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相手の「すき」を自分の「すき」に脳内変換すると気分が楽になる。
自分にとっては、それほど興味のない話を延々とすごい熱量をもって語られることがある。
例えば、あなたが野球にまったく興味がなかったとしよう。
興味のないあなたは、野球のルールすらよくわからない。
そういうあなたに向かって、「やぁ、昨日の試合の○○選手は本当に大活躍だったな。」とか「あの○○投手がもうちょっと踏ん張ってくれてたらなぁ。」と延々と言われ続けたら、どんな気持ちになるだろう?
例えば、あなたは「バナナが大嫌いで、リンゴが大好き」で、相手は「バナナが大好きで、リンゴが大嫌い」だとしよう。
「バナナが好きか、それともリンゴが好きか」というのは好みの問題であって、どちらが正しくて、どちらが正しくないという類いの問題ではない。
しかし、そういうどちらでもいいような問題が、人間関係に影を落とすことが多い。
そのようなときには、「相手の好き」(あなたは嫌い)を「自分の好き」に、脳内変換してみたらどうだろう。
相手が「バナナの柔らかさや甘味」(あなたはそこが大嫌い)を延々と力説しているとき、あなたは「相手は自分が大好きなリンゴの歯ごたえと酸味」のことを絶賛しているのだな、と思えば、相手のことを許せるし、敬意をもつことができるのではないだろうか?
興味のない野球の○○選手の素晴らしさを相手が大絶賛しているときには、自分の大好きな力士の素晴らしさを大絶賛しているのだな、と思えば、趣味の問題で相手と相容れなくても、相手のことを受け入れられるのではないか?
相手の「スキ」を自分の「スキ」に脳内で変換できれば、趣味の問題で対立することなく、お互いに認めあうことができるのではないだろうか?
相手に無理に合わせること。自分に無理して合わせてもらうこと。どちらもストレスになる。相手に敬意をもつことは、自分の脳内変換で可能になると思う。
数学者の岡潔と、評論家の小林秀雄。
お互いの専門分野は理系と文系で、知識それ自体は大きく異なるが、話がちゃんと噛み合っているなあ、と関心したことがある。
相手の専門分野の話を、お互いに自分の専門分野の話に置き換えていたような気がした。
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