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たまには死んでみよう

 生きている者は死を経験できない。生きているときは生きていて、死んだ瞬間、生きていたことを想起できない。言い古されたことである。

 死んでしまったら、直接生きている者たちへメッセージをおくることができない。だから生きてことばを発することができる間に言いたいことを言っておきたい、あるいは自分の死後に読んでもらうべく自分の想いを書き残しておこうと人は考える。

 しかし、他人の死を経験して「この人はこんな想いを残しながら死んでいったのではないだろうか?」と思うのは生きている者のエゴである。死んでいった者の想いをいくら想像しても、死人に口はない。生きている者の感傷にしかならない。死者の書き残したものから、いくら行間を読もうとしても、死者が死ぬ瞬間に何を思って死んでいったかを知るすべはない。

 他人の死はいくら事例を集めても、「自分の死」にはならない。自分が死んでいく瞬間をどれだけ想像しても、それはやはり想像でしかない。

 死者はことばを発するどころか、思考することも、もはや行動することもできない。反論も援護もすることはできない。

 生きている者は、不快な出来事があれば、それを引き起こす原因を撲滅したいと願う。一人で撲滅が無理ならば、他人の援護を求めようとする。

 生きている者は、完全に死者の視点を持つことはできない。しかし、いつか必ず死ぬ自分が死んでしまったら何もできないということを、たまに思い出してみたらどうだろう。あくまでも比喩としてしか語れないが、たまにすべてのことを傍観してみたらどうだろう。

 傍観というとあまりイメージはよくないが、見て見ぬ振りをしろ、と言いたいわけではない。ただ、どんなに不快なことがあっても、何か行動を起こしたいという衝動を封印して、あたかも死者のように、森羅万象の推移を見守るという訓練をすることには価値があるように思う。やがて死んでしまうとはどういうことなのか、と体をもって死という状態に一ミリでも近づくという意思を持てば、少なくとも現在の自分にはない目を持つことは可能だろう。

 「どうせ死んでしまう」とは、必ずしも自暴自棄の言葉ではない。他人に何も期待しない、自分にも何も期待しない。なすがまま、なされるがままにすべてを受け入れる。行動しない、抵抗しない、ということを徹底する瞬間があれば、逆に不快なことを不快と感じられることが、生きている者の特権であることに気がつくはずだ。それで十分ではないか?不快を快にして生きることが、生きる唯一の道ではない。

 たまに死んでみたらどうだろう?


 

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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします