【落選小説集】深緑の夜に
札幌という街は俺にとって、イラっとさせられる街だ。クソくだらねぇ業界の会合に先輩の代打で出ることになり、札幌出張を命ぜられ、ここにいる。少し前まで、住んでいた街。
友だちがいればまだマシだったが、運の悪いことに出張が急だったこともあって、誰ひとりつかまらなかった。ハンパに知っているだけのヤツに会うくらいなら、コンビニでおにぎりでも買って、ホテルに戻り、オナニーでもして、とっとと寝たほうがよっぽどマシな時間の潰し方だ。
会合のあったコンベンションホールから泊まっているホテルまで、大通公園を挟んでまっすぐ歩く。建物を出ると、近くの植物園から深い緑の匂いがした。まとわりつく匂いが、俺をイラつかせ、甘く惚けさせる。封印した記憶が、熱く、腹の奥のほうから湧いてくるのを感じる。街路樹の葉が、かすかな風に揺れるのを眺めていた、あの人のことを思い出す。しゃーない。ここは札幌だ。
大通公園を過ぎ、電車通りに出た。セブンイレブンがあった。おにぎりを買おうと思うのと同時に、前に来た店だったことを思い出した。電車が、ふぁん、と警笛を鳴らして俺の前を過ぎて行った。ムカムカした。思い出す自分にムカついた。過去なのに、俺の選択は正しいのに、俺は記憶を「今」に引きずり込もうとしている。記憶が「セブンに入らず、右に曲がれ」と俺に告げる。「振り返る、ってのも悪くないぜ」と記憶が俺に囁きかける。
「完全に終わってる話じゃないか。完結した記憶の、甘く、柔らかく、温かいところだけを反芻するってのも、悪くないぜ」
記憶が言う。
「思い出を振り返る、ってのは、生きて、死んでいくためのプロセスのひとつだ。大げさに、頑なに拒否することでもねーじゃん。この道、右に曲がって行くべって」
記憶が俺の背中をそっと押す。それもそうだな、と、俺は記憶に同意する。人生長いんだ。過去をボンヤリ振り返るのも悪くない。どうせホテルの部屋に戻ったところで、日常的なオナニーでもして、寝るだけなんだから。
電車通りに沿って歩くと、交差点の向こうに、グレーの古い建物が見えてくる。あの人が信号待ちをしていて「あ!」と指差し、行きたいと言い張った、喫茶店のある建物。信号を渡る。いくつかの店舗が入ったビルだ。目線の少し上に、白地に緑の文字の看板が見える。
「喫茶 25歩」
左に曲がる。「喫茶 25歩」と同じデザインの看板が闇に白く光り、浮かんでいる。定休日なら、あきらめもつくのにな、と一瞬思う。あきらめって何だよ、と俺は自分にツッコむ。そういえば、初めて、あの人に連れられて来たときもそう思った。でも、その店は、あの時も、今日も、俺を、俺たちを、静かに待つように営業していた。
深緑のドアを開ける。白い壁、電球の灯り、高い天井。窓が開いていて、昭和の時代の扇風機が置いてある。キッチン側のカウンターに男の客がひとり。店のお姉ちゃんがひとり。彼女が店主なのだろうか。あの人と来たときにも、彼女がいた。俺は窓側のカウンターに座った。あの人と来たとき、ちょうど今くらいの季節に来て、やはり座った席だ。電球、和文タイプで打ったようなメニューのPOP、L字のカウンターのところどころに、無造作に本が積まれている。あの人も、その背表紙を指でなぞっては、満足そうに、楽しそうに手にとっていた。
店のお姉ちゃんが水のグラスと一緒に、黒い、小さな出席簿のようなメニューを持ってきた。コーヒーでいいや、と思いながら、選ぶでもなしにメニューをめくり、眺めた。
コーヒーは「珈琲」と書かれ、煎り方によって「するり」「さらり」「ごくり」とあった。そうだ。これを指差して、あの人は喜んだ。「ステキ」と。おとなしい小学生の女の子みたいに。静かで柔らかそうな笑顔を俺に向けた。そのとき、あの人は珈琲とあんみつみたいなものを食ってた。目の前のPOPを手に取り、表裏を見た。片面にナポリタン、もう片面に「珈琲汁粉」が載ってた。あのとき、あの人が食ってたのは、これだ。珈琲汁粉。ひとくち横取りした。そんなこともあった。メニューをめくる。「おやつ」というページ。無難にチーズケーキでも食おうかな、と思った。あのとき、俺はノリでプリンアラモードを食った。多分、スマホの中に、そのときに写した写真が入っている。あの人を撮った写真は全て削除したが、あれは多分残ってるだろう。もう探さないけど。
店のお姉ちゃんが注文を取りに来たので、結局、中煎り珈琲の「さらり」と「珈琲汁粉」を頼んだ。今日はそんな食い方をしても、いいんだと思った。人生で、過去を振り返る時間が少しあったところで、悪いことじゃない。
「タバコ、吸えんだっけ?」と姉ちゃんに訊くと、外に灰皿があるから、そこで吸うようにと案内された。そうだったよな、あの時もそうだった、と思い出した。俺はずい分、どうでもいいことばかりを記憶してる。どうでもいい記憶ばかりを仕舞った箱を、今日は開ける日なんだろう。風を通し、軽いものは風に乗せて飛ばしていくのだ。
