読書『ポスト戦後の知的状況』
ラジオがきっかけ
TBSラジオで放送されている武田砂鉄の番組内の「金曜開店 砂鉄堂書店」で紹介されていた本を今回読んだ。この番組は講談社がスポンサーで、当コーナーはポッドキャストでも配信されている(2024年3月29日の回)。
タイトルにある「クリティック」は批評・批判または批評家・評論家と一般的に訳されるが(criticかcritiqueかによる)、著者の用いる「クリティック」は理性的な検証を行う知的営み・系譜を意味する。健全な批判には必ず求められるバックグラウンドだ。
武田氏は批判性を意識した文筆を生業とし、番組では「クリティカルであるっていうのはどういうことかっていうことは意識としてはもっているつもり、考え続けているつもり」ということで、この本を読んでから「きわめて強い問いかけっていうのを浴びた実感が続いています」とのことだった。
自分にとっても批評というのは読書の主要な一面だし、読書会はそういう面を表面化させるので、武田氏の語る本書のテーマにまんまと釣られ、また武田氏が「平易でない」という本をあえてラジオで紹介していた点に「おや?」と思ったのにも興味をそそられ、読んでみることにした。
前著は必須?
学術書のようにびっしり字が詰まっている本書、はたして内容が理解できるか、と読みだすと、のっけから「本書の読者は前著を予め読むことを要する」とあり、さらにその前著『クリティック再建のために』の理解には別の2冊も必読、と最初から入場の敷居を上げられる。
このまま読んでもいいかと躊躇する。しかしここは著者の善意と受け取ろう。クリティックなどの学術用語を使っているのは研究者として述べたいことを正確に表現したいからだろうし、読み手にもなるべく齟齬なく読むための案内と思えばいいのだ。筆者も、素人読者をある程度想定して、「本当は基礎知識もった上で読んでもらいたい」と思いながらも、分かりやすくしようとしてくれている感じがするので、関連著書を読まなくても、この本を読み進んでしまっていいと思う。
この本の構成や展開の論理は、筆者によって冒頭で整理されているので、読み始める際のガイドになる。実際読んでみても、論旨や構成が明快なので、むしろ読み進みやすい本だった(ただ、知らない言葉があっても読み進めるくらいのスルー力がないと厳しいかも)。
与次郎
さて、この本の特色は、『三四郎』などの夏目漱石作品を通じて、明治末期以降の社会の知性(ただし「クリティック」に限定している)について論じているところにある。特に、『三四郎』の登場人物である与次郎を、日本の近現代のどの時代にも通じる「表見的知的階層の全ての特徴」のモデルとして取り上げている。要は、本書全体を通じて「クリティック」の敵の象徴としているのだ。
与次郎は、熊本から上京した三四郎の同級で、「講義はつまらない」「街へ出て東京文化を学べ」と生真面目な三四郎を、ひいては大学を批判する。が、小説の話が進む中で、薄っぺらい論説を行い、広田先生の引っ越し資金を競馬でスる。小説は、失われた資金の立て替えに立場上やむをえず動く三四郎と、資金提供を申し出た美禰子との関係が始まることで進んでいく。
本書では、この与次郎を、「表見的」な空疎な言葉しかもたないが、その言葉で利権に食ってかかり、挙句の果てに利権と癒着する、貪欲で知的に空虚な人々のモデルとする。そして与次郎と同類の人々がどのように知的階層を食い物にして崩壊させてきたかということが論証される。歴史上の様々な人物に与次郎がとり憑いて社会の表裏に跋扈するような、ある種のホラー話を読むようでもある。そういうストーリーだけでもこの本を面白く、また読みやすくしていると思う。
読み物における面白さになる反面、与次郎というモデルが本書で重要なのは、やはり「クリティック」を「直線的・短絡的な行動によって」否定する実行者であること、「クリティックを脱漏させるプロセス」を体現している登場人物であるところにある。与次郎たちがどのようなステップで知的破壊を行ってきたか、そしてそれが国レベルの人為的厄災を産んできたかを丁寧な論理で展開し、絶望を語る。
壊滅的現状
各時代の「知的状況」をたどり、最後の章で述べられる現代(1995年以降)の状況は、絶望的状況だ。この章から掻いつまむと、1981年の第二次臨時行政調査会に始まる「臨調」体制や「スクラップ・アンド・ビルド」の合言葉に象徴される「犠牲を強いる」精神によって、社会のいたるところで自滅的解体が行われたという(その目的は与次郎たちの投機対象をつくることと説明される)。そして知的階層を生み出す構造(最たるが大学)も内部崩壊し、与次郎的人々がもう群がることもないぐらいに知的状況が壊滅している状況が描かれる。
