今日は、 私のプロフィール第3部をご紹介しま~す。

             

英日欧企業マッチングのさきです。

プロフィール第3部です。


4.高校時代~

確か高校への入学受験時の成績は、
1学年総勢500人中45番くらいの
好成績で入ったのを覚えていますよ。 


新潟で一番優秀な高校だったので 
“けんたか”というあだ名で
呼ばれていました。

当時、女子生徒は全体の6%くらい
しかいなく、この高校は新潟県で唯一、
女子生徒に制服がなく、

私服を着て胸に高校のバッジを
つけての通学でした(男子学生には

普通の詰襟の黒い制服があった)ので、

このような、私服+胸にバッジの
女子高校生は “けんたか”に通う、
未来を約束されたエリート
女子学生だったのです。

実際、夜中に(飲酒し)ふらふらと
街路を歩いていて、警察官に
呼び止められても、“けんたか”
の生徒だとわかると

「あっ じゃあ 話せばわかるね 
君たち…」という感じで、

「気を付けて家にかえりなさい、、、」
くらいの忠告で、おとがめなし
といったような状況でした。 

結構飲酒や喫煙などを親に隠れて
やっていたけれど、こんな風に扱われて
いたことはラッキーといえばラッキー
だったのかもしれません。

高校時代は、なんとなく
フェンシング部というのに
入ってしまい、これも、

同じ中学からその高校に入った
KAが、「ここ良さそう…」
と言って入部した事と、

私自身も仮入部とかいうのを
してみて、えらく先輩方が
親切だったし、

それに毎年インターハイにも
出場していたから、まあ、

入ってみるか…くらいな感じで
入部しました。入ってみると、
さすがにトレーニングは結構きつい。

なので、酒を飲んでも、翌日の
パフォーマンスには、影響
しなかったけれど

(若かったし、体力あったのよね… 
お酒も飲めるほうでしたよ…)、

さすがにタバコは、走れなくなるので、
これは、吸い続けることは、
無理でしたね… 

ともかく、部活をガンガン
やっている子供たちは、

いっぱいいたけれど、みんな
なんでこんなに成績いいのかな… 

やっぱり頭がいい子がそろっている
んだな…とつくづく自分は、
大したことないことを思いしらされました。

部活なんか、毎日やってたら、
夜は疲れて、よく寝ないと

翌日響くので、夜中に、がり勉なんて、
とってもじゃないけど、できない
状態でしたね。 

それに授業の進み方が早いし
科目もやたら多い。数学Ⅰの
初めての試験で赤点というのを

もらって、ガーン ときたのを、
よーく覚えています。

これはやってももうダメと観念し、
私立文系の道を目指したのでした。 

面白かったのは、6月頃に行われた
恒例の学園祭で「青陵祭」 
という名前のもの。

1年生~3年生の同じ組
(1組なら1組同士) の生徒が
1グループになって、

全校10グループで対抗して、
出し物や、踊り、やぐらの
デザインやBGMの作曲、

走ったりというようなスポーツ
競技をも、競うもので、

さすがに優秀な子供が集まって
いるので、勉学系なら東京大学から、

美術系や音楽系なら、東京芸術大学とか
多摩美大とかを受験するような
子供も多かったので、出し物の

コンセプト作りから音楽や背景の
デザインやおどりの振付けなどなどの
レベルが以上に高いことに驚いたのを

よく覚えています。私のここでの
気づきは、自分よりもっと頭がよくて、
才能がある本当に優秀な人たちが

沢山いるということかな。。。
それとまじめにコツコツ、こんな

田舎で勉強していても息がつまる…
という感じを、強くうけました。 

まじめな人たちの多い中で、
私は4人の女子の友達を見つけて、
学校の休みになると、一緒に

遊んでいました。(しかし彼女たちも
かなりいい大学には入ったのですよね 
結局、、、) 


