小説 | 死を遮蔽する者[前編] (創作大賞2024 ミステリー小説部門)
あらすじ
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(1)
「大きくなったらなんになりたいの?」なんて言われることが多かった。ぼくはその日1日を生きることで精一杯。明日のことさえ見通すことなんて出来なかった。
「大きくなったら」なんて言われたって、ぼくはずっと小さなまま大人になるかもしれないじゃないか。
ぼくはいつも泣いていた。だって、どんなに一生懸命に生きたって、いつか死ななくちゃいけないのだから。
「なにバカなことを言ってるのよ」って、みんなぼくのことを励ましてくれるけど、ぼくにもみんなにもいつかこの世から旅立つ日が必ずやってくるんだよ。
「そんな先のことを考えなくったっていいのよ」って言う人も多いけど、人間が死ぬのなんていつになるかわからない。1秒後に交通事故にあって、あの世の住人になってしまうかもしれない。
「じゃあ、きみはまわりのみんなが死んでも、生きつづけていたいの?」
たまに意地悪な人が言う。
「そうだよ。みんないなくなれば、誰とも比較なんかしないで生きてゆける」
「あっそう!なら、きみはずっとひとりぼっちでいればいい」
できることなら、そうしたいんだよ。だけど、みんなぼくがひとりでいると、寄って来るじゃないないか!
「きみはみんなにかまってほしいんだよね」
すぐにそういうことを言う。だれにもかまってほしくないのに。
「人間なんてひとりじゃ生きてゆけないのよ。ひとりで食べ物を作って、ひとりでおうちを作って、ひとりで勉強してなんて出来るわけがないのよ」
ぼくはそんなことを言ってるんじゃない。今だってみんな、ぼくのために何かしてくれているわけじゃない。だれかがだれかのためを思ってごはんを作るわけじゃなく、自分が生きるために何かをやってるだけじゃない?べつにぼくのために特別なことをしてるわけじゃないし、結局誰でもいいんだよね。
そりゃそうだ。きみひとりのために生きているわけじゃないんだよ。
ほら、ホンネが出たね。たれもぼくのことを特別な人だなんて思っちゃいやしないのさ。
「特別な人間になるには、その人のために特別なことをしなくちゃいけないんだよ」
つまり、こういうことかな。ぼくがきみのために特別なことをやったときだけ、きみはぼくの特別な人になるという。。
「まぁ、簡単に言えばそういうことだね。なんの見返りもなければ、だれもなにもすることなんてないんだよ」
ぼくはやっぱり生きているのがイヤになった。なにもぼくがしなくても、寄り添ってくれる人がひとりでもいるのなら、生きる価値があると思っていたのに。
「甘ったれるんじゃないわよ。みんなだってつらいのよ」
みんなつらいのなら、みんな死んでしまえばいいじゃないか!なんで生きていかなくちゃいけないのかがわからないのに。
(2)
小学生の頃のぼくは、いつもくだんのようなことばかり話していた。確か中学生の国語の教科書に「なんで生きているのかわからない」という中学生の疑問に、名前は忘れてしまったけれど、ある作家さんが質問に対する返事をしたためた文章が掲載されていた。
国語の先生いわく、「中学生でここまで考えているような人は、立派な大人になることでしょう」なんて言っていたっけ。「なぜ死ぬのに生きていけなくてはならないのか?」なんていうことは、ぼくは小学2年生の時から考えているのに。
それなのに、いつもぼくを見て「きみはまだなにも知らない。もっと勉強しなきゃ、立派な大人になれやしないよ。中学校っていうのはなぁ、子どもから大人になるための学校なんだよ」
ぼくはそれを聞いて愕然としたものだ。国語の先生ともあろうものが、死についてまともに考えていないじゃないか?ぼくは死について小学生から考えている。なのにこの先生は、先生になっても、身につまされるような実感をもって死を意識しちゃいない。
「お前はなぁ、なにを考えてるのかわからない。お前みたいのを『木偶の坊』っていうんだよ。勉強もダメ、運動もダメ、なんの取り柄もないじゃないか」
ぼくは黙って聞いていた。