そのような状況を私たちは実感できるだろうか?コロナ禍中の趨勢や、とても自分なら言えないような厚顔無恥な発言が政治の舞台で繰り広げられる昨今、「どうしてこんなことになっているのだろう?」と不思議でたまらない人も多いと思う。私などは、暮らしは日々進んでいるので「目に見える世界はおかしいことが起きているように思うが、それでも大丈夫なくらい懐が深いのが世の中なのか?」と半信半疑の心持ちが常にしている。
しかしこの本を読むと、現状はやはりおかしいのであり、民主主義を支える基盤が崩壊している異常なまでの危機的状況らしい、と疑惑側に傾く。そして、おかしな話がまかりとおると、実生活を崩落させるような明らかに正しくないことが進行してしまうことは、本書の時代分析が明らかにしていることなのだ。見えていなかった爆弾を突き付けられた気分になる。
武田氏の「強い問いかけを浴びた」というのは、いったいどうすればいいのか、というよりも、著者の主張が正しいならどうしようもないのでは、というレベルのどん詰まりに行きついた、ということをだったのかもしれない。
リトル・ピープルを撃退できるか
本書の視点から問題解決を行おうとすれば、結びにも書かれているとおり、論理的には与次郎たちを駆逐しないといけない、となる。実際の歴史では、戦前に与次郎たちがぶら下がっていた国体システムは敗戦により解体され、与次郎たちは「地中」に逃げた。しかし与次郎たちは再度地上に這い出し、まだ脆弱だった体制を乗っ取った。そして「地中ないし地下からの突き上げは現在でも日本の社会全体を決定づけている」。戦後から現在までがこう総括される。
この総括にも出てくる与次郎というメタファーは本書のユニークな点であり、非常に象徴的だとあらためて思う。そんな与次郎(という特質)が主役ともいえる本書を読んでいて、村上春樹の小説に出てくる得体の知れない邪な存在を連想した。特に『1Q84』のリトル・ピープルは、それこそイコール与次郎なのでないか、と私には思えた。
本書で現状を「小さな与次郎ばかりが溢れかえっている」と書いているのだが、まさにリトル・ピープルが闇から這い出して荒らし尽くした(1Q84の結末とは異なる)世界なのではないかという恐ろしい想像がよぎる。
与次郎は『三四郎』内の大学生であるように、もともとは知的階層側に属するが、その側から「目標を強奪」しようと短絡的な賭けに出る。つまり知的階層と強奪対象がある限り、確実に生まれる存在といえる。1Q84のリトル・ピープルもどこからでも(遺体の口からでも)現れる。そういった存在を抑え、失われた「クリティック」を取り戻すことはできるのだろうか?助け舟となるような解決策も本書に求めたくなる。
残念ながらというか、そのような答えは本書で用意されていない。著者は、知的階層が(そこからこぼれた)与次郎たちによって内部から破壊されたという経緯から、希望をもてるポイントも最後に示唆しているが、その部分はこの本の中での本論ではなく、対抗勢力となり得る稀有な知識人を挙げているわけでもない(冒頭でこの本の範疇外としている)。武田氏が浴びた問いに対応する答えはなく、その手がかりすら見いだせないのだ。
本書の視点をなぞる
著者は本書での探求の対象を「クリティック」に限定していることを明らかにしているし、その範囲でさえも網羅性は十分でないと断っている。「法人」の一角であり、私たちの生活にとって所得・消費ともに重要なアクターであるはずの企業についてほとんど分析がないのも、象牙の塔だからでなく、あらかじめ設定された限定によるものと思いたい。問題の解決策は提示されず、扱う範囲も限られているのだ。一方、読み手としての自分には書かれたすべて(たとえば、吉本隆明・梅原猛・中沢新一を「三世代与次郎、極めつきの与次郎」と容赦なく批判している)が妥当かも持ち合わせの知識で判断できない。本書を読むのに前著が必須とも書いているが、その前著のレビューを読むと、並の読者では理解できない内容、というよりは理解できるような丁寧さがないとある。「クリティック」の理解には法学の知識も深めないといけないようだ。
しかし、本書を読んだ限りはむしろ誠実で配慮のされた記述がされていて、論理展開は追いやすいように思った。その展開に合わせて進められる歴史論説を読みながら、何が行われ何が損なわれたのか、をなぞっていくと、漸く視点が定まってきて、何が危ういことだったかと著者が主張するポイントに対する感覚もついてくる。もちろん筆者が必須としている知識をもたずに読んだので浅い理解だとは思う。それでも本書の歴史的情報と視点は、現状の問題が何かを知り、その全体像を感覚的にでも把握するための軸となる、と思うのである。
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