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街の選曲家#Z1Z1Z1
毎回同様のことを書いているようだが、音楽は生活にあふれていて、生きてゆく上で欠かせないものだ。毎日散歩をしながら音楽を聞いているというのはいつも書いていることだが、その音楽というものを細分化すれば音までさかのぼってしまい、街を歩いていても大型車両のブレーキの鳴く音を聞けば、その音程が存在する音楽の一部を思い出し頭に流れ始めたり、強風により木々の枝がこすれているような時には頭にリズムが起こったりする。そして最近気になったのは死だ。
私は隣接した近隣のいくらかの町にわたって母親の一族が一大勢力を築いていた場所に暮らしていた。だから子供のころから通夜にも葬式にもたくさん出た。父親の実家も離れていたが市内にあったので、それも含めるともっと多いが、父親の本家と親戚がいくらかあるのと、私の住んでいた母の実家がある周辺では数が違った。だから本当に多かった。あまり知らない人も中にはいたし、昔は家で死んでいた上に基本的に長生きの人が多かったので、年寄りと話したり、彼らを観察することもできた。
そういうことの積み重ねが私を作ってきたのかもしれないが、葬式という儀式の中で様々なことを感じた。その中で大きなものはお経は歌と同じだということ。音楽と言い換えてもいい。特に念仏の部分では独特の言い回しで抑揚があり、耳から念仏という文字が入ってくるのではなく、念仏という音が刷り込まれてくるのではないだろうかと思ったし、少し恐怖のようなものも感じたこともある。それは畏敬のようなものも含め、強大なものに対する畏れというのがあったのではないだろうか。
そうして考えてみれば、ほかの宗教にも音楽はあふれているということに気づいた。例えばキリスト教における讃美歌の存在は大きな意味を持つものだろう。それに、地域の問題もあると思うが、ほかの宗教や、同じ宗教でもそれぞれの地域の死と音楽との関係が存在し、離れていても違う宗教でも多少の共通点があるのではないだろうか。黒人の葬式ではよく歌うと何度も聞いた。それらを考えると声や音、歌の力は不可欠なものだと再認識せざるを得ない。自分が子供のころから感じたことは普遍的なことだったと思っている。
ショパンの葬送行進曲や、数々のレクイエムがあるのもそういうことだろう。儀式をイベントとは思わないが、視点を変えてみればそういう部分もないわけではない。酒を用意し、人が集まり、故人のことを語り、思いに浸る。その中に音楽はあり、大きな支柱として人の心を休める一助となっているのではないだろうか。それは悩める人の指針となったり、別に指針とならなくても、ただふわりと包むだけでもいい。そういうことを思ってしまう昨今だ。
ファンキー・ラヴチャイルド - ピチカート・ファイヴ
この曲を聞いて思うのは、これは最高なんだ。ということ。月並みな表現だが、それしかない。それはどういうことだろうと考えても、明確な答えがあるわけではない。私にとってピチカート・ファイヴの曲は最初からそうで、ノンスタンダードレーベルで出会えた偶然を今でも愛している。そしてそのPIZZICATO Vの時代からいろいろな変節があって、それぞれをそれぞれとして聞きながら過ごして来たが、それでも私にはピチカート・ファイヴといえば小西康陽さんと高浪慶太郎さんだと思っているところがある。
もちろん鴨宮諒さんも佐々木麻美子さんも、田島貴男さんも、そしてピチカート・ファイヴの大部分のアイコンでもある野宮真貴さんもすべて同様だと言いたいが、ノンスタンダードレーベルからデビューした頃のレコードを聞くと、小西さんと高浪さんの二人のバランスがキラキラと光り、それが音楽になって耳から入ってくるような感覚がする。その上にソニーに移って発売された初アルバムcouplesにおける二人のバランスのことも私には大きいと思う。
この曲がどこまでが小西さんで、どこまでが高浪さんかは実際のところは分からないが、上のように二人のバランスを感じている。実際、このアルバムの一つ前のTRIADに移籍した一枚目のアルバム、女性上位時代に収録されているベイビイ・ラヴ・チャイルドの関係などがあるとすれば、その曲に小西さんの新しい視点が持ち込まれ発展したものだったりするのかな、などと妄想したりもする。とはいえそのアルバムの前に毎月発売のミニアルバムもあったし、それらの世界観の延長上で完成形でもあり、ミニアルバムの曲も収録されていたので、女性上位時代がTRIADでの初アルバムというのも少し変な気分にもなる。
