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My(mai) story. ②

今回は、前回に少し触れた、女性への想いを。
私は、フェミニストでも無ければ、フェミニズムを主張したいわけでもありません。
もしかしたら「女らしさ」とか「男らしさ」とかは、むしろ意識していた方かもしれない、と私自身は思います。

ただ、性別に対する「どちらが上で、どちらが下で。」
そんな枠が昔から嫌。憤りを感じていました。

女性学との出会い  

教育学専攻だった私は、昔から女性の教育、人権、歴史的背景にとても興味を持っていました。
大学では、最初は一般教養を主に学びます。その中で目を惹かれたのが「女性学」
その学びの中で、女性の歴史的背景(穢れの話、フェミニズム的な話、など)やファッションの話など色々触れたように思います。
(穢れのことは今も覚えています。「月経や出産が穢れって何?」と怒っていました。笑 長くなるので、この話は一旦置いておきます。)

私自身が、女性のことに昔から興味があったのは、母の影響も大きいように思います。
「女性でも自立できるように」そんな考えを持つ母の元、女性の物語がすぐ手に届く環境で育ちました。(母は本がとても好きなので、それに限らずたくさんの本が家にはありました。)
女性が書く詩、女性が描かれた話…
実家にあった本の中で、忘れられない、今の私に繋がる、女性の本が二冊あります。

  • ファウジーヤの叫び(上・下)

  • おんなのことば 

「ファウジーヤの叫び」は
自分の知らない世界すぎて、衝撃でした。

出会った物語①    ファウジーヤの叫び

ファウジーヤの叫び
この本との出会いが、直接的に女性のことを何かしたい。私が今、デリケートゾーンのケアについて伝える活動をしている、ということに繋がっているように思います。
この本との出会いは、大学時代に遡ります。

世間で大きな議論となっている女性性器切除(FGM)から逃れ、アメリカに亡命申請をした若い西アフリカの女性のこの悲惨な物語

Kirkus Reviews
/ 「ファウジーヤの叫び」より

そう、この物語は「女子割礼」と言われる、
世界の一部地域で今も行われる伝統的な慣習から逃れようと、過酷な状況に立ち向かっていく、そして勝ち取っていく、女性の話です。

私が、私の意思ではないところで、私の体の一部を切除される。
日本人である私には到底理解ができないことでした。
しかも、その決定権が男性にある。
女性には、ただ受け入れる、という権利しか与えられていない。
それは、その行為が、というところに留まらず、私の中で「女性が女性らしく生きるとはどういうことなのか。」ということを考えるきっかけにもなりました。

この本の詳しい内容については割愛しますが、
「割礼」という言葉は、女性のデリケートゾーンが自分の意思に関係なく、蔑ろにされている。そして、それを実際に経験する女性の大部分がおかしいことだと理解できていないのだ、ということ。
当時と今では随分環境は違うかもしれませんが、「間違っていることを間違っている、と知ることができる」教育の大切さを痛感したものでした。
ただ当時の私は、人権という目線で「私にできることは?」の視点。
そこから、フィトテラピーや性科学と出会う中で、デリケートゾーンに目を向けて、自分ごととしてのケアの重要性を伝える側になるとは、その頃の私は知りもしません。

でも一つ言えるのは、先でフィトテラピーに繋がる一冊の本に出会った時、「私は割礼にあれだけ憤りを感じて関心を寄せたはずなのに、膣まわりそのものを自分ごととしては見ていなかったんだ」という衝撃。
ショックのような、「これだ!」という感覚。
また一つ、点と点が繋がっていく感覚を得た瞬間でした。(このことはまた後ほど)

出会った物語②    おんなのことば

おんなのことば
茨木のりこさんの詩集です。その中で、私の好きな「自分の感受性くらい」という詩があります。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「おんなのことば」より

つい、誰かや何かのせいにしたくなる時、この言葉に立ち返ります。
全ての決定権は、私なんだ、と。

何者でもない。何者かにならなければ。
そう思っていた頃、誰かの目線で物事を考えがちでした。だからこそ「自分」がある人に憧れていた。それは今もそうかもしれません。
でもあの頃より、私が好き。私を生きている。
そんな感覚があります。
それでもブレる時、それを味わうことも、立ち向かうことも私の責任。
そう思えることは、とても自由で、ワクワクもします。

