改行 空白行 そして間口
noteに自分の記事をアップロードしているときには気づかなかったけど、あるとき何気なくダッシュボードを見ていると、ふと"創作をもっと楽しむために"と書いている場所があることに気づいた。
ダッシュボードをよく見てないというのもあるけど、気が付いてみると少し気になり興味がわいた。別になんということはないが、"創作をもっと楽しむために"というカテゴリの下には、二つのトピックが見えていて、最初の"noteのはじめかた"というトピックには"もっとも大事なこと"、"本文を書くときのポイント"、"タイトルと見出し画像をつけるポイント"というセクションが見えている。
興味がわいた理由は、それらセクションに書いてあることなど何も考えずにnoteに記事をアップロードしていた、そういう自分の行為との対比と、そこに書いてあるだろう未知の事柄への興味でもあった。
興味がわいて最初に、"もっとも大事なこと"セクションをクリックしてみると、その実際のセクションは"創作活動でもっとも大事なこと"となっていた。しかもどうやら"noteのはじめかた"というトピックの中には前述の三つのセクション以外にもさまざまなセクションがあるようだ。
そしてこの"創作活動でもっとも大事なこと"というセクションには、楽しんで続けるということが書いてある。確かにそういうことは創作の基本だろう。そんな当たり前のことだけなのかと思ったが、そういう心構えが大切なのだろうと、もう一度落ち着いて再認識した。
そして実際は多数ある"noteのはじめかた"というトピックの中で、先ほどのピックアップされていた三つのセクションの二番目、"本文を書くときのポイント"を見てみる。ここが重要な気がする。
読み始めてみると、まず見出しがあり、それを読んではみたが、納得できるような、できないようなという感じだった。順番に見てみると、まず、ひとつの記事で一つのテーマを扱うというのは納得できる。そして、冒頭にリード文を付ける、というのもやらないが分からなくもない。そして問題が次なのだ、いや、その次も同じようなものか。
その二つは、"スマホで見る想定でこまめに改行しよう"というものと、"こまめに段落をわけ見出しをつけよう"というものだった。
頭にガツンと雷が落ちたような気がした。いや、知らなくはなかった。以前ケータイ小説というものが流行している頃にwebのニュースか何かの記事を頻繁に見ていて、そのケータイ小説の改行の多さや、空白行の多さに辟易したものだ。今はそれをしろという。
そうか、長文を読むのが苦痛なのだ。それは大した長文ではなくとも画面いっぱいに文字があふれると気持ちが萎えるのだろう。分からなくもない。しかし納得できるかというと難しい。とりあえずただの改行は置いといて、自分としては意味のない空白行は積極的には必要ないと思うからだ。
確かに画面いっぱいの文字の羅列は文字の洪水で目に脳に重たい。現実的にびっしりと書かれている小説でも、会話シーンなどは読みやすいと感じる場合もある。しかしぽっかりと空白行を多く入れるとすると、それは段落が変わるという意味なので、リズムも損なうし、いままでもそれをやったことはない。必要と思わなかったからだ。
しかし本のような媒体とは異なりデバイスによる違いがある現在では、読みにくさも人それぞれだ。そして今となってはスマートフォンを含むケータイ端末が主流ともなっている。ということで自分のスマートフォンでも確認してみた。
私のスマートフォンは401ppiの機種で文字もそれなりに細かい。だがそこはOSの設定でも変更できるだろうし、見る人は自分に合った設定しているだろう。そしてそのスマートフォン上のnoteアプリで見てみても、思ったより行間も広く、別に改行を入れずとも、空白行を入れずとも私にはひどく読みにくいということはない。しかし画面いっぱいに文字だけのページをスクロールさせれば、確かに長々と続くようでは壁のようには感じる。それを重たいと感じるという人がいるだろうという予測もできなくはない。
人は自分とは違うし、さまざまな人がいる。そういうことだ。
次のセクションの段落わけも空白行と同意だろう。そして今、私はそれについて考えている。改行や空白行を設けるべきか、いまのままで続けるのかということだ。
今回も少しだけ空白行を入れ、段落を変えているかのように、以前と比べこの何年かは少しそうするようにもなった。それは最低限だし本当は改行だけで済ませたいが、どうしても改行だけでは物足りず空白行にしてしまう。そしてもっとそうすべきかということ。
書くときはいままでと同じように書いていて、記事をアップロードするときにそのようにページを再構成するとか、そういう道もある。しかしどこかの古臭い私の思考が、それでよいのかと私を問い詰めるのだ。
問題はそれが見る人のためにということだ。見てもらいたいから書いている、なのでそうするのは当たり前だろうという思いもある。しかし確かに載せるという行為は他人に見てもらうということではあるのだが、今のまま、私の脳から出る表現のままを見てもらってはいけないのだろうかと思ってしまう。
それは間口の問題で、note側が啓蒙してくれているのは、間口を狭めてしまうよ、という忠告でもあろう。私はそれが分かっていない。自分の思っていることをどこまでか、変えてまで人に見てもらいたいか、その部分について鈍すぎるのだ。適当すぎる。
それをして本当に間口が広まったとしても誰に見られるわけでもない、そういう消極的な思考がすべてを象徴しているとも思う。だから本当は書いている意味などないのかもしれない。でも、現時点でも少しは見てくれている人もいる。それはとてもありがたいことだ。迷宮は深くなる。
せっかくだから残りも書いておく。目次の残りは、文末で要点をおさらいしろとか、アップロード前に音読しろということだ。最後に言いたいことをもう一度ちゃんと伝えた方がいい、という文章のテクニックの指南と、校正のための指南ということだろう。
こうしてみると"noteのはじめかた"というトピックはよくできていると思う。ただ前述の部分が私には少し難しいということ。そしてこれ以外のカテゴリやトピックの存在を見ると、note側からの教えはこれだけではなく多岐にわたるようで、暇があれば少しずつくらい見てみたい気もする。でもまた迷宮に入ってしまいそうな気もするな。まあ、そんなことはどうでもいいけどね。
今回のこれを実験的に改行、空白行入りにしてしまおうかとも思っている。現時点では最後まで書いていてそうしていない。だからそうするとしたら、アップロード時に再構成したということだ。実験的と書いてはいるが、するのだろうか、しないのだろうか。自分でも分からない。
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