外に出て、灰皿のそばに立って、タバコに火をつけた。札幌の夜。俺の心の中の深い場所で、気が狂いそうな叫び声を上げてる奴がいるのを感じる。遠くから市電の警笛の音が夜に紛れて聴こえる。立ち上るタバコの煙の向こうに、ビルの谷間の星空が見える。俺はふたつの時間の端に立っていた。今と、あの人と生きた時間の、ふたつの時間だ。
あの人を愛しいな、と感じるとき、思い出すのは、まず、匂いだ。オフィスでは、さっぱりとした匂いの香水をつけていた。ほんのかすかに感じられる程度に、ふたりでシャワーを浴びるときに、ようやく感じられるような。ナポレオンが使っていたとかいう香水。そこらのドラッグストアに売っているものじゃなく、イタリアに本店がある香水屋のものだ。それを膝の裏にシュッとひと吹きするんだと言っていた。ときどき俺は、服を脱がせる前に膝裏を嗅いだ。深い森のような緑の中に、かすかにバニラのような甘い匂いがした。そうでなければ、花の匂いや、刈りたての芝生の匂い、ものすごく高級そうな線香の匂い、普段は嗅いだことがないような珍しい柑橘系のくだものの匂い。そういうのが肌や髪に、そっとのせられていることもあった。アロマオイルの匂いなのだ、とあの人は言った。あの人の、うなじや、首筋や、肩の匂い。腹や、おっぱいの匂い。
おっぱいは、柔らかかった。
俺はいくつかのおっぱいを知っていて、どのおっぱいも好きだったが、あの人のおっぱいは、他のどの子のおっぱいとも大きく違うところがあった。ふわふわと、柔らかかった。ふわふわ過ぎた、とも言える。あの人はそれを年齢のせいだ、と言った。若い頃と比べると、ずい分感じが変わったのよ、と。
きれいな形だった。
垂れてるわけでもなく、大きかったけれど、過ぎることもなく、女性的で、母性的だった。俺たちはよく「漢字の形」の話をしてたけど、あのおっぱいは「乳」という字の美しさそのままだという感じだ。「乳」という漢字を書き続けると、俺の頭の中には、乳白色の、光を放つような、柔和な形が見えてくる。白く丸い大理石でできた、神聖な小さな祠のような。「乳」の話をしたとき、ふたりで心ゆくまで「乳」とか「乳房」という字を紙ナプキンなんかに書き続けた。あの人も、照れることもなく書き続け、静かに「いいわね」と言った。「ちょっとした神さまみたい」と。
あの人の身体丸ごとが「ちょっとした神さま」みたいだった。隅から隅まで、おっぱいの持つ力を満たしたような身体だった。あの人は、おっぱいみたいな人だった。
あの人が俺の視野に、鮮やかな色彩をもって現れたのは、あの人が音を立てなかったからだ。
あるとき、他の女と違う、と気づいた。気配がなさすぎた。気配がなさすぎて、それはある種の「殺気」にすらなっていた。一見すると、年齢の割に、そこそこキレイで、まあ色気もあるがイヤミではなく、仕事のときは男と変わらないような切れ味。くだらねぇ話をしてても、そこそこいい感じの、年上の人。年上過ぎて、射程距離に入らないくらいの。でもそれは、あの人だけじゃない。感じのいい年上の女はいくらでもいた。気持ち悪いのも、まあ、いたけど。
あの人の「抑制」は、ちょっと特別だった。しぐさのいちいちに目がいった。立っているだけで静かで、静か過ぎて、かえって俺には目立った。ほんの少し首をかしげてるだけで、ものすごく雄弁に何かを語っているみたいに見えた。おかげで目が離せなくなった。指をかすかに動かすだけで、音楽が聴こえてくるような感じがした。当時の俺に自覚はなかったが、俺は彼女に恋をしていたのだ。ひとまわり以上年上の、旦那持ちのおばさんに。恋がある種の丁々発止の闘いなんだとしたら、俺は彼女から発せられる殺気に瞬殺されていた、ということだ。甘く、切ない、負け試合。
後に俺は会社を辞め、移った職場の男の上司とサシで飲んでいた。俺はそいつのことをあまり気に入っていなかった。だけど、まあ、流れでふたりきりで飲みに行くことになった。そしてノリで、あの人とのことを話してしまった。上司は軽薄そうに笑いながら「ああ、俺もいたよ、そういう女。年上の人妻で、こう、エロい女。いいよな!」と言った。俺はグラスを口に当て、酒を飲むことで、きちんと返事をしなかった。一応、職場の上司だった。俺だって空気を読むことはする。でもグラスを口に当ててなかったら、俺はこう言っただろう。「あの人と、てめぇのブスでバカなブタ女と一緒にしてんじゃねーや」と。でも、どうだろう? 俺とそいつの、どこに差がある? やってたことは人妻との不倫だ。それ以上でも、それ以下でもない。真剣な恋愛? 旦那から奪えもしねぇで、真剣な恋愛? 奪ったところで、もう、おそらく俺の子どもなんか生めないようなおばちゃんとの、真剣な恋愛?
