役員会1

哲学者として会社役員になりました。 −−哲学者とは誰のことなのか

先日、代表取締役と取締役の方々が京都にいらっしゃって会食し、「哲学者としてウチの監査役となってくれないか?」とオファーをいただいたので、3時間のほどの面談の上で、此度、株式会社メタの監査役になる運びとなりました。

正直、この事実について持つ私の感情はまだはっきりとしていない。
それでも、自分だけに抱えきれず、私は何人かの親しい人に直接報告をした。報告を受けた友人たちは概ね喜んでくれたと思う。ある友人は「へるめを役員で雇うとは、時代の先端をいく企業」と、別の友人は「人文系の新しいキャリアの可能性が拓かれていて励まされました」と言ってくれた。こうした言葉はぼくにとって確かに、嬉しいことであった。

母、祖母、そして、今や戸籍上の直接的な関係はなくなってしまった義父にも報告した。

母に伝えると、「研究辞めるの?」と聞かれた。私は『それは絶対ないし、哲学研究者としてやる』と伝えた。すると「あらそう。なら、まだ体験できてなかったことをできていいね」と母は言った。おそらく母にとっては、ぼくが自由にやっている哲学の勉強が一位的なもので、職を得ること自体は手放しで喜べることではないのだ。自分にとって確かな芯が損なわない限りで、未知に飛び込めることが、喜ばしいことなのだ。

身体が何をなしうるかの実験を共通概念によって行うことの肯定。母もまたスピノザ主義であると思った。この親あって、この子あり、である。

祖母は、素朴に「どういうこと?」という感じだった。大してしっかり働くこともなく、社会人をやめて、哲学研究というよくわからないことをやり始め、結婚や孫はおろか、経済的に生きていけるかどうかも不明なぼくが、一般就職ではほとんど到達しえない監査役に、一挙に就任したからだろう。ただしかし、事実起こったことは起こったことであり、祖母はこの飛躍をすんなり受け止める。そして、祖母は、社会的にはっきりと示せる肩書きに、ぼくが一つなったことを嬉しく思ってくれたようであった。この報告は、幼少期、常に隣にいてくれた祖母に対しての孝行と言えることかと思う。ようやくこの一つだが。

口数の少ない義父からは「おめでとう。ちょっと安心しました。」と返事がきた。彼は自由にやっていく私に、常日頃、自分自身がやりたいことをやっていることは大事だけど、それを活かした社会的・経済的なつながりも探ることを伝えてくれていた。その大切さは、若い頃はわからなかったが今なら、その気持ちがだいぶ分かる。

さて、副題の方に入ろう。

とにもかくにも、「哲学者」として、株式会社メタにジョインすることになったのだが、私は自分が「哲学者」であるのか、正直よくわかっていない。事実「哲学者」と言われると、胸のあたりが非常にこそばゆい状態になる。

また正直なところ、私は自分を「哲学研究者」と呼ぶことさえ若干のもどかしさがある。というのも、私が実際にお会いしてきた哲学研究者たちのほとんどが、学部生のときから、哲学書の読解に取り組んでいる者たちだからだ。

私は学部では社会学であったし、前の大学院では学習科学(教育工学)であった。その後、社会人として生きる中で独学で哲学書を読み続け、今の大学院には一応「教育哲学」の枠組みで入学している。つまり、正式に「哲学」という名目をもつアカデミズムの中に直接にいたことが、私には今まで一度もない。生(なま)の「哲学研究者」たちを知っているからこそ、自分を「哲学研究者」と呼ぶのには、まだはっきりしないところがあるのだ。

ただ、現在の指導教員の方針で、私はこの2年ほとんど「教育」「教育哲学」に関することはしていない。私の指導教員は「教育」を考える前に、第一に「人間」を、「自然としての人間」を考えること、第二に、研究実践上、立場的・外部的な要求に迎合することなく、「自由」に探究すること、を指導方針としている。それゆえ、私は徹底的に哲学書を読み込む時間にこの2年を割いた。また指導教員は、私に「読む物」も「読み方」も自分がやってきた規則に従わせようと決してせず、私が自ら「読む物」を決め、自らの中から自らが納得する「読み方」を会得するよう、ある種「指導」した。そして、論文を書く上では、わかりにくい理論をわかりにくいまま書いてはならない、しかし、単にわかりやすくして、理論を簡略化してもいけない、というパラドキシカルな要求を、そして何より常に「どうしてそうなるのか?」「なぜこう言えるのか?」という問いかけを徹底的に私に投げかけた。

