短編小説 | 黒猫 ( remake version )
わが輩は猫である。名前はもうある。しかし、敢えて言う必要はなかろう。
わが輩がこの家の者に拾われたのは、昨年の5月末の頃だった。
とある公園で、食料を与えてくれる人を物色していたとき、目の前に、またたびを投げる人が現れた。わが輩は一気に魅せられてしまった。
えも言えぬほどの旨そうな匂い。わが輩は我を忘れて食べた。しかし、迂闊にもその間に、わが輩は捕獲されてしまった。
野良猫だから処分されてもやむなし、と思っていたが、幸運にも、わが輩を引き取りたいという者が現れた。それが今のご主人様である。
私のご主人様は、容姿端麗な人である。美の基準が異なる異類の者とはいえ、わが輩にもその人間の美しさは理解できる。ご主人様は決して若者とは言えない。おそらく年齢は50歳前後だろう。しかしながら、肌はわが輩とは正反対の真っ白で、教養もあり素晴らしい頭脳の持ち主である。
そんなご主人であったが、結婚はしていない。こんなにも美しく、かつ、わが輩に優しく接してくれたことを思うとき、なぜご主人様が未だに独身なのか、わが輩には理解できぬ。まだ自由を謳歌したいのだろうか?
わが輩の世界では、結婚は制度的に整えられているわけではないが、一夫一婦が原則である。まぁ、人間とは異なり、ごく小さな頃にはこどもの面倒や奥様の面倒をみるが、性に関しては、おおらかだし、浮気という概念も、あってないようなものである。
おっと、余計なおしゃべりをしてしまった。わが輩の世界のことはさておき、最近奇妙に思ったことがある。
たまにではあるが、ご主人様のもとにお客がやってくることがある。その度に不思議に思う。
今までやってきた人のほとんどが、ご主人様のことを「奥様」と呼んだり、「旦那さまはお元気ですか?」と尋ねることである。
わが輩は公園でホームレスをする前の一時期、人間の家で飼われていたことがある。人が死ぬと、葬式をして、家にはたいてい、仏壇なるものを置くことになっていることを知っている。しかしながら、このご主人様の家には、仏壇はない。旦那さまが遠くに住んでいるというわけでもない様子である。
もし、ご主人様に「旦那さま」がいるとして、遠くに住んでいるわけでもなく、また、死んでいるわけでもないとすると、いったい全体旦那さまはどこへ消えてしまったのだろう?
そう言えば、わが輩はまだ、この家のすべての部屋をまわったわけではない。わが輩は優秀だから、トイレはこの部屋の決められた場所以外ではしたことがない。食事もいつもこの部屋で食べている。
たまに部屋にわが輩一匹残されることがあるが、その時、ご主人様はいつも部屋の外側から施錠していく。わが輩がこの部屋から外へ出るときは、いつもご主人様と一緒である。
もしかしたら、わが輩の知らない部屋に旦那さまがいらっしゃるのだろうか?
そのような日々がつづいたある日、「ピンポーン」と玄関で呼び鈴の音が聞こえた。何度も執拗に「ピンポーン」「ピンポーン」と繰り返されたから、ご主人様は慌てていたのだろう。わが輩の部屋に施錠せぬまま、部屋を出ていった。
一匹で部屋から外へ出かける「チャンス」だと思った。もしも、本当に旦那さまがいらっしゃるならば、あいさつしておきたいという気持ちもあった。
わが輩は、ドアの隙間から、こっそりと外へ出た。一階は、ご主人様が玄関でお客の接待をしているから、わが輩はとりあえず、二階の部屋を覗きにいった。
ドアはどの部屋も閉まっているから、物音を聞きながら、部屋をめぐった。
特に誰かがいるような雰囲気もない。やはり、わが輩の思い過ごしか?
今まで、ご主人様以外の人間は、この家の中で、出会ったことがない。
しかし、ここまで来たら、とりあえず、もう一部屋まわっておこうか。
わが輩は、二階の一番奥にある部屋までやって来た。ドアは開けっぱなしになっていた。
ドアの隙間から、風が吹き抜けてきた。今日は5月にしては暑い日だから、なんとも心地よい。部屋の窓は大きく開いていた。ご主人様が換気のために開けておいたのだろう。
ところで、この部屋を訪れたのは初めてのはずなのに、どことなく懐かしい。蔵書がたくさん並んでいる。
わが輩のご主人様は読書家なのだろうか?
わが輩の前では、本を読む姿を見たことがなかったから、何だか意外な気持ちになった。やはり、ご主人様には、旦那さまがいらっしゃるのだろうか?
と、その時、わが輩の背後から、階段をのぼってくる、コツコツという音が聞こえてきた。
振り返ってみると、そこには、ご主人様が立っていた。
「とうとうお前もここにやってきてしまったんだね」と、わが輩の目を見つめながら語りかけた。
「思い出したかい?プルートゥ」
「プルートゥ?」
そうだ。わが輩の名前は確かにプルートゥだった。
「プルートゥ、プルートゥ」とわが輩は久し振りに自分の名前を念じてみた。
「あぁ、そうだった、そうだった。わが輩も、ご主人様も。いつの間にか、忘れてしまっていた」
「プルートゥ、お前もやっと思い出したんだね」
ご主人様はそう言うと、書架に並ぶ蔵書の中から、古い一冊の本を取り出して、わが輩の目の前に置いた。
エドガー・アラン・ポオ「黒猫」
そうだった。わが輩もご主人様も、この本の世界の中で、「旦那さま」に惨殺されたのだった。
わが輩は、この本の中で、一度目は、旦那さまに虐待され、絞首刑にされ、燃やされて命を失った。
そして、わが魂は、他の猫に乗り移って命をつないだが、またもや「天の邪鬼」の旦那さまに虐待を受けた。
二度目に殺されそうになったとき、ご主人様が地下室に現れ、わが輩は助けられた。しかし、わが輩の代わりに、ご主人様は、脳天に一撃を受けて惨殺されてしまったのだ。
あまりにも不条理。ご主人様とわが輩は、ともに本の中の世界から、この世の世界に抜け出してきたのだった。
今の今まで、すっかり忘れていた。たぶん、本の中の世界での存在の在り方と、リアルな世界での存在の在り方は異なるのだろう。
本の世界の中で傷を負ったわが輩の片目は、ほとんど痛みを感じなかったが、この世の世界にやってきてから、たまに激痛を覚えることがあった。
しかし、わが輩はもう本の世界の中へは戻りたくない。いつまでも、ご主人様の愛情を一身に受けつづけていたい。