人を傷つけない記事は読むに値しない
最近、意識的に語学関係の記事を多めに書いています。
正直に言えば、言語学や語学の話というのは、ショートショートや俳句・短歌を扱った記事ほどには読まれることはありません。
スキ数やビュー数を気にするのなら、文字数が少なめで、内容はポジティブで、わかりやすい記事を書いたほうがいい。
数の多さをもって「読まれている」と確信するのなら、たくさんフォローすればたくさんフォロワーは増えますし、「共同マガジン」にたくさん参加すれば、「読まれている記事」を作ることはできます。
こんなことは、noteをはじめて1ヶ月も経たないうちに気がついていることです。
けれども、「スキ数」「ビュー数」「フォロワー数」が多いことイコール「記事が読まれている」だとは私は思いません。
仮にですけど、どんな数字であれ、その多さをもって読まれていると考えることが「正しい」としましょうか?
毒にも薬にもならない記事を書いて、たくさん「読まれた」として、「だから何?」という気がしませんか?
みんなが思っている「当たり前のこと」を書けば、「共感」は得られるでしょう。
「いじめはいけません」「人を殺してはいけません」「感謝を相手に伝えましょう」「無理しなくていいのよ」等々。
このような発言には、別に反論はありませんし、「そうだなぁ」と共感はします。けれども、それを読んだからといって、良くも悪くも、私の行動には何の影響もありません。
せいぜい「はい、わかりました。おっしゃる通りですね」と思うだけです。読んだあとも、私にはまったく変化をもたらしません。
何かを書いて「意味がある」のは、良くも悪くも、読んだ人の心に何かしらの変化をもたらすことです。
ネガティブな気持ちがポジティブな気持ちになる。あるいは逆に、ポジティブな気持ちがネガティブな気持ちになることもあり得ます。
後者に関しては、「読まないほうがよかった」と思う人が多いだろうとは思いますが、「読んだ人に何の変化ももたらさなかった」より、はるかに「意味がある」というのが、私の個人的な意見です。
誤解がないように一応書いておきますが、意図的に人をしてネガティブな気持ちにならしめたり、他人を傷つける文章であるほど良い、と言っているわけではありません。
私が思っているのは、人を傷つけないことを意識し過ぎて、自分の本音の心を粉飾し、他人に迎合したことを書いても、真の意味で人を動かすことはないよ、ということです。
どんなに突飛な意見であろうと、他人の攻撃にさらされるであろうことでも、どれだけ自分の心と向き合い、外に発信することができるのか、ということが一番大切です。
ただし、それには条件があります。
決して事実を意図的に歪曲しないこと。自分自身に決してウソをつかないこと。これが大前提です。
実際にはなかったことをでっち上げたり、他人を意識して、本当は思ってもいないことをさも本当に思っているかのように書かれた文章には、独特の臭気があります。
私はどんなときも、自分の気持ちに正直でありたい。
形式的な「ありがとうございます」とか、形式的な「勉強になりました」とか、そんな記事であふれたnoteなんて必要ない。