俺の中にいる、心細い小僧みたいなもうひとりの俺が、か細い声で俺に囁く。
「もう終わっちゃったけど、俺、あの人のこと、本当に愛してたんだよ。本当にかわいくて、本当に幸せにしたくて、一緒にいると、俺、本当に幸せだったんだよ」
俺の中の遠くの方で、気が狂いそうな叫び声を上げてる奴がいる。俺は、俺の心の深い場所にいる小僧の頭を撫でるような気持ちで、タバコを灰皿に押し付けて、消し、店の中に戻った。
店に戻ると、珈琲と、珈琲汁粉が来た。あの人はコーヒーをブラックで飲んでいた。俺は必ずミルクを入れた。ちょっと負けた気にもなったが、まあ、俺は、入れないと飲めない。珈琲も、珈琲汁粉も、うまい。俺には時間つぶしのスタバやドトール以外で、コーヒーを飲む習慣がない。あの人は茶碗やスプーンにもいちいち反応した。この店でもそうだった。俺は珈琲をすすりながら、心が静かに、深いところへ降りていくのを感じていた。あの人を抱きしめて、髪の匂いを嗅いだときの気持ちに似ていた。深いところへ降りていく感じ。あの人の髪からは、花の匂いと、深い緑の匂いがして、俺はそれを気に入っていた。パーツごとの匂い。そして、全てを洗い流したあとの、彼女自身から発せられる、甘く温かな匂い。
珈琲汁粉もうまかった。ゆでたあずきと、ココナッツミルク、珈琲ゼリーと、白玉。あの人もいちいち喜びながらスプーンを口に運んでいた。気に入ったものは、うまそうに、集中して、ニコニコと、モリモリ食う人だった。白玉を食おうとしたら、手の甲を叩かれたな、そういえば。あのとき食いそこねた白玉を、俺は、ようやく食えるわけだ。
あの人とは、ずい分いろいろなところに行ったけど、こんなふうに記憶が強烈に蘇ったのは、多分、この店に来たのが、初めてキスした日に来た場所だったからだ。
職場の飲み会が終わり、あの人は酔いを覚ますから歩いて帰ると言った。俺は危ないから送ると言い、あとについた。みんなもそうしろと言い、その場で解散になった。ついて来た俺にあの人は、来なくていいと言い張ったが、俺は心配を理由にあの人について行った。地下鉄すすきの駅の入口で立ち止まって帰るように説得されたが、ふと「ま、いっか」とあの人は言い、ススキノから、この店まで歩いた。あの人はときどきくるっと回ったり、キックしたりして歩いていた。踊っているみたいだった。ほんの少し歩くだけで、手をひらっと動かすだけで、音楽が見えるようだった。顔つきがいつもとまったく違っていた。無防備で、めんこい3歳児みたいだった。
俺たちは、あまり言葉を交わさずに歩いた。気を使って沈黙を埋めるような会話をしなかった、ということだ。すべてがあるがままに完璧で、言葉は言葉になり、沈黙は沈黙になった。札幌の夏のむせ返るような木々の葉の匂いが俺たちの身体をそっと撫でていった。空には丸い月が浮かび、あの人はときどき、あどけなく空を見上げた。俺はそんなあの人を目に焼き付けるように見つめた。俺の視線に気づいたあの人が俺を見た。いたいけで、あどけなく、護られるべき存在として。俺は反射的にあの人の手をとった。手をつなぎ、「うぇ~い」とその手を高く上げた。あの人は声を上げて、ゲラゲラと笑った。俺が今回の出張で泊まるホテルの前の路上で。店に入るまで、ずっと手をつないでいた。ふたりの手は饒舌だった。つないだ手が心臓みたいになって、俺たちの身体を流れるエネルギーを循環させていた。俺たちは手をつなぐだけで、お互いの情報を得ることができた。それが錯覚だとしても、幸福な錯覚の中に、俺たちはいた。
珈琲汁粉は、白玉もうまかった。俺にとっては単なる白玉団子だったが、ぷるぷるしたものや、ぷにぷにしたものを好んで食ってたあの人はこれを「ごほうび」と呼んだ。
「ごほうび」はあの人の口癖だった。バーで飲む酒、湯気が立つ食いもん、肌ざわりのよいもの、美しい眺め、夕焼けと朝焼け、「東京の赤い夜」、そして、俺。白玉と並列ってどうよ? と思わなくもなかったが、俺はあの人を、ただ生きているだけで幸せにしていたのだ。
本当に、あの人は、俺といて、俺とあの時間を過ごして、幸せになれたのか?
