現代日本の効率主義に関して ー「役に立つ」幻想

今朝(2023/4/13)のNHKおはよう日本で「タイで日本企業が“採用負け”」という報道をちらりと見た。安賃金のせいで、タイでの日系企業人気が全盛期に比べ急落とのこと。日本の競争力が63ヵ国中34位と低迷しているという記事も思い起こされる。

この先この国は一体どうなるのかとひどく危惧を覚えた朝であった
そこから、ぼんやりと考えた輪郭のないことをとりとめもなく書き記す。

私が恐ろしいと感じる言葉

"役に立つ、実利実学、合理、効率、能力、コストパフォーマンス、タイムパフォーマンス、生産性、人材"  

今やあらゆる場所で当たり前のように聞く言葉である。

「実利実学」に通じ、「効率」的に物事を進められるような「合理」的思考をもつ「能力」の高い人物、すなわち「役に立つ」「人材」を確保することにより、「コスト・タイムパフォーマンス」をはじめとした企業・社会全体の「生産性」が向上する。のであろう

いかに"おトク"に物事を進めるか。こういった思考が現代社会を動かす一動力となっていることは言うまでもない。
おトクか否か、役に立つか立たないか、そういった二元論的思考がはびこるような社会が基盤にあっては、上記報道のような現状もさもありなん、と思う。合理的であることはある一面においてはよいことであるが、一見無駄なことを切り捨て、合理性を突き詰めることで見落とし見逃すものも多く存在するだろう。

何事においても「それ相応の対価を覚悟する」ということ、すなわち「その重みと腰を据えて向き合う」ことを改めて重視すべきではなかろうか。
それがない限り、この国に未来はないと思われてならない

ついでに、教育について

資本主義が強力に推し進められ、「合理的か否か」かが価値判断の基準として根強く存在する現代においては、そのような社会に適合するような子供を育てることに主眼が置かれた教育システムとなっている感がある。
「社会の"役に立つ""人材"」などと大人も子供も口にする。私は、「人材」という言葉からは、どうも「商品」のような「売り物」のような、外面的価値をのみ重視したような印象を受ける。


また、目先だけの短期的視点において役に立つ(らしい)"実学"を指向する風潮にも危機感を覚える。2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川さんの言葉にこんなものがある

お金の出そうな分野でしか人が仕事をしない。あるいはお金になりそうな発明や特許に人が集中する。こうした商業主義に流される科学研究は、国策としての軍事研究にも利用されやすいという一面も忘れてはなりません。

益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』

「お金になる」というのはある面において「役に立つ」ことの証拠であるが、これは極度に「役に立つ」ことを追究するとこうなりかねない、という警鐘である。ただ、軍事の方面にまで行かなくとも、長期的に見て国力を衰えさせかねないような風潮が現在あるように思う

そういった実学指向のよい例が高校国語科の文学軽視である。「実用的な文章」を重視するとの方針だが、実用的な文章を教材としたところで子供はそこから一体何を学ぶというのだろうか。「その先を覗いてみたい」という知的好奇心を刺激するものになりうるのだろうか。なんとナンセンスな、と悲しくもなるが、当面は限られた枠組みの中で最善を尽くすしかなかろう(なお、復職できたらの話)。

一見すぐには役に立たないような知識でもって、(太宰の言うところの)"カルティベート"されることが学習者にとっての学びの本質であり、それを促すことが教育の役割であろう。「人材を育てる」ことと「人を育てる」ことは文字面こそ似てはいるものの、質的には大きく異なるものであると思われてならないのである。


太宰の小説中に登場する「黒田先生」という人物の言葉、これは、実にいい 
一度Twitterでもバズっていたと記憶している

もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。

太宰治『正義と微笑』

ついでに

また以前、「相応の対価」というものがとても気になって、こんなことを書いた
以下、2021/11/3 FBへの投稿(抜粋)

実際に足を運んで素材を触り、形、サイズ感、色味などをよく確かめながら買い物することは、近頃どれだけあっただろうか。

やや落ち着いてきた?とはいえ、未だ長引くコロナ禍の今、自分の足で歩き回って長時間買い物をすることが憚られているのは事実。そんな中で先日、必要に迫られ久しぶりに洋服の買い物に出かけたわけだが、早々に高い壁にぶち当たった。「自分の求める服」、「自分がときめきを感じる服」、「自分に似合う服」。これらが、ピタリと重なることがなかなかないのだ。何軒も店をまわって理想の一着を探すが、どうもピンとこない。時間も体力も注ぎ込んだが、収穫が得られず肩を落として帰った。

思い返してみれば、これまでもそんなことはしばしばあった。買い物に行く!と気合を入れて武装し戦地に赴くわけだが、何の手柄もあげられず意気消沈して帰途……というわけである。

しかし、そんな中でもたまに戦利品を得られることがある。妥協して購入するということも実際として無くはない。ただ、極々たまに、悩み抜いて、もしくは激烈な出会いをして理想のものを購入できることがある。それを手に入れたときは、喜びもひとしお。世界が輝いて見えるほどに、胸中が踊る。

そうはいってもやはり、理想に辿り着くまでのその過程が面倒くさくて、空き時間にネット通販に手を出してしまう。「表面的に理想と合致しているように見えるもの」を、ワンクリックで購入し、人様に自宅まで届けてもらうわけだ。自分の労力=購入までのプロセスをかなり省いた、非常に目的的な営みであると言える。

商品が届くのは嬉しい。ただ、嬉しさは私の場合一瞬で、次の瞬間には無造作にダンボールを片付け、開封し、タグを外し、洗濯し、クローゼットに入れている。
時々、断捨離をしよう!と思い立つのだが、まず初めに目が行くのは、ネット通販で買った物ものである。
何を言いたいのかというと、ネット通販で購入した物には、自分の足で店舗に赴き、苦労して手に入れた物に対して抱くほどの愛着をもてないのだ、私の場合。愛着の持てないものは、手放しても特に何とも思わない。

自分で足を運んで買い物をすると、自ずとそれに付随するストーリーが生まれる。
例えば、こんな天気の日に誰とどこへ行って、店員とこんな点について色々相談して、あれとあれで迷って、試着したら似合わな過ぎて爆笑して、結局こんな決め手があったからこれを選んで購入した、だとか、帰り道に商品の袋を下げて歩きながら吸った空気の味、新しい商品を家に持ち帰る道中のワクワクした気分、家に帰って改めて商品を開封した時のときめき、初めてそれを使うときのドキドキ感、だとか。

「もの」がストーリーとともにある限り、永く大事にしよう、と思う。対象への「愛着」とは、点と点に過ぎなかった自己と対象とを「線」にする、点と点をストーリーで結ぶ、その過程で生まれるものだと感じる。

現在の大量生産・大量消費・大量廃棄の消費産業社会が、自分の足で買い物に行くことへの敬遠によって加速しているというのは、ひとつあり得ると思う。今、コスパやタムパ(※タイムパフォーマンス:Z世代の意識としてかなり根強いものとなっているらしい)が重視されているが、そのような価値観の中では、短期的・ミクロ視点では「得」をしたように感じられても長期的・マクロ視点では「悪」ということが、往々にして生じうるだろう。

「持続可能性」を根本から考え実現していくためには、「『それ相応』の対価」という考え方も根本的に見つめ直すべきではないか。



全体的になんだか本当にひどい文章だな
ぼんやりした感じだけど、またいつか改めて輪郭をくっきりさせる営みをしよう。 
今日は疲れた おわり

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