「なんだ、その目は。イラつくクソガキだなお前。いくら中学生の反抗期だからって、その目付きは犯罪レベルだ」
ぼくは耳を疑った。教師ともあろう者の言葉とは思えなかった。
「大門のヤツ、言いたい放題だね。操くんは偉い。あたしだったらぶん殴ってる」
「早百合は女なのに強いね」
最近、早百合はよくぼくに話しかけてくる。
「『女なのに』っていうのは気に喰わないけど、あたしのこと女の子だって思ってくれてるの?」
ぼくは最近、早百合に恋してるかもしれないと思っていた。他の女の子と話す時にはすぐに言葉を返せるのに、早百合に何か言われたときは、きちんと考えてから話したいと自然に思えるからだ。
「ぼく、もしかしたら、早百合のこと、好きかもしれない」
一瞬早百合はポカーンとした表情になった。そのあと「ダハハハ」と笑い始めた。
「『好きかもしれない』って、ずいぶん頼りない告白だね。『好きです!』ってビジッと言ってくれたらあたしも『あたしも好きよ!』って言えるんだけどなぁ。でもね、あたしも操くんのこと好きよ」
今度はぼくのほうがポカーンとしてしまった。
「今、早百合、もしかしてぼくに告白してくれたのかな」
「あぁ、もう面倒くさい男だな」
そう言うと早百合は、ぼくの体を引き寄せてキスをした。
「これでどうよ?きみのことが好きな女の子がキスしたんですけど」
「あ、ありがとう」と声を絞り出すように言った。
「これであたしたち、恋人だね。でさぁ、恋人になったよしみで頼みたいことがあるんだけど」
「ぼくに出来ることならなんでもするよ」
(3)
きっと今から振り返ると、生きる理由なんて立派なものじゃなくて良かったんだ。誰かのために貢献したいとか、前人未到の金字塔を打ち立てるとか、だれもが納得するようなことなんかじゃなくても、生きるためのエナジーになるのならば。
「あいつ、大門のヤツ、あたしらで殺してみない?」
「殺す?」
ぼくは早百合は真顔で言ったけど冗談だと思った。
「本気じゃないよね?」
「えっ、あたし、本気で言ってるんですけど。恋人である操くんと一緒に、大門のヤツを殺したら、あたしたちの絆は決して一生壊れることがないから」
早百合はどうやら本気でぼくと一緒に大門を殺す気持ちが固いらしい。
「でも、そんなに簡単に大門のことを殺せるだろうか?それに、ぼくたちは捕まるわけにはいかないでしょ?」
「そりゃあ、そうよ。捕まったらバカみたいじゃん。ゴキブリを殺して少年院だか刑務所に行くのは理不尽だからね」
(4)
「殺したいほど、大門を憎んでいるのはなんで?早百合はなにか大門にされたの?」
早百合は少し考えたあとこう言った。
「操くんが大門にいじめられたからだよ。べつにあたしは何もされていない」
「嬉しいけど、そんなにぼくのことを好きだったの?」
「あはは、好きに決まってるじゃん。嫌いな男の子となんか頼まれたってキスしないから。もしね、操くんがあたしと一緒に大門を殺すことを約束してくれるなら、キス以上のことをしてもいい」
「キス以上?」
「分かるでしょ。セックスしてもいい」
頭の片隅にあった言葉だけど、早百合の口からセックスなんていう言葉が飛び出すとは思っていなかった。
「今度、うちに来ない?土曜日なら、お母さんもいないから」
「何するの?殺人計画を練るため?」
「そうね。『ねる』ため。2つの意味で」
「2つ?」
「殺人計画を『練る』のと、操くんと『寝る』の2つね」
(5)
ぼくは土曜日、塾に行くことになっていたがサボることにした。親には内緒にして、友達には風邪で休むと言っておいてほしいと頼んだ。
早百合のマンションで殺人計画を立てなくてはならないからだ、というより、本当に早百合とセックスできるかもしれないという気持ちがあったから。
「あ、操くん!」
インターフォン越しに早百合の声を聞いた。
「今、ドアを開けるね」
ドアが開いた。パジャマ姿の早百合が立っていた。
「どうぞ」
言われるがままに早百合のあとをついて行った。早百合の部屋に通された。
「お母さんは今夜、夜勤ということになってるから、明日の昼過ぎまでは絶対に帰って来ないから安心してね。お母さんが夜勤という時はね、夜勤なんかじゃなくて、男といいことしてる時だから」
