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転職を決意した日のこと ~おわりのはじまり~

いつも通りの朝のはずだった。
月初めのある日、オフィスの出退勤の打刻をおこなうタブレットに私の名前がなかった。
「今後は現場仕事もやってもらうから」
と聞いていたが、部署の異動は聞いていなかった。
やることは変わらないのだから、改めて伝える必要がないと思ったのか、私が悲嘆にくれる顔を見てほくそ笑みたいのか解らないが、いずれにせよ粗末に扱われたことには間違いない。
主務の部署のタブレットに名前が出る仕組みの勤怠システムは、社員コードを入力すればどこの事業所でも打刻はできるが、すでにここではお客さん状態だ。
もう辞めるつもりで準備はしていたが、これで心が決まった。

飲食店の事務職として就職したのが20年以上前、当時は数店舗の小さな会社だった。
中堅のSIerに営業職として勤務していた私はお客様に紹介してもらったこの飲食店の事務所に出入りするようになった。エネルギーに溢れた社員に魅せられて働かせてくれと懇願して無理やり社員になった。
水商売に飛び込んだ私は学生時代の友人にはバカにされ、両親には泣かれたが、後悔はなかった。
とにかく無我夢中で働いた。現場第一主義でバックオフィスの仕事は二の次の社風の中、成長のスピードに負けないように奮闘した。規模はどんどん拡大し、海外にも出店し上場も果たした。
規模が拡大するとともに私は後から入ってきた優秀な人々から疎まれるようになった。法律の改正に合わせて改修する予定の基幹システムのプロジェクトを反故にされ、我々のチームは解体された。
ちょうどそのころ買収した会社の社長に直属の上司が就任することになり、会社に嫌気がさしていた私は異動願を出し会社を転籍し、新しい事業の一人事務になった。
これからまた頑張ろうとした矢先、コロナの煽りをくらって小さな飲食店である我々は虫の息になった。いつ終息するかわからない、出口の見えないトンネルに閉じ込められて疲弊しているなか、ついに元上司の社長の心が折れて退職をしてしまった。親会社の役員が社長に収まったが、内情は営業部長と私でなんとか会社を回していた。
やっとロックダウンが緩やかになってきてボーナスが出せるようになったとき、新しい社長に「賞与明細書のタイトルに冬季賞与とついているけどどういうこと?全部回収して差し替えてよ、夏に支給しなかったみたいに見えるし、次の夏に確実にボーナスが出るかどうかわかんないんだから」と言われたが、馬鹿馬鹿しくて無視していたら会議でつるし上げられた。
本当に嫌になって勢いで転職エージェントに登録して引継書を作り始めたころ、いよいよ経営が厳しくなり会社が存続できなくなって元の会社と合併することになった。現場に入りながら清算業務を親会社とやりながら完成間近の引継書が全部無駄になってイチから引継書を作り直し始めたころ、私を事務方から外して現場に入れる人事が決定していた。


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