初めてこの店にふたりで来て、珈琲を飲み、珈琲汁粉とプリンアラモードを食い、言葉を交わし、沈黙を楽しみ、閉店時間になって、店を出た。手の平に磁石がついているみたいに、自然に手を繋いだ。目と目で見つめあった。言葉にならない答え合わせをした。答えは合っていて、俺たちは手を繋いで歩いた。あの人の夫が待つ家に向かって。あの人と俺を隔てる、あの人が帰らなくてはならない家に向かって。
繋いだ手を通して、俺たちの「エネルギー」が循環する熱が伝わってきた。俺たちは、自分の中にお互いのエネルギーが充填されるのを感じていた。そういうのは、わかる。気のせいなんかじゃない。欲情と呼びたければ呼べばいい。あの人の全てに触れたかった。俺はあの人が熱く潤っているのを知っているし、俺だってスタンバイOKだった。でもそうなれば、かなり面倒だ。俺はスイッチをオフにした。大人にはなっとくもんだな、と思った。スイッチをオフにし続けられたのは、あの人の意識が伝わってきたから、ということもある。俺だって同じ気持ちだった。
俺たちは、無意識にゆっくり歩いた。ゆっくり歩きすぎて、最終的に止まってしまった。せっかく切ったスイッチを、ふたりでオンにした、というわけだ。
「タクシーに乗るわ」
あの人が言った。反射的に俺はあの人を抱き寄せた。俺の肩はじんわりと生温かくなった。あの人の左手は俺と繋がったままで、右手は俺の胸骨に押し当てられていた。俺の背中に回してくれたらいいのに、と思った。俺たちは隙間なく抱きしめ合って、ひとつに溶けてしまえばいいのに。
やがてあの人は声を上げて泣き出した。普段の声とまるで違う、小さな女の子が、自分を押し殺すような泣き方だった。少女が、怯えながら、ごめんなさいと謝りながら泣くような、か細い声。俺は少し力を緩めた。小さな、いたいけな女の子が泣いているときに込めるような力に切り替えた。背中をさすり、ポンポンと軽く叩いた。あの人の耳の冷たさと、耳たぶの柔らかさを愛しく感じた。湿り気を帯びた、熱い吐息。俺は自分の浅くなった呼吸を、意識して深く、ゆっくりと軌道修正した。あの人に伝わるように。泣かなくていい、謝らなくていいんだ、と、あの人に伝わるように。あの人は聞き分けのいい優等生のように、少しして、俺と同じ、ゆっくりとした、深い呼吸をし始めた。そして、ごめんなさい、と言い、ティシュで鼻をかんで、俺を見て、にっこり笑った。そしてまた俺たちは、ふたりを隔てるあの人の家へ向かって歩き始めた。
途中の自販機でペットボトルの水を買い、ちょうど良さそうなビルの非常階段に腰掛けた。手は、繋がれたままだった。
「ごめんね」と、あの人から話し始めた。
「大丈夫ですか?」と訊くと、手にしたペットボトルを凝視しながら、うなずいた。大丈夫じゃないじゃないか、と俺は思った。俺だって、大丈夫じゃない。少なくとも、俺は大丈夫じゃない。まっぷたつの結論に俺たちは一緒に打ちひしがれていた。酔った勢いならよかった。遊びならよかった。単純に出来心とか、そういうのなら、どれだけ俺たちは救われただろう。でも違った。俺たちはずっと前から、お互いに触れることなく「エネルギー」のようなものをふたりの間で循環させていたのだ。それに気づいてしまった。だからあの人は反射的にタクシーに乗ろうとし、俺は抱き寄せたのだ。
人の身体というのは、ずいぶん厄介だな、と俺は思った。俺たちは求め合っていた。「エネルギー」を、「意識」や「心」では足りず、お互いの身体をつかって、もっとダイナミックに循環させて、まったく新しい、爆発するようなものを体感したかったのだ。まあ、もっとカンタンに言えば、俺たちは、やりたくてやりたくて、たまらなかったのだった。それは、正直に認めるなら「愛し合いたい」ということだった。この湧き上がるものは、いわゆる「愛」なのか「単なる欲情」なのか、ダメ押しで確認したい、ということだった。でも俺は知っていた。
「こりゃ愛だべ。愛に決まってるべや」と。
