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短編小説 | 僕はタモリとして生きる😎

 今、振り返ってみると、僕には尖ったところがあったように思う。幼稚園の頃には、みんなで一緒に「ギンギンギラギラ」なんて歌うことが堪らなく嫌だった。それですぐに幼稚園をやめたから、小学生になるまでは、ほとんどひとりで過ごすことが多かった。

 ホントにイロイロなことがあったなぁ。ある友人と遊んでいるときに、片目が見えなくなるくらいの大怪我を負った。今もほとんど視力がない。けれども、その友人の名前は誰にも言っていないよ。

 だって僕と一緒に遊んでくれた数少ない友人のひとりだったからね。僕が彼の名前を大人に言っていたら、彼は一生苦しむことになる。両目が見えなくなったわけじゃないし、悲観することなんて何もないよね。サングラスしていれば、誰にも目を怪我したことなんて分からないしね。

 でもね、やっぱりそれでも暫くの間は、落ち込んでいたこともあるよ。

 けれど、たったひとりの時間を過ごしていると飽きてくる。だから、みんなが幼稚園から帰ってくる頃には外に出て、坂道の上のほうでみんなが帰ってくるのを眺めていた。

 だけどね、やっぱり僕は幼稚園に行っていなかったから、同世代の子には相手にされなかったな。
 けどね、捨てる人あれば拾う神っているもんです。同い年の子供からはまったく相手にされなかったけど、たくさんの見知らぬおじさんやおばさんから声をかけてもらったな。

 その影響かもしれないけど、僕は歳のわりに、ませていたかもしれない。同世代が面白いと思うことは面白いなんて思ったことはないけれど、年上の人が何を面白いと思うのかには、すごく興味を持ったんだ。

 小学生と中学生のときは、大して顔は広いほうではなかった。けどね、僕と同じように寂しげな人を見かけたら、なんとか彼ら・彼女らを笑わせてみたいと思った。
 こう見えて僕はすごくシャイだから、人から笑われると照れてしまうところがある。でも、僕から人を笑わせることには、大きな喜びを覚えたんだ。

 そんな僕ではあったけれど、高校生の頃に、激しく恋に落ちたことがある。相手は、テレビ越しではあったけれど、当時から押しも押されもしないスーパースターだった。彼女の名前は吉永小百合さん。こんな不細工な僕には高嶺の花だったが、いつか必ず会いたいと願った。

 僕は高校生を出たあと、早稲田大学に進学した。ずっと住んでいた博多を出て、ちょっとでも小百合さんに近い場所に行きたかったからね。
 どうせ会えっこないよと思いながらも、でも、ひょっとしたら街中でひょっこり出会うことがあるかもしれない。僕は一応、哲学科の学生だったけど、大して勉強はしなかった。いつの日か小百合さんを笑わせている自分を妄想することが日課だった。僕こそ、元祖「妄想族」と言っていいだろう。

 そんなことばかり妄想していたものだから、学費の納付期限を忘れてしまって、滞納してしまった。そして、それが原因で退学処分になった。けどね、そんなにショックは受けなかったよ。だって、もうその頃には、たくさんの仲間がいたからね。逆に暇ができてよかったとさえ思った。

 退学が決まってすぐに、友人と日光に行ったり、ひとりで沼田の河岸段丘を再訪したり、大学に在籍していた時よりもむしろ、活発に旅行に出かけることが増えた。

 他人から見れば、いい加減な人生に思えるかもしれないけど、僕なりに一生懸命に生きてきたつもりだ。
 保険屋で働いているときに結婚もした。自分が欲しくもない保険のセールスをすることは辞めたけど、ボーリング場の支配人にまでのぼり詰めた。小さいボーリング場だったけど、人の上に立つってこういうことなんだな、とたくさん学ぶことができた。そのときに、スピノザじゃないけど、中動態というリーダーの在り方が僕にはあっていると感じた。

 こっちからうるさく「聞いて、聞いて!」と叫ぶのではなく、「あの人、なにやってるんだか分からないけど、なんか楽しそう」って思ってもらうのが、僕の性に合っているって確信したんだよね。

 あまり人にベラベラと自分語りをすることはスキじゃないけど、今日は少し自分語りしちゃおうかな?

 自分語りしてもいいかな?