早百合のうちは母子家庭で、お母さんは看護師をしていた。
「そうなんだね。じゃあ、さっそく計画を練りましょうか?」
「操くん。その前にお風呂入ってきたら。作戦はあたしのベッドの中で考えたいから」
(6)
「出たら、ここにあるタオル使ってね。服は脱いで洗濯機に入れておいて」
なにもかもテキパキと進められた。ぼくは早百合の言葉に従った。
人の家の風呂に入るのは初めてだったし、風呂を出てからのことを想像すると、ゆっくりとお湯に浸かっていたい気分にはならない。ぼくはもう勃起していた。
「あ、着替えをもって来なかったんだね」
「一応、塾に行くっていう設定だったからね。塾に行くのに、着替えをもっていくのはおかしいから」
「あ、見えてるよ。ま、いいか。どうせ今からすぐにやるんだからさ。じゃあ、やりながら暗殺計画でも練りますか?」
早百合は慣れたように、ぼくをベッドに導いた。
「こうやってさ、普通の中学生じゃやっちゃいけないことをするのはね、あたしたちの結束を強くするためよ。べつにあたしの性欲が強いからじゃない」
早百合は事務的にぼくを受け入れた。上になって腰を振りつづけた。ぼくは初めてだった。たつにはたったけど、出なかった。
「まぁ、初めてだからね。手でイカせてあげる」
早百合は手でぼくのあそこを擦りながら、舌先でぼくの亀頭をなめた。
「早百合って、もうたくさん経験してるみたいだね」
「経験なんて、そんなに多くないのよ。数える程度。だけど、小学生の頃から、お母さんと彼氏がやってるところを見てたから。あたしがコッソリ覗いていたことは、たぶんお母さんたちは知らない。いつも一生懸命やってたから」
「そうなんだね。あ、そこ。気持ちいい。出そう」
「我慢はしなくていいのよ。出しちゃって」
(7)
早百合のあそこではイケなかったけれど、手で愛撫されたらアッという間にイッテしまった。
「まあ、何事も経験だから。次の時はうまくいくって」
早百合はぼくを慰めるようにいった。
「じゃあ、計画でも練りますか?」
「計画って?」
「操くん。今日のあたしたちの密会の意味を忘れちゃったの?セックスも大切だったけど、大門を殺す計画を『練る』こと」
ああ、ぼくの頭からは大門のことなんて、もうすっかり遠くに行ってしまっていた。
「早百合は殺すってどういうことを考えてるの?」
「あたしね、イロイロ考えたんだけど、ナイフでグサッと刺すのは芸がないと思うの。だって、仮に成功したところで、大門がすぐに死んじゃったら、つまらない。どうせだったら、とてつもない恥をかかせてやろうと思うのよ」
不敵な笑みを浮かべながら、早百合は言った。
「たとえば、ハレンチ教師として、学校から追放するとか」
「どうやって?」
「たとえば、大門にあたしを犯してもらうとかね」
「えっ?!」とぼくは思わず声を上げてしまった。
「あたしが大門にラブホに一緒に行くように仕向けるとか。それか、あんまり普段使われてない視聴覚室に大門をおびき寄せて、いやらしいことをさせるとか。そして、その現場を操くんにこっそり撮影してもらう」
「でも」とぼくは思わず口を挟んだ。
「そんなことをしたら、大門だけじゃなく、早百合まで泥をかぶっちゃうじゃないか!」
早百合は「ははは」と笑いながら言葉を引き継いだ。
「あたしはもう汚れてるから怖いものなんてないのよ。それに、あたしと大門がいかがわしいことをやったって、あたしは被害者ってことになるし。大門のほうがダメージ大きいでしょ?」
「それはそうかもしれないけれど、早百合まで傷つくことになるじゃないか」
早百合は、ふぅ~とため息をついたあと、決然として言った。
「もうね、ぶっちゃけて言うけど、あたしと大門はそういう仲なのよ」
ぼくの体に戦慄が走った。
(8)
「いつから?いつから大門とそういう関係に?」
「う~ん、中2の夏休みだったかな。すごい暑い日だった。学校のプールに泳ぎに行ったとき、たまたまあたしと大門が二人きりになったことがあって。その時に、大門に犯されたのよ」
ぼくは言葉を失った。本当なのか?
