街の選曲家#ZZZ1Z1
私は音楽のことを感覚で捉えていて深さはない。だから所詮昔の思い出とか、この楽器の音が好きとか、フレーズが好きとか、それだけだ。その楽器の聞こえてくる音の技法はもちろんのこと、正確にその楽器なのかも分からない、適当なつもりはないが確信はない。好きなフレーズがあったとして、そのフレーズがどういうルーツで、どの時代のどういうムーブメントに由来するものなのか、そういう知識というか繊細さがないのだ。ジャンルにしても同じでポップスでもさまざまなバックボーンがあるとして、そういうものをまったく分かっていない。要は適当なのだ、ただ自分の中のちっぽけな世界で感じたものを書いているだけ。だの選曲ならたそれもいいだろう、しかし一文を書くとするとそれでは足りない。それは分かっているのにたれ流しているという矛盾、ただそれを止められないだけ、だからここで書く意味を探す語る無意味。能書きだらけの不安。
Grace and Glory - 長沼英樹
常々書いていることだが私はゲームセンターでも家庭用でもセガのゲームが好きで、セガのハードが好きで、ずっとプレイし続けている。この曲はセガの最後の家庭用ハードとなったドリームキャストで発売されたゲーム、ジェットセットラジオの中の一曲だ。このゲームは当時はトゥーンレンダリングともいわれたセルシェードを使ったゲームで、その技術が使われた最初期というか最初のゲームだと思っている。当時の私はその表現力に驚き感激した。そしてこのゲームは音楽とも密接な関係がある。ゲーム中の目的であるグラフィティはヒップホップの文化だし、ゲームタイトルはシブヤチョウの海賊ラジオ、それがジェットセットラジオで、ゲームの案内役はそのDJのプロフェッサーKというキャラクターだ。そしてゲーム中の音楽はそのジェットセットラジオから流れているという設定だ。その曲の数々が素晴らしい。その多くは長沼英樹さんによるもので、ソウルやファンク、ヒップホップの要素が随所に散りばめられたロックでもあり、無国籍感も漂うようなものでもあるのだ。ゲームをしていて音楽の印象は鮮明に焼き付けられる。繰り返しプレイして忘れられないのではなく、聞いた瞬間突き刺さるような音楽なのだ。
この曲は最初の声楽の部分が耳目をひくが、すぐにファンクなサウンドが始まりその世界に吸い込まれてゆく。さまざまな場面が入れ替わるような音の連続、その中に声の楽器でもある音がゆうゆうと響き渡る。ファンキーでエレガント、それを強く思ってしまう。コンセプトがあるのかもしれないが、長沼英樹さんの曲の数々にはいろいろな面があり、なのに彼自身のスタイルが確立されている。このゲームや、もちろん彼も関わっている続編をプレイしたし、それら含めいくらかのアルバムも聞きまくっていた、その中でもこの曲を最初にプレイリストに入れたのは、その瞬間が私の好きなバランスだったのかもしれない。まあ彼の楽曲はどれも好きなんだけどね。
Eyes Closed Hopefully - I Am Robot And Proud
弾んでいるのに透き通るようなようなエレクトロニカ、いきなり耳の先に現れたのはいつものように何気ないレコメンド機能の産物、一気にそのアルバムの世界に引き込まれた。特にこの曲に思のは、精神世界を自由自在に泳ぐような、その水の中から見ている外側、それと同時に外側からも見ていて、思考がぐるぐるめぐっている、そんな情景や感覚に引き込まれてしまう。すごくたくさんの音があるわけではない、いくらかの音がそれぞれ出るべくときに出てきて役割を果たす調和。ベースとなる音やリズムはある、それらの中で都度顔を見せる音、それが私の音に反応する部分に穴を開け、透明に変えてゆく。水に浮かばずゆっくりと沈んでゆく、どんどんと透明になる。曲を全身で感じられにじんでしまい、そして透過する。そんな曲だ。彼の作品は彼ほどの才能があればどこの場所にいてもできる音楽で、DTMの部類なのだろう。そのクオリティの高さに驚くし、そういう人は昔からいるのかもしれない、だが現代になりそれらの人が家でやってるまま表に出せる場所があり、それを誰彼も触れることができる。それでI Am Robot And Proudさんのようなすばらしいアーティストにも出会えた気がして、それを喜んでいる。彼がバンドをやっていたとしても、そのフィールドはDTMのような世界だと思うし、その延長上にこれらの曲があると感じている。聞いたのはサブスクだが、その裾野は、才能が突出している人の作品を誰にでも触れられる世界、それがあるということだ。
はじめての恋人 - 弘田三枝子