 「いいとも!」なんて言わないでよ。言ってくれた方が嬉しいけどね。

 なんかさぁ、今では伝説のように他人が語ってるけど、赤塚先生との出会いね。
 あれは決して偶然なんかじゃないよ。僕は赤塚先生が行きそうなところをちゃんとリサーチしてたんだ。先生の前で、自分の芸を披露すれば、受け入れてもらえるくらいの自信はあったからね。

 「徹子の部屋」に初めて出演した頃は、まだ赤塚先生のところに居候していた。テレビに出たのは、それがまだ三回目だったし。
 居候にも極意があって、決して卑屈にならないこと。どんな境遇であれ、楽しく自分らしく生きていれば、必ずチャンスは巡ってくるものだ。

 僕は当時のお笑い界に、少し不満をもっていた。ドリフターズや萩本欽一さんのことを否定するわけじゃないけど、予定調和って嫌いなんだよね。
 だから、僕は、今までのお笑いの対象になっていなかった学者とか政治家とか作家をお笑いのネタにしようと思ったんだ。

 中洲産業大学という架空の学者を笑い飛ばしたり、田中角栄や寺山修司のマネをしてみたり。社会的な地位の高い人だって、お笑いの対象になるんだぜってね。

 そうそう、モノマネってさ、口調や声色を真似ることだと考えている人がいるけど、僕にはそれは出来ない相談だ。僕が目指したモノマネは、相手の話し方をマネすることではなく、その人の思考・思想をパクることだ。

 この人だったら、きっとこういう状況だったら、こんなことを話すに違いないというような。
 ラジオで大橋巨泉さんのモノマネをしたことがあるんだけど、そのときにリスナーから苦情が殺到した。「やったぁ」って思ったよ。だって、僕に対する批判じゃなくて「大橋巨泉、なにを勝手なことを言ってるんだ!」っていうクレームだったからね。ははは。僕に対する批判は一件もなかった。だって、みんな僕じゃなくて、巨泉さん本人が語っているのだと勘違いしてくれたから。そのとき、僕は大きな手応えを感じたんだよね。

 僕が思うに、モノマネとは憑依だ。それがモノマネのアルファであり、オメガでもある。他人の魂に自分の魂をのせるのではなく、他人の魂を僕の体に取り込むこと。それが僕の思うモノマネなのだ。

 僕は今までのお笑い界の常識を覆したかった。エロはダメとか、権威をお笑いの対象にしてはならないとか。それって、笑いの世界を他の世界から隔絶させてしまう。お笑いで世を覆うこと。それが僕の理想だった。

 そんな僕だから、ドリフターズ、萩本欽一さん、「オレたちひょうきん族」からは距離をおいていた。けれど、それが結果として良かったのかもしれない。視聴率のとれないお昼の時間帯のバラエティー番組の司会者として、白羽の矢が僕に立ったのだ。

 僕はどんなゲストととも、対等な立場を貫いた。夜の薫りがプンプン漂う僕に期待していた人には申し訳なく思ったこともあったけどね。僕は「いいとも」の初期の頃は、視聴率をとろうと躍起になっていた。だから、柄にもなく、一生懸命しゃべりまくっていた。

 けれど、暫くしたら、一生懸命に笑いをとる役割は僕ではなく、「出っ歯」に任せたほうがいいと思った。
 なんでも自分の笑いにもっていこうとする出っ歯には、多少ジェラシーを感じたこともあるけど、彼の才能は僕がいちばん評価していたんだ。彼のおかげで、お笑いの幅が格段に広がったと思っている。本人の前じゃ、絶対に言わないけどね。野暮になるから。

 半年くらいで終わると思っていた「いいとも」だったが、気がつけば8054回も放送された。くだらない日々だったと思わないでもない。けれども、通常のお昼の放送が終わった夜に、僕はついに吉永小百合さんを「いいとも」の最終回特番にゲストとしてお招きすることができた。
 高校生のときに夢見た吉永小百合さんが、僕にボッテガヴェネタのカバンをプレゼントしてくれた。

 そうだ!
 僕はここを目指してずっと走り続けてきたのだ。感無量だった。
 出っ歯にかなり、おいしいところをもっていかれたけどね。

 でもいいんだよ、僕はそれで。たとえ濡れたシメジのような人間であったとしても。

 最後ではありますが、赤塚先生、僕はあなたの最高傑作になりたい。少しでもあなたに近づけるように、これからも精進していきます。本当にお世話になりました。


2014年3月31日
森田一義




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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします

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