一冊の本 

二冊の本との出会いから、結婚、出産を経験し、その日々の中で、例えば、世界のどこかでは、女性が昨日まで当たり前に受けられていた教育を受ける権利を奪われたり、今だに「女子割礼」という慣習が行われていたり。
女性の置かれている状況に、憤りを感じる瞬間はもちろんありました。
ただ、それは「自分ごと」ではなくて。
テレビに向かって言葉を発する自分はいても、あくまで遠い世界で、他人事であって。

そんな中、一冊の本とたまたま本屋で出会います。森田敦子さんの「潤うからだ」です。

これが、恩師である森田敦子との出会い、フィトテラピーを学ぶきっかけとなりました。

「潤うからだ」

私のフィトテラピーの恩師でもある、森田敦子先生の、代表的な本の一つであるこちら。
私がアロマで出会い、救われたと感じてからしばらくして(一年後くらいです)出会いました。

あなたの膣まわりは潤っていますか?

「潤うからだ」より

そんな、ドキッとする一文から始まります。
「どういうこと?」「潤うって?」
膣まわり(デリケートゾーン)のケアをちゃんとしていますか?
私の経験、知識から想像しても、したことがない。しようと思ったこともない。

「女子割礼」という言葉に出会った時、自分の性器(体の一部)を男性本意で切除され、それを慣習だからと受け入れないといけないこと。処置の仕方によっては命を落とすこともあるだろう。痛みはきっと一生残る心の傷にもなるだろう。
そこに思いは巡らせど、その部分のこと。ましてや「ケアをする」そんなことを気にかけたことはありませんでした。

そこから、私の、デリケートゾーンへの興味。女性にしかない大切な部分を慈しむことの大切さ、性のこと。そんな学び「性科学(セクソロジー)」という分野があることを知っていきます。
そんな学びをこの森田敦子先生から、学びたい。そう強く思うようになります。

フィトテラピーと性科学

学びたいと思うと、回り道はしたくない。
「森田敦子さんってどんな人?」と検索すると、どうやら日本におけるフィトテラピーの第一人者でもあるらしい、と。
そして、ルボアフィトテラピースクールという植物療法の学校をされているんだと知り、アロマを学び始め、その大元である植物についても学びたいと思い始めていた私には、「もうこれしかない!ここで学びたい!」という、ときめきがそこに。💘笑
東京には通えない、と一回は諦めましたが、コロナ禍のオンライン授業で、私にも学べるチャンスがやってきました。
そこから有難いことに、自分の思う形で学ぶことができ、植物療法士になることができて今に至ります。(現在、ルボアのサテライト講師として、プルミエ(初級クラス)を伝えています。)

23.3.31「AMPP認定植物療法士」に。
6月、ルボア本校に初めて足を踏み入れた、授与式❤️‍🔥

敦子先生から、デリケートゾーンのケアの大切さはもちろん、潤う力(粘液力)=免疫力ということ。だからこそ、いかに粘液を出すことができるか。そこには、パートナーシップも関係してくる。
そんな性科学(セクソロジー)についても、しっかり教わることになります。
そして、やっぱり女性という存在の大切さ。フェムテックという言葉が、拡がってきていますが、そもそも体の中に、産み出す力を始めとするテクノロジーが備わっているということ。心、女性ホルモン、子宮と脳、様々な繋がりを知ることで、よりそこの部分のことを知りたいし、伝えたい。誰かと分かち合いたい、と強く思うようになっていきます。

私が伝えたい、女性のこと

女性が、自分自身の体や心を慈しみ、愛することができる。
それはもちろんのこと、私たちの体や紡ぐ言葉に自信を持つことができる。それが大事だなと思っています。
どんな自分であっても、「私っていいやん」その感覚を大切にしたい。

「元始、女性は太陽であった。」(平塚らいてう)
私の好きな言葉が、思わず浮かびます。

30代後半から40代にかけての揺らぎ世代は、体はもちろん内面でも、自信を無くすことがたくさんある。私はそうでした。(41歳なので、現在進行形で味わっているところでもあります。)
そのために、女性としての大切な体のこと、心のことをお伝えしていきたい。出会う皆さんと分かち合いたい、と思っています。

そして、自分自身に目を向けるためのツールの一つとして、香りを届けること、フィトテラピーをお伝えすること。
この「創香×フィトテラピー×女性のこと」を軸に、PHYTO MARGE. がしっかりと根付いていけるように。拡大していけるように。
そんな想いを響かせています。💫


森田敦子先生との出会い、そして、私の中にあった色々な点が少しずつ繋がって線となって今に至る。
「見える世界は、優しい世界なんだ。」

前回に続き、
そんな私のストーリーを、一緒に感じて下さって、本当にありがとうございました。

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