俺たちは、鉄さびのついた非常階段のステップに座って、途方に暮れていた。やってしまったらおしまいだった。俺はたいていの「世の中のルール」と「俺の欲求」なら、俺の欲求を優先させようと思って生きている。でも、さすがにこれはヤバイだろうと思った。世の中の「不倫話」の人物たちがうらやましかった。「浮気話」なら、もっとだ。軽いノリでこうなったんだったら、俺はもうとっくに、あの人が「タクシーに乗るわ」と言った時点で俺もタクシーに乗り込み、ホテルにでも連れ込んだだろう。職場の人だからマズい、というのとも違う。俺は認めざるを得なかった。あの人を、愛していたのだ。あの人が大切で、あの人が辛い思いをするのだけは、どうしても避けたかったのだ。それと同じくらい、俺たちは、どうしようもなく、くっつきたかった。まっぷたつのベクトルに向うエネルギーが、同じ量だけ引っ張り合っていた。
俺は無意識に、つながれたあの人の手の甲を、俺の頬につけていた。そしてそこに唇をつけた。生きている、女の手だった。温かくて、皮膚の下に血管が通り、熱い血が流れていて、いい匂いがする、柔らかなあの人の手。
あの人がむせたような声を上げた。水を飲ませなきゃと思ってみたら、泣きだした。俺だって泣きたい、と思うのと同時に、反射的に抱き寄せた。抱き寄せて、もう俺の側から二度と離れるなバカと思いながらキスをした。あの人はむせるように泣きながら、俺のキスに応じた。頼むから泣かないでくれ、と思った。すごく嬉しくて、ひどく悲しかった。俺が悲しませてるみてーだべや。俺はあなたを幸せにしたいだけなのに。
それでも俺たちは、少しずつ落ち着き、唇をそっと離すことに成功した。唇が離れると、あの人は俺をまっすぐ見た。そして俺の耳の下に、とても優しくキスをした。左に、右に、そしてもう一度、左の耳の下に。俺はそれに応じて、あの人の右の頬と、額にキスをした。それは言葉にならない思いを、行為で示したものだった。そっと、優しく、時間を封印するように。
札幌の夏の夜の空気、というのは、こういう感じだったな、と、ようやく身体が思い出す。扇風機は止まっていて、窓から入る静かな風は、俺の心の火照りを落ち着かせた。俺は積んであった本を手に取り、開いたが、目は文章を追えなかった。頭の中で「再現フィルム」が流れ続ける。ときどき一時停止ボタンを押す。そして珈琲を含む。俺の脳内に、再び「再現フィルム」が流れ始める。
俺は恋の始まり特有の有頂天の只中にいて、浮かれていた。
「なあ、お前、ちったぁ冷静になれや」
何人かの親友に、俺は俺の恋の話をした。俺、不倫してんの。人妻、ひ・と・づ・ま。
「いくつ?」
「15歳上」
「はぁ? 40過ぎてんじゃねーかよ。お前、そういう趣味だった?」
「たまたまだよ」
「金? 身体? こう、テクニシャン?」
「まだやってない」
「おっかしーんじゃねーの? 正気か?」
どいつも、そんな反応だった。俺の選択が常軌を逸している、と。
「本気?」
「好きだよ。やや生意気でムカつくけど、基本的にめんこい。おっぱい大きいし」
「その人、旦那とうまくいってないわけ?」
「どーだべ。言わねーな。悪くはないんじゃないの? レスかもしんねーけど」
「将来どーすんの? 離婚させて、その人とお前が結婚するの?」
「知らねー。まあでも、そうなったら俺の人生こっぱみじんこだな」
「……15歳年上ってかい」
親友の言いたいことは、何となく想像はつく。うっかりしたら自分の母親とそう変わらない年齢だ。15歳年上というのは、心身ともに、おばちゃんなのだ。俺だって、俺たちだって、セックスを覚えたての大学生じゃない。同級生は既に、半分以上が結婚して、今、俺たちの周りは出産ブームがやってきている。本気で自分の将来を考えるなら、閉経寸前の、15歳年上のおばさんと不倫してる場合じゃねーだろ、ということだ。
「やってねーんだろ? その人と」
「時間の問題だろーけどな。でもキスはしてる。ちゅっちゅ、ちゅっちゅしてる」
やってしまえば、セックスしてしまえば、何かに決着をつけることができる。欲しい答えが得られる気がした。俺は、俺たちは、何かに浮かれ酔っているだけなのか、抗えない力が作用し、出会うべくして、出会ってしまったのか。
