読切小説 | 旅立ちの日
その店の中に入ると、甘い香りが漂っていた。ショーケースには色とりどりのパンが並べられていた。うわさ通り、どれも美味しそうだ。
「いらっしゃいませ!」
ニコニコしながらこちらを見ている。かわいい。どんな店なのかと、ただ見学に来ただけの私はどぎまぎした。「いや、見ているだけなんです」なんて言ったら、カッコ悪い。何個か買わざるを得ないな。
店員の女の子と目があった。笑顔がかわいい。が、緊張して声が出ない。
「どんなパンがお好きですか?オススメは新作のクリームパンです。好評なんですよ」
快活な声が響く。
「じゃあ、ク、クリームパンを2つください」
1つで十分なのに、思わず2個と言ってしまった。
これが僕と陽菜さんとの最初の出会いだった。
陽菜さんとの出会いの日は、忘れられない1日になった。
母の介護があるから今年の転勤は無理だ、と会社側に伝えていたにも関わらず、人事異動で四国に飛ばされることになった。
「無理です。ここから離れるわけにはいきません」と何度も伝えた。しかし、一度出た辞令は覆されることはなかった。事実上のクビと同じだと思った。
まっすぐ家に帰る気持ちにもなれず、街中をぶらぶらした。甘い匂いに誘われて入ったのが陽菜さんの働くパン屋だった。
僕は、陽菜さんの笑顔に救われた気がした。クリームパンを2つ買って、店を出ようとしたとき「またお待ちしております」という陽菜さんの声が聞こえた。かわいい。僕は「また来ます」と言った。
陽菜さんは一瞬きょとんとしたが、「はい、お待ちしております。ありがとうございました」と満面の笑みで返してくれた。
それからというもの、僕は週に何度かパン屋に通うようになった。
「いらっしゃいませ。またお越しくださりありがとうございます。だんだん寒くなってきましたね」
僕たちの会話は、最初は店員と客として言葉を交わす程度だった。だから「またお越しくださりありがとうございます。だんだん寒くなってきましたね」と陽菜さんの言葉が徐々に増えていくのがとても嬉しかった。少しずつ打ち解けているような気がした。
「今日もありがとうございました。またお待ちしております」
「絶対に来ます」
僕の言葉に陽菜さんは「あはは」と笑った。
「はいぜひ。喜んでお待ちしております」
陽菜さんとの会話は、店に通うごとに長くなっていった。最初はどんなパンがオススメなのか尋ねる程度だったけれども、次第に美味しいオススメのお店や見たい映画のことまで話すようになった。
「侑紀さん。今度、私とお茶していただけませんか?できたら、でいいんですけど」
「本気にしても良いですか?よろしくお願いいたします」
「お店で話すと、他のお客様もいらっしゃいますから」
あぁ、そういうことか。少しさみしい気持ちもしたが、陽菜さんと二人きりで話せる機会を持てることは、やはり嬉しかった。
「実は、四国への転勤が決まってしまって」
陽菜さんはリゾットを食べながら、話を聞いていた。
「えっ?四国ですか?ずいぶん遠くに行くのですね」
陽菜さんは驚いた様子だった。しかし、次の瞬間には、いつも通りの優しい笑顔を見せた。
「でも、新しい土地で、新しい生活を始めるのも良いかもしれません。お母様のことは御心配でしょうけど」
「陽菜さんは、この町を離れようと思ったことはないのですか?」
「ないですね。実家も近いし、この町が好きですから。でも、いつか四国へ旅行に行ってみたいなぁって思います」
僕は陽菜さんの言葉が嬉しかった。
「僕は、時々この場所に戻ってくるつもりです。陽菜さんに会いたいですし。その時にはまた、陽菜さんの作った美味しいパンを食べたい」
「はい、もちろんです。いつまでもお待ちしてます」
楽しい時間はあっという間に過ぎて言った。陽菜さんとの別れのときが近づいているのを思うと、少し寂しい気持ちになった。
母の世話は隣県に住む姉に任せることにして、僕は四国へ行って働き続けることに決めた。姉には負担をかけるが、陽菜さんが背中を押してくれたような気がした。
四国への引越しする日の朝、僕は陽菜さんの働くパン屋に立ち寄った。
「これから、この町を離れます」
そう告げると、陽菜さんは少し寂しそうな表情を見せた。
「そうでしたね。また、お会いできる日を楽しみにしています。新しい土地でも、頑張ってくださいね」
陽菜さんから手渡されたのは、いつも通りの笑顔と、焼きたてのクリーム・パンだった。
代金を払おうとしたとき、陽菜が言った。
「お代は要りません。ささやかですが、私からのプレゼントです。何度も足を運んでくださり、ありがとうございました」
陽菜さんに深々と頭を下げ、パン屋を後にしようとしたときだった。
「すみません。これ、受け取ってください。飛行機の中で読んでいただけたら、嬉しいです」
手紙だった。
僕は「いろいろありがとうございました」と告げた。
これが僕と陽菜さんとの最後の出会いになった。
侑紀さんへ
今は飛行機の中でしょうか?それとも四国の新しいお住まいに着いた頃でしょうか?
私、実は余命宣告を受けました。ちょうど侑紀さんが初めて私のお店に来てくださった日です。
私にもなぜなのか分かりません。けれども、侑紀さんと出会った日、この人が私の人生最後に好きになった人だ、と直感しました。
お会いして話を重ねるうちに、あなたが私の思った通りの人だと思うようになりました。本当にいつも優しく接してくださったことに感謝しています。
私が健康な体を持っていて、あなたの子どもを産めるのなら、あなたには私のそばにいてほしかった。けれども、それは叶わぬ夢。
だから、私はあなたに四国に行くことをすすめました。あなたが近くにいたら、私が切なくなるからです。
でも、絶望だけではありません。四国には必ず遊びに行きます。もしかしたら、また侑紀さんに会えたら、なにか奇跡が起こりそうな気がしているんです。何の根拠もないんですけどね。
侑紀さんと再会できる日まで、私は全力で生きるつもりです。短い間でしたが、とても楽しかったです。ありがとうございました。
ではまた、お会いする日まで!
陽菜より
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