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無題

庭にカナヘビと蜻蛉が2匹。塀の上と周りで走り回っているのを見ているといつの間にやら蜂がやって来て、チョウチョが飛んでいる。アイビーの葉脈が日光に透けたのを眺めながら、ゆっくりお白湯を飲む。

背骨を丸めて膝を抱えながら、ぎゅっと抱き締めると落ち着くし、自分がしっかりと自分のことを守っている感じがするけど、膝を見つめていると、そのときが大抵苦しいときだということを思い出させる。
忘れる作業はいつも思い出すことと背中合わせで、そういうときは自分が大丈夫なことを一生懸命に教えてやるのだけれど、頭で大丈夫であることのフローチャートを組み立てられていても、気持ちの方が置いてけぼりにされてまだ大丈夫じゃなさそうです、なんて信号を出してくる。そんなことだから、考えれば考えるほどキツく膝を抱えることになってしまったり、咀嚼できないサイズと質量の苦しさを無理に押し込んで何度もえずいたりしてしまった。まだ難しいみたい。

そういうような形で頭と気持ちが離れようとする運動が現れると、自分が二人いたらいいのに、と思う。嬉しい私と、嬉しい気持ちをゆっくり噛み締める私、苦しくなる私、苦しいときに支えてやる私が最初からそういうものとしてきちんと分かれていて、お互いに踏み込み過ぎず、しなきゃいけないことを弁えていたら一番いいと思う。どうしたことか、全部が同じ身体の中に入れられて私になってしまっているから、何か大きく心が揺れたときにゆっくりそれを味わうのが難しい。頭と身体と心は、往々にしてバラバラになるけれど、単品の心だけみても、何度も分かれたり、くっつこうとしたり、数えられたり数えられなかったりする。
たぶん、自分が二人いたらいいなって思う気持ちを孤独と言うのかもしれない。ちょっと格好つけすぎかな。でも今はそう思う。しかも厄介なことに、独りでいることに慣れると、今度はそれが一番自分のナチュラルな姿で、そうじゃないといけないような気がしてくる。だからそれを手に入れることは同時に自分を理解し得ないものとの共存よりも安心することであったのを思い出した。

泣いたり苦しんだりすると首から上が熱くて、足と指先が冷たい。何が苦しいのか、何が分からなくて何がよく分かっているのか区別がつかない。変に朝早起きしてしまうと大変な目に遭う。とっても苦しい。そういう自分をゆっくり流し込んで嚥下するためにもう一度眠る。明日か明後日にはお粥とか、優しいものから食べられるようになるし、きっと全部上手くいくでしょう。

#日記  #ひとりごと

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