「あり得ないっていう顔をしてるね。でも本当なの。それから、夏休みが終わってから、学校の空いている部屋に呼び出されるようになって。今までに5、6回くらい、大門とセックスしてるの」
早百合はさらにつづけて言った。
「だから、もうある意味、慣れっこなのよ。だけど今までだれにも打ち明けられなかった。操くんが初めて。あたしと大門のことを話したのは。今までは、協力者がいなかった。だけど、今は操くんがあたしについている。協力してくれるよね。あたしと操くんだって、もうイケない関係になってるんだから。さっきまで操くんとしていたことは、あそこのカメラで全部録画してたの」
ぼくは早百合の視線の先を見た。確かにカメラらしきものが置いてあった。
「ぼくのことを騙したのか?」
「騙す?そんなんじゃないわ。二人の間に大きな秘密を持てば、操くんはあたしに協力してくれると思っただけ。いいじゃん、あたしたち、恋人なんだし」
早百合のことがぼくにはわからなくなってきた。
(9)
「あたしのこと、わからなくなったかな。たぶん操くんとそんなに違った考え方をしてるわけじゃないの。ただ、あたしのほうがね、きっと、思考より現実が先に行っていただけなの」
「どういうことなの?なにかもっとあるの?イヤな経験とかなにか?」
「操くんには、セックスした仲だし、ぜんぶ話しちゃおうかな」
早百合は、あらたまったように仰向けになって、ぼくと視線を合わせないまま、語り始めた。
(10)
あたしのお父さんはね、本当は死んでないの。学校には死別したとウソをついてるけど、お父さんはまだ生きてる。教育関係の公務員をしてる。だから、あたしの昔の名字は、だれにも伝えていない。
お母さんとお父さんは、私が小学5年生の時に別居して、あとになって離婚したの。
原因はお父さんがあたしに、性的暴行をしたこと。
いちばん古い記憶は、幼稚園の最後の年のこと。まだ幼稚園だったからね、あたしと一緒に風呂に入って、体を洗ったりするのは普通だと思っていたけど、今思えば違ったの。洗うだけじゃなかったから。
子どもながらに、これはお母さんには言ってはいけないことなんだと思ってた。だけど、小学生の3年生のとき、あたしは処女を失った。初体験が実の父親なんてね。
薄々感づいていたお母さんも、さすがに血で汚れたシーツを見て「これはおかしい」と思ったんじゃないかな。
あたしはなにも言わなかったし、お父さんもあたしのことをなにも言わなかった。
だけど、お母さんがあたしを引き取って離婚したいことをお父さんに告げたとき、「わかった」とだけ言って出ていった。ホントはお父さんだってお母さんに言いたいことがあったはずなんだけどね。
(11)
お父さんはお父さんで、お母さんが不倫してたのを知っていたと思う。あたしとお父さんをおいたまま、週末に出掛けて一晩帰って来ないことがあったからね。お父さん以外に彼氏がいたんだと思う。年に数回だったけれど、自分の子どもと旦那を置き去りにしていくんだから。お父さんは寂しかったと思うのよね。
だから、あたしに手を出したんだ。お母さんがいない中、お父さんまであたしを置いていくわけにもいかなかっただろうから。まぁ、実の娘に手を出したのは褒められたことじゃないけど。でも、そんなにあたしは、お父さんを責めるつもりはない。
(12)
そういうことがあって、なんだかあたし、人間が生きていくために必要なのは、なにかになりたいという立派な目標なんかじゃなく、「人に恨みを晴らしたい」とか「享楽にふけること」でもいいと、思うようになっていった。
人間が死ぬときっていうのは、生きる目標を失ったときというのは本当だと思う。けれど、それは他人から褒められるような立派な業績をあげることを意味しない。憎い相手を叩きのめすことだっていいでしょ?