それでも、やってしまう、というのは後戻りできなくなる、ということだ。今ならいくらでも、なんとでもなる。傷つく人間も、そう多くない。旦那さんにバレたとしても、今なら言い訳はいくらでもつく。でも、やってしまったら、現実的に、俺たちはある種の罪人だ。旦那さんが、俺かあの人を訴えて慰謝料を請求してきたら、俺はびっくりする程の金を用意しなくてはならないだろう。
「ごめん。もう少し待って。お願いだから、ゆっくり進みましょう」
あの人はそう言った。俺たちはもう、自分たちの気持ちを「なかったこと」にはできそうになかった。だから、そう遠くない時期に俺たちは、やるんだろう。あの人が離婚したとして、もし、お互いに結婚する意思があったとしても、少なくとも俺は家族から勘当を言い渡されるのは目に見えていた。40歳をとっくに過ぎたあの人と子どもをつくるのも、ほぼ諦めなくてはいけないだろう。先を見れば、絶望ばかりだった。それでも、あの人とくっつきたかった。強い気持ちを抑えられない。それが恋だった。俺は、紛れもなく恋をしていたのだった。
「お前、まんこに白髪生えてる女に勃起する自信あるの?」
ある日、親友とあの人を合わせた。その時間はとても楽しかった。親友は愉快な奴だし、あの人も楽しそうだった。例えば職場の仲のいい奴らだけの飲み会に参加するような。
「俺は、ないね。どれだけいい身体した美人でも。まんこに白髪生えてんの、クンニのときにバッチリ見た瞬間、しゅるるるる~だわ」
あの人を合わせた親友と、その後、ふたりで飲んでいたとき、そいつが言った。ピンと立てた人差し指を、力なく倒しながら。
「あの人、確かにめんこいわ。15歳年上には、パッと見、見えないわ。美人っていうより、めんこくて、キャラもいい。めんこいけど、自立してるっていうか。ステキな人だと俺も思う。ああいう上司とか、うん、いいなって思う。お前が好きになったのもわかるよ。めんこくて、自然な包容力があって、でもオカンじゃない。いい女だと思う。おっぱいも大きいし、全体のバランスも色っぽくて、まあ、とにかく俺があと10歳年食ってたら、口説いてたかもしれない。いや、どうかな? 俺の好みとはちょっと違うか。でもお前があの人に惚れたのはわかる。でも俺、経験あるんだ。昔、ソープで、ものすごいおばちゃんに当たったとき、まんこに白髪生えてた。そりゃもう、ちんちんが音を立ててしゅるるるる~って」
「ちんぽが音を立てるかどうかは、知らんけど。まんこに白髪、ねえ」
「あの人、髪の色明るめじゃん。きれいにメッシュ入ってるじゃん。あれ、白髪染めだろ。っつーか、もみあげに白髪生えてるのが見えるってことは、結構いってるわ」
「で? まんこに白髪」
「だよ。お前、できんの? お前のちんちん、そんなに強靭でいられるの? ちんちんってナイーブなんだよ?」
「まあ、そんときゃ、そんときだな」
結果的に、この親友の助言は俺に覚悟を決めさせ、奴の意図とはまったく逆のベクトルに、俺とあの人の関係を向かわせることになった。白髪は確かにあった。俺はひるんだが、予想していたことだったから、ダメージは少なかった。覚悟ができていたのだ。
むしろ俺が驚いたのは、あの人のまんこの温かさだった。熱さ、と言ってもいいのかもしれない。俺の乏しい女性経験の中で、こんなに温かく、俺を包み込んだまんこは多分、ない。まんこを中心とした、あの人の全てが、熱いようだった。この世のすべてのいい匂いを寄せて集めて、熱を加え、とろっとろに溶かしたような、新しい生き物が、あの人だった。俺はその新しい生き物の中に、ものすごい力で吸い込まれていった。あの人は激しく自身を謳歌している、生きている温泉のようだった。激しく、気持ちいい。下半身を中心に、死ぬんじゃないかと思うほど心拍数が上昇する。温かい、とろとろとした液体の中で、俺はどんどん緩んでいく。緊張と緩和の両極端の中で、俺はあの人を、あるいは俺自身を、おそらく激しく愛して、激しく求めているんだろう、と感じていた。激しいほどの、温泉。極端だ。マグマではなく、温泉。温泉に浸かって、ここまで興奮することは、まずない。でも、あの人の胎内にいる、ということは、激しく温泉に揉まれて、激しくゆるゆると緩んでいく、ということだった。たかがセックスに、俺たちがなぜ振り回されていたのか、理解できた気がした。俺たちは予測していたのだ。ふたりが溶け合ったときに、何が起こるのかを。言葉にならない、この化学反応を予測し、怯えていたのだ。