この曲はアメリカなどの五十年代のサウンド、そしてそれらの時代の追憶にふけさせるような軽快なポップソング、そこに必須なのは弘田三枝子さんの歌唱で素晴らしく冴え渡る。いや、五十年代の追憶という表現もおかしなもので、私は生まれてもいない。彼女の歌を知ったのは音楽サブスクに加入してさまざまな歌謡曲、昭和歌謡を物色していたころだった。歌謡曲と書いたがそのサブスクに唯一存在した彼女のベスト盤に入っている曲の多くは歌謡曲の雰囲気でもなく、その当時の欧米のポップスそのもに感じた。もちろん私は生まれてもいないしリアルタイムに聞くべくもない。だからこそ、知らなかったからこそ、その衝撃は凄まじかった。もちろん歌謡曲もあったが、のちに聞いたものも含めれば海外のポップスをカバーしている曲が多く、いや、ポップスだけにとどまらずジャズやR&Bもカバーされていて、サブスクにあったベスト盤にないものはYouTubeとかでも漁り聞いた。
彼女のそれらの曲について考えると、それは欧米のポップスそのもだからだけではなく、その歌唱が素晴らしく、聞けば後にも先にも彼女しかいないという唯一無二のパフォーマンスと分かる。それは彼女の存在そのもので、何度聞いても彼女の歌には引き込まれてしまう。この曲ももちろんで、繰り返すことにもなるが、彼女の太く強い声、安定感、伸びやかさ、素晴らしいとしかいいようがない。この曲は激しい部分もあるが、それがまた彼女の声や歌を輝かせている。しなやかであっても鋼鉄のような強さを持っているような、これだけ自由自在に歌うというのは気持ちいいだろうなとも思う。これだけ歌えるのだから彼女なりの苦労もあるとは思うが、この声と歌だけで世界の人を幸せにすることができる。これは確信だ。今聞いて思うのは出会えた幸福感、それだけで嬉しい。
リコーダーソナタ ハ長調 III Largo フランチェスコ バルサンティ - 江崎浩司, 西澤央子, 中村恵美
いつか見えていたどこかの地平、人間には絶対音感という能力を持っている人がいる。私にはそういうものと少し違うリコーダー、ある時脳と一体化した。指と耳と脳、知っている曲ならばすぐにその場でなんでも吹ける。自分では好きな能力があった。別に大した能力ではない。今ではリコーダーを手にすることがなくなり分からないが、失われているだろう。この曲を聞いたときそんなことを思い出した。バロック時代、曲のはじめ、チェンバロの響きで気づく。そしてリコーダーの響き、それは曲と合わせて夜の燭台の上に灯るろうそく、揺れるような、どこか温かみのある響き。夜や冬、感じずにはいられない。
下のYouTubeの曲のリンクは私が聞いたのとは違う、私がサブスクにて聞いたのはラ・フォリア~イタリアン・バロックのソナタ&協奏曲~というリコーダーとバロック・オーボエ奏者の江崎浩司さんのアルバムだった。それとリンクとは同じ曲だが解釈の違いというか、幅の広さの違いというか、楽器の違いというか、それらを感じる。それは曲のテンポが違うところ、楽器の種類と演奏の厚み、それによって感じる別々の広さ、空間、情景。どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらも好きである。ただインプリンティングされているという事実はあるのでラフォリアの方に安心感を感じる。アルバムの中でもこの曲のクレジットは江崎浩司さんとチェロの西澤央子さん、チェンバロの中村恵美さん三人だけのシンプルな構成だ。もちろんYouTubeリンクの曲も同様だが、通奏低音実施の田淵宏幸さんの音がチェロのような感じではなく、さりげなく寄り添うような感じなので、一聴するにリコーダーとMIDIチェンバロが目立つように感じてしまう。それでも曲の完成度は高く、ラ・フォリアのアルバムに比べてというわけではないが、同じ曲の別アレンジとして楽しめると思う。私は上記の江崎浩司さんのラ・フォリア~イタリアン・バロックのソナタ&協奏曲~というアルバムでフランチェスコ・バルサンティという作曲家を初めて知ったが、これ以外には聞いたことはない。しかしバロック時代のようでルネサンス音楽との過渡期のように感じられる。それはやはりリコーダーの存在だろう。このリコーダーソナタ集が彼の、ほかの作品はあるとしても、唯一の代表作ともいわれるもののようだ。リコーダーの曲として素晴らしく、もちろん奏者の技術にも感激してしまうが、やはり全体の情景、それが私を呼ぶ。だからこそプレイリストにも入れるのだ。
好きな曲をプレイリストに入れて歩くのは思ったよりも楽しいことで、充実している。もちろん思考は景色やその時の季節のさまざまなものに奪われてしまう、だからこそ安定した好きな曲がいいのかもしれない。いつでも帰る場所があるのだ。