あたしは大門に犯されたとき、こいつは殺してやろうと思った。でも、行動に移すことが出来なかった。あたしが大門のヤツを殺してやろう、って思ったのは、操くんが大門から嫌がらせされてるのを見たとき。いい加減、こいつに鉄槌を下ろしてやらなきゃってね。
(13)
ぼくは黙って早百合の話を聞いていた。ぼくの想像を超えた話ばかりで頭の中が真っ白になりそうだった。
「ぼくが大門から嫌がらせされたことが、殺害の直接のモチベになったんだね。嬉しいような、悲しいような」
「嬉しいのはなぜ?悲しいのはなぜ?」
自分でも何なんだろうな、と考えながらぼくは話し始めた。
「嬉しいのは、早百合がもしかしたら本当にぼくのことが好きなんじゃないかと、思えたことかな?大門に復讐するためとはいえ、ぼくを選んでくれたから」
「悲しいのはなぜ?」
「悲しいのは、早百合がつらい思いをずっとひとりで抱えていたのを知ったから。もっと早く、たとえば小学生の頃に、ぼくと早百合が出会っていたなら、もしかしたら早百合の運命も変わっていたんじゃないかなって」
早百合がぼくの方を見た。そして、ぼくにキスをした。温かくて柔らかい早百合の胸がぼくの左腕に触れた。
その後、ぼくと早百合は、再び愛し合った。
(14)
「操くん、ありがとね。とっても気持ち良かった。セックスって、こんなに気持ちがいいんだね。こんなに気持ちいいの、はじめてだったよ。あたし、やっぱり操くんを選んで正解だったな」
ぼくは嬉しかった。早百合がはじめて本当に心を開いてくれたような気持ちがしたから。
「なんかあたしたち、ホントの本当に恋人になれたような気がする」
「ぼくもそんな気がしてる。これからもずっと…ずっとこのままでいられたらね」
「ずっと、かぁ。でも、人間なんて分からないよ。また明日コロッと変わるかもしれない」
今度はぼくが早百合を抱き寄せてキスをした。
「操くん、ありがとね」
「どうする?計画は実行する?」
早百合はしばらく黙っていたが、「大門のヤツは許さない。私が犯される日が決まったら、操くんに伝える。計画は必ず実行に移す!!」
(15)
「人が死について考えることは、逃れられない宿命なんだよ。スピノザという哲学者は、『自由な人間という者は死について考えない』なんて言っているがね。実際問題として、人間なんて、自分の身の周りにいる人間の影響から逃れることは出来ないから」
月曜日、早百合とぼくは同じ教室で大門の授業を聞いていた。大門がスピノザについて語り出したとき、早百合は左隣に座るぼくに視線をおくった。「大門のヤツ、わかってないね」と言いたげな表情だった。
「スピノザの哲学はコナトゥス、簡単に言えば『力』の哲学だな。だから、なんだという気がするがね」
その日の授業は、とくに何事もなく終わった。
「大門のヤツ、エチカすらちゃんと読んでいないようね。要約本だか、教師用の虎の巻でも読んで授業してる。なんだか言葉の1つ1つが軽くて、聞いていたら、怒りしか湧いて来なかった」
「早百合は、スピノザ主義者なの?」
「ぜんぜん。あたしは敢えて言うならパスカルが好きかな」
数学が得意な早百合らしい。
「『人間は考える葦である』みたいな?」
早百合が笑みを浮かべた。
「違うな、あたしの好きな言葉は『考える葦』じゃない。人間というのは、死を見ないように、考えないように、自分と死との間に遮蔽物を置きながら、死へ向かっていくという…その言葉があたしの好きな言葉。簡単に言えば、死という見たくない物に蓋をしながら生きているのが人間、ということね」
ぼくもそんな気がしてきた。
「だけど、常に死を覚悟して生きてる人間なんているのかな?」
「ここにいるじゃん。あたしはいつも死を直視して生きているよ。でもひとりで死を直視しつづけるのはやっぱりしんどい。だから、あたしは操くんと一緒に死を直視していたいの」
この早百合の言葉を聞いてぼくはなんだか嬉しくなった。この女とずっと手を携えて生きていきたい、そう思った。
(16)
「それで、あの計画はどうする?」
「大門暗殺の話ね。なんだか最近、大門のガードが固いのよね。でも、あたしは必ずやり遂げる。操くんにも協力してもらわないと実現できない」