店のお姉ちゃんが、空いたグラスに水を注いだ。静かに、そっと。
過去に取り込まれそうになりながら、俺は今と過去を行き来する。今夜くらいはいいんだろう。どうせホテルに帰ってもオナニーして寝るだけなんだ。
高く、黒い天井、ほの明るい照明。夜の学校にいるような、古い方のじいちゃんちにいるような、落ち着きと、心もとなさ。カップに口をつけると、珈琲はすっかりカラになっていた。今夜、過去の力は、強い。全然気づかなかった。俺は珈琲の「するり」を追加注文した。注文すると、アニメ声のおばさんと、若い男が入ってきた。入れ替わりにカウンターの男の客が勘定を済ませ、店を出て行った。アニメ声のおばさんと、若い男と、店のお姉ちゃんは親しげに話をしていた。アニメ声が何か自慢をし、お姉ちゃんが調子を合わせてやり、若い男がアニメ声をたしなめていた。普段の俺なら、カチンと来ただろうが、不思議に何も思わなかった。多分、あの人と過ごした時間に片足を突っ込んでいたからだろう。俺はタバコを吸いに外に出た。ビルの谷間の夜空に、白い満月が浮かんでいた。俺は軽くヤニにクラっとしながら、そういえば、あの人はよく空を見てたな、と思った。JRタワーの展望台から、信号待ちをしながら、北海道神宮の、森の広場のようなところから、羽田空港のスカイデッキ、東京駅の大丸側の入口、二人で泊まった丸の内の高層ホテル、藻岩山展望台、豊平川の花火大会の芝生の上で、ビアガーデンで、子どもみたいに。俺のことが見えてないみたいに。声をかけると、一瞬、キョトンとした顔で俺を見て、続いて、ああ忘れてた、とでも言いそうなツラでニッコリ笑った。無防備に。自分が見てる空の様子をメールで知らせて来たりもした。当時の俺は、多少、面倒くさい気持ちでその画面を眺めていたが、今、ここでタバコを吸いながら白い月を眺めていると、その気持ちがわかる気がした。もしまだ、俺たちが続いていたら、俺もメールをしたかもしれない。
今、あの喫茶店に来て、外でタバコ吸ってる。白い月が見える。あなたがいるところからは、見える?
そういえばあの人のことを思い出すときに、頭の中で流れる歌がある。『天空の城ラピュタ』の『君をのせて』だ。あのメロディと、あの歌詞。特に俺は、ある日、偶然聴いたアカペラのカバー曲にやられた。あの人を思うとき、頭の中に流れる曲。
俺は、あの人との幸福の絶頂に立ったとき、別れを決めた。ラピュタに繋げるなら「滅びの呪文を唱えた」ということだ。
このままでどうする? あの人を旦那さんから離すわけにもいかないし、俺も、自分の人生をきちんと、まっとうに、生きていかなくてはならない。こんな関係をズルズル続けていくよりは、今、この極みの時点でスッパリ切るほうがいいだろう。多少辛いだろうが、もともとあり得ないことをやっているんだから、まあ、そのうち「戻れる」だろうと思った。戻る? あの人と出会わなかった頃の俺に。
戻る、と言えば、あの人は「二度と戻れない」と言った。俺を知らなかった頃の、まして、身体をくっつける以前の自分には、もう決して戻れない、と、まっすぐ前を見て言った。珍しくきっぱりと、そして、そのきっぱりさがあの人の本質の一部なんだろうな、と思わせるような、極上の「きっぱり」さだった。戻るんじゃない。ただ、進み続けるだけなのよ。一見すると、戻る、かもしれないけど、まったく同じなんて無理。生きてる限り、どんどん新しくなって、進むしかないのよ。
