした日本語になっているのだろうか。そんな私の発言にも、しっかり聴いてくれ、うけとってくれる場がここにはある。そうやって、一人ひとり、わからないことを持ちよる。そして、たったひとりの仲間のモヤモヤしてわからないことを、みんなで共有する。
一人ひとり、あっちこっちバラバラになって思いをめぐらして、沈黙の時間がやってくる。その時間も、この場では全く問題とならず、むしろ何かが深まっていく、発酵していく時間になる。そして、その沈黙を、そっーとやぶって、誰かがそろりそろりと話し出す。それに触発されたかのように、また誰かが、ぼそぼそと話し出す。
こうやって、子ども側の視点から考えていると、ふと関わっていた大人側の態度であったり、価値観であったり、その方の大切にしているものだったり。そんなものの、ぼんやりとした輪郭が立ち上がる。
この輪郭は、今まで自分でも気づかなかったような過去と結びついていたり、こんなこと考えてなかったと思うんだけどなあという、自分でも知らない自分というものが描かれていたりする。そして、その感情っていうのは、ときに自分だけでは抱えることができなくなるものであったり、厄介なものであったりする。そこで葛藤が生まれることもある。そういうときにでも、参加者の仲間は一緒になって、みんなでその感情を抱きしめてくれる。
そんな、優しい間がこのプログラムには存在している。そういうことを続けていると、その経験というものは発酵していく。こころというものが時間をかけて変容する。ここでは予測不能であるわからないが登場する。
このわからないには、わくわくするし、ドキドキする。
気がつけば、こころは変わっている。変わっていく。
ゆさぶられ、すくわれる
私のこころもずいぶんとゆさぶられた。感情があふれることがあった。ただ、それを眺めるだけでなく、抱きしめて大切にしてみることが少しずつ少しずつ、できるようになってきた。私は、まだまだ雑な扱い方しかできていない。それを仲間がすくってくれる。そして、気がつけば自分のこころには、新しいなにかが入っている。
自分を自分で決めつけていたもの、縛ってきたもの、もう必要のないものであったり。そういうものたちへは、さようならをちゃんといってから流されていく。そういうものでも、今まで私を支えてくれた大切なものであるから、きちんと「さようなら」っていっておきたい。でも、忘れずになにも告げずに、いなくなっているもののある。
こころの不思議を感じずにはいられない。
それがCforCのプログラムを受けていての一番の感想になる。
それでいいのだ
わからないへの答えはあるのだろうか、
いや、その答えって出せない。
でも、それでいいのだと思えてきた。これは、わからないものをポイっとゴミ箱に放り投げるのではなく、せっかちに答えを求めるのではなく、そっとふれてみる、抱きしめてみる。あるいは、そのまま時間をかけてねかせてみる。そんな余白(あそび)が生まれてきた。その変化は、私の力だけでなくて、仲間の力が大きい。こうやって、他人からの手助けも素直な気持ちでうけとることができるようになっていった。
さらに、この変容が仲間同士で循環していく。
私の願い
気がつけば私の子どもへの接し方だけでなく、地域の人々との関係、いつも通っている街の風景がどこか違ってみえてくる。
こんなことを夢みている。現実になってほしい。プログラムに参加している私は、本気でそう思っている。ぜひ、この優しい間を体験することで、一人ひとりがそれぞれの場で、それぞれの自由なこころで、市民性に支えられた優しい間が広がっていくことを、心から願っている。
最後のリフレクションを終えて
ここまでの文章は、私が2021年の末に書いたものである。最後のリフレクションは、2022年1月15日にあったので、その感想を追記しておきたい。以下の文章は、CforCのコミュニティに私が投稿したもので、個人的な感想であり、気づきになる。少しでも、CforCを読み手のあなたに届けられたのであれば、これ以上の喜びはない。
CforC2021修了生 松尾航
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現在、Citizenship for Children 2023の参加者を募集しています。参加者募集説明会では、今回のプログラムの概要や特徴、そしてCforCの修了生に登壇いただき、CforCに参加したそれぞれの背景や学び、変化について語っていただきます。どなたでもお気軽に、まずはぜひ説明会にご参加ください。
CforC2023募集説明会は7/18開催。録画視聴も可能です。
基礎コースは8/18まで申し込みいただけます。
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