ベイビイ・ラヴ・チャイルドは高浪さんらしいアコースティックな感覚にレコードのターンテーブルのスクラッチ音や、**Bellissima!**のカップルズの旋律など、過去の曲の断片もいくらか入っていて、エコーの響きがぼんやりとした記憶をたどるような、そんな不思議な歌だった。野宮さんの歌声もポータブル・ロックとは違っていたと感じた。それを前提に考えているというわけではないが、このファンキー・ラヴチャイルドも大好きで、小西さんの歌詞は相変わらず最高だし、小西さんと高浪さんのコンビになった曲もアルバムの中でも輝いている。
聞くと思うのは、思い出のヴェールをかき分けたどり着いた場所でタンバリンとピアノ、シタールとコーラスが印象的な前奏を経て、最初から一定の旋律だけを繰り返し、何かの始まりを示していると感じさせるベースがドキワクを加速させる。それはAメロの序章としての静寂さを下から支え、次の展開を示すようなマグマの圧縮だとも感じる。Aメロで歌が始まると、そこにはリズムの静寂の中にシタールやギターもマグマを構成する一つと感じる。そしてハモンドオルガンの旋律と共に始まるサビに心は踊る。それはファンキーなベースの旋律を含め動的な顔に変化する曲の爆発だ。
この曲はファンキーで、ファンクとソウルを合わせたようなグルーヴ感を感じ、そしてやっぱりポップスのサウンドだ。アウトロにサックスがフィーチャーされ、ファンク感を強調するが、すべてにおいてキャッチーでファンキーでグルーヴィーだ。それら以外の多彩な音も含まれていて、そこにある世界を感じさせる。この曲はAメロとサビの繰り返しの構造で、そのシンプルさ以上に繊細で広大な世界が広がっていると感じる。これを少しずつ書いている最中に小西康陽さんと、高浪慶太郎さんの弾き語りライブがあり、野宮真貴さんも駆けつけたというXのポストを見た。これだ、この感じ。これがピチカート・ファイヴであり、私の愛している最高の音楽でもある。
kagerou-III - n'sawa-saraca
私はジャズを聞かない、能動的に聞いたことがないし、接点がなかった。もちろん様々な曲などでジャズ風のアレンジや、ソウルではないけれど魂のように響いてくるようなものはあった。存在そのものがフリージャズのような人や曲だ。だがそれは年齢を重ねて少し思えるようになった程度で、実際はそれがどこまで正しい表現かは分からない。難しいもの、という固定観念もあるのかもしれない。基本的にはデキシーランドジャズや、その後の誰もが知ってるアーティスト、ブルーノートのドキュメンタリー映画で見たような知識しかないのだ。
好きなアーティストがカバーした曲を調べていたら、ジャズがオリジナルソングだったので聞いてみたとか、その程度のことはあった。あと印象にあるのは子供のころのタモリ氏のジャズ好きとトランペットなどか。そんな私のリコメンドにn'sawa-saracaのforest danceというアルバムが登場したのだ。最初はジャケットに惹かれて聞き始めたという感じで、ジャケットも含めジャズっぽい雰囲気だったが、フュージョンっぽくも感じる。フュージョンがジャズの派生形だとすればそれは当たり前のことだろうが、それだけでもない感じもしていた。
何度か聞いているうちに一曲、二曲と別々に自分のプレイリストに入れ始めた。この曲がアルバムの中のインタールードということもあり、プレイリストには短い曲という意味で入れた。その自作のプレイリストを繰り返し聞いていると、短い曲で、ある意味時間合わせ的に入れたにもかかわらず、この曲の繊細さ、情景描写の感覚に引き込まれてしまった。題名のkagerou-IIIが表すように、陽炎の表現と分かる。アルバムのコンセプトの中で、インタールードとしてkagerouがI、II、IIIと挿入されているという具合だ。