あと、よく覚えているのが、
英語会話という授業があり、
これは米国人の教師が来ていて、

この彼が週末に高校生や大学生を
集めて英語のみで会話する
ティーパーティーのような

サークルを作っていて、
そこに行ってみました。

英語で会話するなんて、
頭が割れるほど疲れるけど、
面白い、と思い、

何回かこのサークルにも
参加したのを覚えています。

きっと他の勉強などが忙しすぎて、
数回しか行くことはできなかったと

記憶していますが、これは面白いし、
これができるようになったら、
いろんな人と話ができていいだろうな…

などどと、上手に英語が話せている人に、
あこがれたのでした。

さらには、初恋の人に出会って
しまったのもこの高校ででした。
これはかなしい片思いでしたがね。。。

彼は2年上の野球部のピッチャーで、
すごいハンサム。それにかなりの
遊び人風でもあったのですね。。。 

こんな人たちの状態をみながら、
私は、自分の勉学レベルを
落とし始めました。 

何も勉強しなかったら、どれだけ
成績が落ちるんだろう…なんて、

まったく今から考えれば、馬鹿げた… 
イカレタ、ティーンーエージャーの 
ワルになりたい 願望みたいな、

感情が沸き上がり、“自分崩し”
を始めたのでした。。。

それでもフェンシング部だけは、
なぜか続けてはいました。
とにかく、とっとと東京の大学に入って、

思いっ切り遊びたかった 
というのが、ほんねでした。

高校の3年生になると、
フェンシングの方も
最終学年になり、

毎年、3年生の女子部員も男子部員も、
それぞれ女子の部と男子の部で
誰かが、必ずインターハイに出場

(つまり県内で1位になる
ということです)していたので、

女子の部では、私を含む8名ほどの
部員に最後にフェンシング部の
名誉を守る責任がかかってきました。

なんせ私らの代は、あまり強くなかった
ので、すごいプレッシャーだったかな… 

このフェンシング部の顧問コーチには、
中央大学を卒業し、オリンピックにも
出場していて、新潟のトヨタ自動車に

勤務していた、KOMさんという人が、
専任コーチとして雇われていたことで、

週末や学校の休みの合宿などに、
よくその他のオリンピック選手たちが

来ていて、我々と一緒に練習
してくれていました。

確か、他の高校の生徒だけれど
そこにはフェンシング部が
ないからっていって、

飛び入りで練習に
来ていた男の子もいましたね。 

とにかく、このフェンシング部の
名物は、夏季の合宿。

これはたしか1週間ほどの
合宿をした最終日の夜は、
パーティーをやって、その後、

夜中にみなが寝込んだところを
最年長者たちが、マジックインキを

手に手にもって、下級生の体中に
落書きをするというのが、しきたりで、

今年は絶対に寝ないぞ…と思っていても、
あれだけ夏の暑い時期に猛練習をした後は、

こてっと寝込んでしまい、1年目2年目は、
見事に知らない間に、マジックインキの
落書きだらけになっていたのを思い出します。 

そうそう、それで、話は戻りますが、
最終学年の時に、この部の名誉を守るため、

インターハイへ出場できるように
頑張らねば、ならない状況に追い込まれ、

苦しんでいたた時期に、その
オリンピック選手のkOMさんに

「お前たちは、お嬢さんフェンシング
やってるから勝てないんだ…!」
と言われ、はたっと目が覚め、

よし絶対勝ってやる…と思って
がんばったら、なんとなんと、
私は、新潟県で個人優勝して、

さらにフェンシング部の
団体優勝も勝ち取り、

その夏に京都で行われた
インターハイにも3回戦まで、
勝ち進んでしまったのです。 

この時に、「自分を信じて、
やれば、できる。。」という
妙な自信と非常に前向きな

観念をつかみ取った、
という感じがします。

この体験から、後々まで、
自分を信じて、頑張れる精神力を
保つことや、ここぞと言うときに、

病気やケガなどをせずに、
最高潮の自分をその時間に

合わせて出していくテクニックなどを、
習びとったのだと思います。 

この後は、大学の受験時期が
待っていて、結局、自分の望んだ
大学は全て落ちたので、

東京で浪人をしたかったけれど、
親がそれなら、新潟で就職しろ、

といったので、仕方なしに、
好きでもなかった東京の
練馬区にあった武蔵大学という

大学に入学せねば、なりませんでした。
私の仲良しの女子4人もみな
それぞれ東京の大学に入学したので、

取り合えず、行ってみるか…
と思い、嫌いな大学ではあったけれども、
通ってみることにしたのでした。

さてさて、今日はここまで。
パリ在住 英欧日ビジネスマッチング の
さきちゃんが語る

プロフィール第3部でした。
続きは、またあした~♪
A demain !  See you tomorrow !


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