#1 干し芋が大嫌いだ!|元祖筋育専用干し芋フィジーモ BrandStory
こんにちは。戸崎農園の戸崎泰秀です。
栃木県壬生町のおもちゃのまちで、オーガニック干し芋を生産しています。
戸崎農園のブランドプロミスは、「あかちゃんが大喜び。オーガニック干し芋。」です。
創業以来、時代の流れに翻弄されながらもブランドプロミスを頑なに守りながら、オーガニック干し芋づくりに取り組んできました。
現在では、首都圏のアッパーマス層をターゲットにした各種のお店で販売をしていただいています。
ところが、紆余曲折を経て、あかちゃんではなく、アスリートの筋肉が大喜びをする、「筋育※専用干し芋 フィジーモ 」を開発してしまいました。
これを戸崎農園のブランドストレッチと呼べるのかは、別の機会に記します。
今回は、フィジーモの開発に込めた想いを5話構成で綴っていきます。
※筋育(きんいく)は当社の造語です。
アスリート専用干し芋開発スタート!
オーガニック干し芋づくりには長い時間がかかります。
有機質の土壌づくりに3年、そこから満足のいく干し芋が出来上がるまで2年、都合5年の地道な作業の繰り返しです。
アスリートが、日々の努力をかたむけて地道にカラダづくりをするのと全く同じです。
開発にあたって、アドバイスをフィジーカーの方たちから頂きました。
フィジーカーとは、ボディメイクした体を競う競技であるフィジーク(PHYSIQUE)の選手のことです。
私たちの丹精を込めたオーガニック干し芋を、筋育のエネルギーとして、そして時には心の癒しとして傍においてほしい。そんな想いから、この干し芋をフィジークへの愛(I)、そしてオーガニック干し芋への愛(I)を重ねて、PHYSIIMO(フィジーモ)と命名しました。
干し芋が大嫌いでした。
戸崎農園はまるつね子会社の農業生産法人(農地所有適格法人)です。
まるつねは、祖父が太平洋戦争から引き揚げて興した会社です。
祖父は、干し芋を含めた自家製野菜の販売から始めて、干瓢(かんぴょう:壬生町が大産地)の卸売に移行して、父と共に軌道に乗せました。
私がものごころのついた昭和50年代中頃は、栃木県産干瓢の隆盛期でした。
毎年、春から夏にかけて、あたり一面がゆうがお畑(干瓢の原料)になりました。
朝、工場に干瓢の山ができ、夕方には出荷されて無くなるということが毎日続きました。
父が10貫目(約37.5kg)以上ある干瓢の束を両肩に一束ずつのせて軽々と担いで歩く姿を覚えています。筋肉モリモリマッチョマンで、私はいつもその腕にぶら下がって遊びました。
工場は毎日忙しく、幼児の私でさえ駆り出されました。
ご褒美に祖母やパートのおばちゃんからもらったのが、干し芋でした。
カンソイモと呼んでいました。「うんめぇからくえ」って。
そのカンソイモなる物体は深緑色をしていました。
「芋なのになんで緑色?」と不思議に思っていました。
ひとくちでは食べられないので、ちぎりろうとします。
しかし、真冬のゴムみたいな硬さで容易ではありません。
ようやくちぎって口に含み、スルメのようにしゃぶって柔らかくしました。
苦労をしてやっと飲み込むと、土の匂いが鼻に抜けました。
カンソイモは大嫌いでした。
本来、カンソイモは噛めば噛むほど甘味を感じる食べ物です(でん粉と唾液との化学反応)。
しかし、チョコ・コーラ・ケーキを飲み食いして育った私には、カンソイモは甘く感じなかったのです。
せっかくご褒美でもらったカンソイモは、「マズイ・くさい・嫌い」なものとして私の想い出に刻まれたのでした。
干し芋づくり
時は過ぎ、マッチョの父が社長になり、さらに時が過ぎ、私が社長となりました。
父は、「世のため人のためにおいしい干し芋を作りたい」と、母と共にさつまいもの生産を始めました。
両親は、子供の頃から親や地域の農作業を手伝ってきたとはいえ、主体的に農業をやるのは初めてです。
一年目・・・。
秋、ラグビーボールのようなデカいおいもができました。
冬、いよいよ待ちに待った干し芋への加工です。
「うんめぇからくえ」
硬い。マズい。
デジャヴ・・・、いや、あのときのカンソイモよりもひどい。
返品の山ができました。
二年目のチャレンジと失敗
気を取り直して二年目・・・。
「生」感覚のお菓子が流行っていました。そこで、硬くならないよう、生の食感になるよう、乾燥しすぎないようにしました。
「新感覚のお菓子だ、うんめぇからくえ」と。
やわらかい・・・。
しかし、マズい。まるで芋の煮っころがし。
そもそもカンソイモともいえません。
返品の山ができました。
三度目の正直(有機農法への転換)
三年目・・・。
二度あることは三度あるのか?
お客様にとって、仏の顔も三度までになってしまうのか?
はたまた、三度目の正直になるのか?
失敗続きと言えども、土づくり、肥料の配分、乾燥の方法等、ノウハウがたまってきました。
この年から、有機栽培をこころざして、有機土壌への転換を始めました。
孫が増えて、「あかちゃんが大喜びするような干し芋食べさせたい」という父の切なる想いからでした。
有機農法は雑草との戦いです。
刈ったそばからすぐに生える雑草にうんざりしながら頑張りました。
その冬、やっとおいしい干し芋が出来上がりました。
お客様も美味しい美味しいと喜んでくださいました。
新規の卸先さんもどんどん決まりました。
三度目の正直だ!順風満帆でした。
そうは問屋がおろさない。
順風で過ごして数年後、東日本大震災が発災しました。
建屋や機械が損壊し、設備の修繕や更新に資金が必要となりました。
当時は新規事業として、オーガニック干し芋(国の農商工連携事業認定)と、たけのこ水煮(県の経営革新計画認定事業)との計2本を走らせており、すでに大きな設備資金をを借り入れていまました、そこに来て地震の揺れによる設備の損壊の修繕資金で、約1億1千万円の借り入れが増えてしまいました。
干し芋事業は長年の失敗続きで、設備資金を召喚するための収益を、まだ生んでいません。やっと有機農法が軌道に乗り始めたところです。
たけのこ事業も「とちぎのもりの恵み」という県のブランド立ち上げに参画し、借り入れで設備をして「さぁやるぞ!」という矢先でした。
さらに泣き面に蜂で、原発事故の風評被害から、すべての商品の注文がぱたりと止まってしまいました。
3月は、干し芋の在庫が満タンかつ、取り扱い商品(宮崎産切り干し大根)の仕入れ直後で運転資金が枯渇しています。4月には栃木県産のたけのこの仕入れが迫っています。
いよいよ会社にお金が無くなり、にっちもさっちもいかなくなりました。
私は、父に「今年のさつまいもの作付けはやめよう」と相談しました。
しかし、父は頑として聞きません。
「ここで辞められるか」の一点張りです。
2011年の芋苗の作付けは、震災後のどんよりとした空気の中、定植機を押す父の後ろを、沈んだ気持ちでトボトボとついてまわりました。
つづく・・・
文:戸崎泰秀