治療の正解なんて一生見つからないと思っている
1型糖尿病とわたしの話。
そう遠くない将来に、バイオ人工膵島移植によって1型糖尿病が完治する時代が来るとか来ないとかいう話を最近よく耳にします。
現在の医療では一生をかけて付き合っていかねばならない病気が、いつか治せる病気へと変わったらうれしいですよね。
……と、当然のように考える人が多数派だと思います。しかし、私は糖尿病治療に関する前向きなニュースを見聞きしても手放しには喜べず、いつも複雑な気持ちが残るのが正直なところです。
「治る希望があってよかったね」
「デバイスが進化して、治療の負担が軽くなってよかったね」
「病気でも、みんなと同じように生活できるからよかったね」
めんどくさいと思われる覚悟で言いますが、そういう類の言葉は個人的にはあまり聞きたくないんです。それらの発言に悪意がないことは承知で、むしろ患者に寄り添ったり励まそうとしてくれる気持ちは純粋にうれしいのですけど。
でもね、年齢二桁もいかないときに1型糖尿病を発症して、何年も何十年も治療しながら生きてきて、「死ぬまで治らない前提」で色々なことに耐えてきたんですよ。世の中には治療法の確立されていない病気でもっと苦労している人もいるとか、もっと幼い年齢でつらい闘病生活を送る人もいるとか、誰だって何かしら抱えているんだとか、そうやっていちいち比較されながら、自分は自分で幾多の苦しみに耐えながら生活してきたんですよ。
せめて医療関係者や患者が話すならまだしも、そのような背景を想像することさえできていない人々の口から「病気でも◯◯できてよかったね」なんて、一体誰が聞きたいのでしょうか。
私自身は、あえて極端なことを言えば、このまま自分の1型糖尿病が一生治らなくても仕方がないと思っています。そりゃ血管へのダメージやら低血糖が脳に及ぼすリスクやら様々なことを考えれば、体にとっては治ったほうがいいに決まっているでしょう。ただ現状、なってしまったものは取り返せませんし、甘んじて受け入れる他ありませんから。
根本的な問題はそこじゃないんです。
「つらいという気持ちを持って生きていくこと」を否定しないでほしいのです。
たとえ治る見込みが未来にあったとしても、さらなるデバイスの進化がいくつあったとしても、私の根っこにずっとある「つらい」は多分一生消えません。消されてたまるものか、と言ったほうが正しいかもしれないです。
いつか、注射や服薬の他に治療の選択肢が増えたとして、自分にとってどの治療が最適解なのかは結局のところ一生わからないような気がします。わからないから、主治医と相談して色んなことを試して日々模索しながら生きていくしかないんですよね。
それは今より治療の選択が限られていた昔でも、昔より便利なデバイスが増えた今でも、そして今より発展していくであろう未来においても、変わらないことだと思っています。
「よい治療」とは何をもってそれを指すのでしょうか。1型糖尿病とともにあっても、自分なりのよい人生を送ることでしょうか。ならば、よい人生とは何なのでしょうか……。死ぬまで答え合わせはできません。
今の私には、暫定的な目標も見えていません。とりあえず血糖管理が良いに越したことはないので頑張っています、でも人生にあまり希望は持っていません、という感じで。
生きづらさを抱える人に対して「人生なんて生きてさえいれば充分だ」と語りかける人も多いですが、もはやそれが一番の困難である場合はどうしたらいいのですかね。
つらい、苦しいと連呼して悲劇のヒロインになりたいわけではありません。
どれだけ恵まれた治療の選択肢が与えられようとも患者の負担が決してゼロになるわけではないことを、頭の片隅にでも置いていただけたらと願っています。
念のため補足しておきますが、冒頭に引用したバイオ人工膵島移植プロジェクトの進行・実現には期待をしていますし、自分が選ぶかどうかは別としてそのような新しい治療の選択が可能になるのは素晴らしいことだと思っています。
あくまでも、気持ちの面ではなかなか難しいところがあるんだな、まあそういう人もいるんだな、と知ってもらえたら充分です。
それではまた。