俺は「戻る」ために、適当な不機嫌をでっち上げて、あの人にキレ、別れ話を持ち出した。別れる、と決めたから、俺の言い分はたいそうおかしく、矛盾していたけれど、「別れる」という着地点はブレがなかった。あの人は話を一切聞かなくなった俺の前で、あの手この手で解決策を見つけようとし、誠実に、俺と向き合おうとした。俺は「もうおしまい。あなたとは別れる」とだけ言い続けた。あの人は俺の意思が変わらないと納得すると、「そう。わかったわ」と言った。それは、そろそろ雪が降りそうな季節で、歩道に積もった街路樹の葉が、季節の死の、朽ちた匂いを放っていた。話し合うために入った居酒屋を出て、地下鉄駅まで歩いた。手を繋ぎたかった。でも繋がなかった。俺は不機嫌を形成し、不機嫌のドームにすっぽり収まった。地下鉄駅まで行き、一緒に乗り、無言で座った。腿や肩が触れ合った。俺たちの身体は知っていた。俺たちが本望ではないことを、自らに強いているということを。先に降りるあの人を見送った。最後はどうしても、あの人の目を見つめてしまった。粘膜が刺激に弱く、いつも涙目なあの人の目。俺が最後に見た目も、泣くのを我慢して、眼球がきらきら光っていた。飴玉みたいにうまそうだった。
ところが俺は、あっさりあの人に連絡することになる。
別れを決めるのと同じ頃、あの人と一緒に働いていた会社も、何だか俺自身の成長には邪魔な感じになってきた。あの人に関することでも、自分自身のことでも、いろいろなことが丁度よかったのだ。俺は退職を決め、上司に相談した。退職はあっさり承認された。ボーナスを受け取り、有給休暇を消化し、あの人から遠ざかることに成功した。
転職先もあっさり決まった。あまりにとんとん拍子に話が進むので、俺自身が取り残されたような感覚に陥った。転職先では、どうやら俺は高評価だったらしく、札幌での研修後、東京での上級者研修のようなものに出向くことになった。1カ月間、みっちりビジネスホテルに泊まり、朝から晩まで座学、やがて実地研修、課題レポートの作成、提出、発表。気持ちいいくらいにめまぐるしかったが、焦点の合わない努力をしているような気にもなった。明るい未来にいる俺とか、めんこい彼女とドライブとか、そういうのがまったく見えない日々だった。とにかく自分の中でのギリギリのラインまで集中力を発揮し、それが切れると、カビ臭いビジネスホテルのベッドに気絶するように転がった。東京には友だちが何人か住んではいたが、積極的に誰かに会う心境にはなれなかった。
そんな東京での、ある春の休日、俺は長い眠りから目覚めた熊みたいな気分の朝を迎えた。自分がどこにいるのか、一瞬わからなかった。カーテンを開けて、窓の外を眺めた。ビルの谷間から見える小さな空は、それでも明らかに気持ち良さそうな、くっきりとした快晴だった。時計を見ると、まだ二度寝をしても十分な時間だったが、気分は良かった。白湯を飲むために小さな電気ポットで湯を沸かし、タバコをくわえながら空を眺めた。湯が沸き、スイッチが切れた音と同時に「そうだ、神宮球場に行こう」と思った。東京には神宮球場があり、俺は小学生の頃からスワローズのファンだった。あまりにバタバタしていて、自分が東京にいることと、東京には神宮球場があることが、まったく線を結ばなかったのだ。
広島カープとのその試合は、ずい分機嫌のいい試合になった。スワローズが2回の攻撃で、川端と山田が二塁、一塁に出て、畠山がヒットを打って1点、その後は点が動かない時間が流れ、ビールを3杯飲んでいるうちに、8回の広島の攻撃でロマンがエルドレッドに打たれて1点入れられ、どうなることかと思ったら、9回でバレンティンが気持ちよく、美しいアーチを描いて2対1でスワローズが勝った。
4月にしては暖かく、むしろ暑く、ビールを飲みながらデーゲームを眺めるのにはうってつけだった。札幌だったら、ちょっとした初夏の陽気だった。応援メガホンも傘もなかったが、応援団に合わせて大声を上げた。心地よく疲れたら、空を見上げた。米粒みたいな白い飛行機が青空を横切っていくのが見えた。空と旅客機が大好きなあの人に見せてやりたいな、と思った。ここで、あの人とビールを飲みながら、山田の盗塁や、畠山がドタドタ走るのを眺めたりできたら、どんなに楽しいだろう、と思った。多分、つば九郎のことも気に入るだろう。あの人はペンギンも大好きだったから。そして教えてやるのだ。
「あれはね、つばめだから」
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