私は「哲学者」とも「哲学研究者」とも自分を呼ぶことにまだまだ抵抗が消えない。しかし、ただ一つ言えることはある。私はずっと自身のステータスが、どうなろうと、ずっと「考えてきた」し、「考えている」し、今の大学院に進学してからは、スピノザやドゥルーズの厳粛なテクストとともに、しかし単に彼らを模倣しない仕方で「考える」ということに努めてくることができた、ということである。

先日、学部時代の指導教員と夜にカフェでお話する機会があり、私は8年ぶりに「どうして私の卒業論文を学部優秀論文賞に選んだのか?」と聞いた。彼女は応えてくれた。

彼女によれば、毎年、その選定基準は変わるのだが、私の代においては、考え続けていることを重視した、と。もちろん、体裁上、論文の形を上手になしているものも他にはあった、と。しかし、1年間を通じて、考え続け、書いては問い直し、書き終えても問い直し、その提出が訪れるときまで、最終考察まで、そういった思考の運動を行っていたもの、そうあるものを選定基準にした、と。

私はようやく8年ぶりに選ばれた理由を理解した。現在執筆中の修士論文が8年前の最終考察で問いとして残ってしまったものを完全に引き継いでいることを私は自覚している。無論、全く文体も違えば、参照するテクストも、方法論も、内属する学問領域も違うが、私は確かに、同じものについて、8年前に到達したが納得しえなかったところのさらに向こう側に行こうとしている。

学部時代の指導教員である彼女は、自分の内に、やることややり方がどんなに変わっても、ずっと変わらないものがある、ということを会う度に話す。ぼくもそれが好きだ。ぼくもそう思う。私たちの内には何かがある。対象や方法は変われども、その度の「外」に向かうと同時に逆行して、「内」にある何かに向かっている。思考は眼前の対象と自身の内に同時に二つの方向に向かいながら、私は外部と対立しない内部にある最も古いものを反復し続けている。

私は、確かに、可能な限り、すべての出会いと経験において、そうした思考と生を実践してきたと、今、振り返ると思う。それこそが、私にとっての「対話」であると、今、振り返ると思う。私は、その意味で、考えている者である。

しかし、「考えている者」と「哲学者」と「哲学研究者」の間にはどのような違いがあるのだろうか。

それはまだわからない。

私はこの2年、「考えること」に加えて、「哲学を研究すること」に従事してきた。今度から、「哲学者として仕事すること」にも従事することになった。

私は未だこれらの違いがわからない。ただわかるのは、私の生にとって本当に重要なのは、どんな肩書きか、ではなく、自分の内なる運動を具現していき、その末に「表面」で起きていくことを自分の仕方で基礎付け続けようとすることである。

基礎付けによる外面上の変化はない。そこには、意味づけの変化があるだけである。ただし、単なる諸々の既存の意味の複合による意味づけ(解釈)ではなく、徹底された意味づけ、つまり、それ以外考えられない仕方での意味づけ、自身の思考の限界まで、あるいはその限界すら越えていく運動による意味づけ、すなわち、基礎付ける、ということである。

基礎付けることによって、外面上の変化は何も起きない。それは単なる私にとっての「表面」の裏面で起きることである。それでも「表面」における徹底的な実践的思惟による基礎づけ以外に、生において本当に重要なものはないように思われる。それが幾年かかろうとも、何を犠牲にしようとも、私はその場所に留まり続け、運動し続けようと努めるだろう。「表面」における基礎付け(裏張り)にこそ、人生の全てがあると私は思っている。

哲学者とは誰のことか。私には未だ全くわからない。

ただ一つ言えるのは、哲学者たりたい、という願いを私は確かに持っており、そして、此度、哲学者という名の元で仕事を得るに至ったということである。これは私にとって、私の生にとって、最も重大で、そして、最も謎めいた出来事の一つとして、私の記憶に、私の血肉に、確かに刻まれている。

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喫茶店代か学術書の購入代に変わります。