ぼくも早百合と一緒に死を直視していたい。早百合のことを唯一無二のパートナーだと思っている。しかし、何なんだろう?早百合とともにずっと一緒にいたい、大門なんかどうでもいいという気持ちも同時にぼくの心の中に芽生え始めているように感じた。
「大門は本当に殺さなくちゃいけないの?」
「うん、絶対殺さなくちゃいけないのよ。大門を殺すという共通の目的があるから、あたしたちは一緒にいるんじゃないの?そのために、あたしは操くんと寝たの」
「そうなんだけどね。でも、早百合とずっと一緒にいれば、大門なんてどうでもいい小粒なヤツにも思えてきてさ」
「あたしはこうと決めたことを簡単に覆すのは嫌いなの。それに大門を倒すという共通の目標がなくなったら、あたし達、終わってしまうような気がする」
(17)
それからぼくたちは、何度か体を重ねた。早百合とぼくの関係に気がついているのか、いないのか、大門はぼくたちのことを静観しているようにも思えた。大門暗殺計画は、事実上、凍結状態がつづいた。
「もう大門なんか、どうでもよくないか?」
「なに言ってるの?あたしが大門に犯された過去が消えてなくなるとでも思っているの?」
「そうは思ってないけど、もうこれ以上考えてもムダなような気もしてきて。別に許すとか、そういう話じゃなくて、ぼくと早百合との間に、大門なんか介在させないで付き合いたいという気持ちに最近なってきてる」
「それは可能なのかなぁ。でも、最後まで大門暗殺計画は潰す気持ちはあたしにはない」
早百合の意思は、最初から分かっていたことではあるけれど固い。ぼくがなにを言っても、決して変わることはないのだろう。
いたずらに時間だけが流れていった。
(18)
なんとなくな日々がつづいたまま、夏休みになった。夏休み中に一応の進路を決定しなくてはならない。三者面談も近づいてきた。
しかし、死を直視している、早百合とぼくには受験なんてどうでもいい些事であった。どうやったら大門を地獄の底に落とすことができるのか、そればかり考えていた。
「夏休みは、ある意味、チャンスだと思っているの。学校には人が少ないし、大門をおびき寄せてるには、、、ね。登校日とか、部活がない日って必ずある。あたし、ダメ元でお盆の頃に大門と二人で会えるようにLINEを送ってみる。あたしと大門が会う日が決まったら、操くんにも速攻でLINEして伝える」
それからぼくは、早百合からLINEが来るのを待った。八分の「来るな!」という気持ちと、二分の「来るな!」という気持ちを抱えながら。
(19)
1学期の終業式以来、ぼくと早百合とはお互いに連絡をとることはなかった。いたずらに時が過ぎていった。
夏休みがすでに半ばに差し掛かろうとした頃、早百合からLINEが来た。
お久しぶりです。
操くんは元気にしてる?
大門と会う日が決まった。
8月14日。午後8時。
3階の視聴覚室。
ここだけの話だけど
1階理科室の窓。
1ヶ所だけ壊れいて
鍵がかからない所がある。
操くんはそこから入って
あたしたちより先に待ってて。
ビデオは前日に
操くんに手渡すから
それであたしたちの
一部始終を撮影して。
早百合、ぼくは元気。
わかった。
じゃあ前日に会おう。
いよいよ実行に移すんだね。
本当に計画が実行されることが決まったとき、「もう辞めにしよう」と言うことは、ぼくには出来なかった。この計画が実行されたなら、結果がどうであれ、早百合とぼくとの心は、死んでもずっとずっと繋がっていられるような気がしたから。
「生きる」って、その時その時を懸命に生きるほかないんだ。遠い未来のことを考えたって、ただの妄想に過ぎない。だって未来とは、文字通り、未だに来ていない時間に過ぎないのだから。
理想を持つことは大切だろう。だけど、理想とは多くの人が考えるように、決してファンタジーでもなければ、今ここに無いモノではない。理想は常に現実とともに有るモノだ。現実に有る道標、それが理想というモノだろう。
ぼくは、早百合からのLINEが届いたとき、確実に現実となる理想を手に入れたように感じた。
エックス・デーはすでに、間近に迫りつつあった。
「死を遮蔽する者」[前編]終わり
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