エッセイ | もう動かない | D51(デゴイチ)
🎵今はもう動かない
おじいさんの時計🎵
2~3週間前、半年ぶりに偕楽園近くの千波湖に行った。
前回来たときは2月で、偕楽園の梅がいちばん綺麗な時期だったから、ゆっくり散策していたら、千波湖まで来たときには少し暗くなってしまって、『デゴイチ』を見はぐってしまった。
「デゴイチ」とは「D51」という、蒸気機関車🚂の名前。
「もう動かない」のだが、千波湖湖畔に置いてあっていつでも観察できる。
この記事の写真は、ヘッダー以外は以前掲載したものです。ですが、ちょっと思うことがあって。
時計やSLならば、もう動かなくなっても、その存在感は残る。
人間は心臓が止まったら、なにが残るんだろう?
骨や写真、文字は残るかもしれない。ほかのものは?、なんて考えます。
誰が生きていたの?、という記憶や名前は時を経て徐々に失われますが、故人が発した言葉のクオリアは、ずっと無意識的なレベルで残るものかもしれない、なんて思う。
言葉の形はどんどん変化していきますが、生きつづけるんじゃないかって。
いい言葉も、そうじゃない言葉も、ずっとずっと。。。
正義という言葉が、悪徳という意味にだって変わっていくかもしれない。
裁きという言葉が「娯楽」という意味に変わってしまうかもしれない。
「意見を幅広く聞きたい」という言葉が、吊し上げの道具になるかもしれない。あるいは「こっちに来るなよ」という意味を帯びるかもしれない。
悪感情で満たされたとき、言葉は暴力に堕する。正義という名の独善に毒されて。
いい言葉だけ残るなんて考えられないけれども、「考える」という言葉がなくなることがなければよいが、と思う。
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします