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長谷川白紙「魔法学校」のリリースを前に長谷川白紙の現在地点を考察する

2024年7/24に長谷川白紙の2ndフルアルバム「魔法学校」がリリースされると発表された。前作の「エアにに」からは4年8ヶ月振りのアルバムとなる。この期間に長谷川白紙はカバーアルバム「夢の骨が襲いかかる!」のリリースや諭吉佳作/men、KID FRESINO、東京スカパラダイスオーケストラ等の幅広いアーティストとのコラボや月ノ美兎、花譜、学園アイドルマスター等への楽曲提供、Flying Lotusが主宰するアメリカのレーベルBrainfeederへの移籍など数多くの話題を残した。これだけの期間の全てを網羅しようとすると纏まりがなくなる為、本記事では「エアにに」から最新のシングルである「Departed(行っちゃった)」までを接続して長谷川白紙の現在地点を考察しようと思う。

長谷川白紙の構成要素

音楽性の変化を比較する為にはまず基本となる要素を分析するとわかりやすい。そこでキャリアを通して変わらず根底にある楽曲の構成要素の分析から始める。長谷川白紙を構成する重用な要素は「リズム、メロディー、ハーモニー」という音楽の三原則に「装飾」という概念を加えた4大要素であると私は考えている。「装飾」とはかねてより長谷川白紙自身が言及している概念であり、これについては「夢の骨が襲いかかる!」のリリースに際して長谷川白紙が寄せたコメントが最もわかりやすいので引用する。

-これまでのわたしの曲の多くは、混沌とした膨大な細部が歌によって半ば強引に接着されるような構造を取ってきました。わたしはいつも装飾が本体に成り代わる瞬間を探してきたのだと思います-

この発言によると「装飾」とは「混沌とした膨大な細部」であり、これこそが長谷川白紙の楽曲における「本体」であると表現している。では「装飾」とは何を指しているのだろう。前提として「装飾」「本体」との関係性を表す言葉なのでまずは「本体」の考察からしてみよう。

本体とは何か

細部は混沌としているという事は必ず本体は秩序として存在している事になる。私はこの秩序を「伴奏」であると考えている。「伴奏」の具体例として顕著なのは「エアにに」に収録された「あなただけ」だと思う。イントロではリズムやメロディーの乱れた混沌とした管楽器が唸りを上げているが、ピアノは規則的で極めて弾き語りの「伴奏」らしい弾き方をしている。曲の途中でも管楽器が乱れる瞬間があるがピアノは終始安定しておりリズミカルでポップだ。そして歌のメロディーはこの「伴奏」のリズムに合わせたリズミカルな展開をする。この歌のポップさが相反する「伴奏」と管楽器のバランスを取っている。これが「混沌とした膨大な細部が歌によって半ば強引に接着されるような構造」という表現の意味だろう。

装飾とは何か

秩序としての「伴奏」に付け加えられる「装飾」の数は膨大である為、何種類というような明言は避けるが主に「楽器の再現音源、シンセサイザー、パーカッション、ボイスサンプル(サンプリングされた声の素材)」などが重要であると私は考えている。楽器の再現音源とは既存の楽器をPC上で再現した打ち込み用のソフトで「あなただけ」の管楽器がこれに該当する。シンセサイザーパーカッション「砂漠で」などが顕著で「伴奏」を飲み込んでしまうほど激しい音のシンセサイザー、音楽の三原則における機能としてのリズムという表現では収まらないほど細かく激しいドラムが挙げられる。ボイスサンプルに関しては「エアにに」の時期まではあまり使用していないが「ユニ」から顕著になったように思う。

「装飾」について纏めるとはじめに曲の「本体」となる「伴奏」があり、そこに緻密なパーカッションやボイスサンプルを付け足し続けていく事でいつしかそれらの「装飾」が曲のアイデンティティを形成し「本体」「装飾」という関係性が逆転するという流れが作曲の鍵だと言えるだろう。

最新曲「Departed(行っちゃった)」

かねてより長谷川白紙はインタビューなどで人が本質を持ち、それこそを良いものとする本質主義への批判を行ってきた。その集大成としての新境地が「Departed(行っちゃった)」であると私は考えている。その理由が先程述べた「伴奏」「装飾」の関係性を踏まえる事で見えてくる。以下の長谷川白紙のリリースに際してコメントの通り本楽曲はとても曖昧で混沌とした構造をしている。

-アルバムの中で、もしくは私の今までの作品の中でも最も混沌で、最も明瞭でなく、そして最も既に相反しているものがこの曲です-

この楽曲が混沌として曖昧に聴こえる理由は秩序としての「伴奏」の要素が希薄だからだろう。ピアノなどの鍵盤楽器による「伴奏」が殆どなくシンセサイザーや激しいパーカッションやボイスサンプルによる「装飾」が楽曲の大半を占めている。また「エアにに」の頃と違いコード進行を軸に展開を作らず歌のメロディーを軸に最後まで突っ走っている点も重要だろう。後半の「いっぱいねーいっぱいねー話して」の辺りからもピアノは同じコードを連続して弾いており、あまりコード進行を感じない。ここに長谷川白紙の新境地があると思う。「伴奏」という「本体」をなくすことで「本体」「装飾」というこれまでの関係性を根本的に壊そうとしているのではないだろうか。

-私の根源的な欲求のひとつに自分が置かれている枠組みをなくしていきたいというのがあります-

生き方においても作曲の手法においても枠組みをなくして進化し続けている事が長谷川白紙の偉大さだと言える。

最後に

「「本体」と「装飾」の関係性の逆転」というだけでも革新的な発想だが、自らが生み出した手法を更に進化させ遂には「「本体」と「装飾」という関係性を根本的になくす」という境地にまで至るとは驚愕する。正直私としては「ここまで来ちゃったらこの先どうやって新しい事をするんだ」という気持ちだが、最新の情報によると「Departed(行っちゃった)」はアルバムの一曲目らしい。一体どれだけの名曲が控えているのか...。長谷川白紙の現在地点は紐解いた。アルバムではどこまでの未来を見る事が出来るのかを楽しみにしようと思う。

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