調べてみたらアルバムのコンセプトというか成り立ちが、n'sawa-saracaの主要メンバーで鍵盤奏者の唐沢寧さんがアフリカのマサイマラを旅した経験からということのようだ。それを聞いて表題曲のforest danceの縦ノリ感に納得したが、知る以前からこの題名のkagerouという曲の情景描写の感覚に引き込まれていたのだ。その前提を聞かずとも題名と音が表現していた。カオスティックな多重のピアノ、遠くから響いてくる大地の鼓動に生命を感じた。何重にも重ねられているピアノは陽炎のゆらめきや静寂の中の朦朧を感じさせる。フェードインしてくるリズムはだんだんと強くなり、大地と日差しの強さ、それが大地の鼓動を表現しているように感じたのだ。
この曲ではピアノとドラムとベース以外は聞こえてこないように感じるが、ピアノは多彩で多重で、アコースティックピアノやエレピの音も聞こえてくる。このアルバムにはサックスがメインの曲もいくらかあるが、この曲はシンプルで、インタールードであることもその要因だろう。いや、それは決してシンプルではなく、楽器の構成や種類がシンプルに感じるだけだ。繰り返し何度も聞いているとkagerou-IIIの世界がより見えてきて、もっとその中にいたい気がする。繰り返して聞きたい、そう感じ、そう実行してしまう曲なのだ。
ブラック・サンド・ビーチ - 加山雄三
私にとって加山雄三さんといえばやっぱり若大将シリーズということになる。子供のころは深夜映画などでよくやっていた。当時は子供だったということもあり、そしてその時代から見れば生意気にも古くさいと思っていて通して見ることはなかったが、断片的には何度も見ているし憶えている。内容も若大将のライバルが青大将だとか、そのような基本的なことは一応知っていた。しかし実際は私の中で加山雄三さんはテレビの中のおじさんという感じで、一時代を築いた映画スターではあるが、いい時代の大スターという認識だった。
言い直せば私がその直撃世代ではないという言い訳もできるが、その程度のことしか知らなかったことでもある。それらの印象と同様に、船とエレキの人という認識もあって、それはエレキの若大将という映画の存在や、歌謡番組の出演時のギターなど、エレキは加山雄三さんの代名詞だったんだなと改めて思う。後にこの曲に出会うことになるが、その前に加山雄三さんが多大な影響を受けたように、私もギターを練習する時にはベンチャーズは外せなかった。ダイアモンドヘッドを何度も練習したりした。
どうしても無能で情熱のかけらのない私はギターが上達することはなかったが、その世界に触れることはあったのだ。そのような経緯でベンチャーズを知り、そのずっと後に加山雄三さんのこの曲を知ったときに衝撃が起きた。この曲に加山雄三さんの中のまた別のサーフロックサウンドを見たのだ。ベンチャーズの一部の曲に似ているし、それは影響を受けているのだから当たり前ともいえる。だが聞くと分かるがベンチャーズよりももっと粗削りな感じがする。それはベンチャーズが西海岸のいわゆるサーフロックという雰囲気が大きいのと同調しながらも、今でいうガレージロックな少し雑然とした雰囲気が漂う。
曲を聞き少し考えれば同じように海や船舶など、加山さんのバックボーンもサーフロックと重なる。しかしこの曲はベンチャーズの影響だけじゃない日本っぽさや若さ、加山雄三さんそのものの個性というものも感じられるのだ。しかも、この曲をベンチャーズがカバーしていると後に知れば仰天してしまう。そしてブラック・サンド・ビーチはハワイの黒い砂浜をイメージされたと言われているようだが、私は知らないという前提で邪推すれば、多分、関東の、関東ローム層の砂浜ということでもあるのではないか。それが裏の意図や、もう一つの意味であるとするのなら、このタイトルは粋でもあるし、気がきいている。もちろん明確な場所の意味ではなく、抽象的なタイトルなのかもしれないが、そんな気持ちもあってもいい。
また、このブラック・サンド・ビーチは彼一人の多重録音で作られているというのも驚きだ。彼の多彩さとかそういうこともあるが、1965年発売のシングルで個人的にそういうことをやっていた、そう思うとすごい。ドラムがうまいとか、ベースがうまいとか、そういうことは思わなくとも素晴らし曲がそこにある。それだけだ。曲中には様々な遊び心のようなものも感じられ、楽しいという部分もある。しかしこの曲を聴いて思うのはやっぱり、ただ、かっこいい、ということだ。かっこいい曲で、それだけでいい。