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本屋大賞ノミネート作品『赤と青とエスキース』の第一章を特別掲載します。ぜひご一読ください。
「2022本屋大賞」ノミネート作品『赤と青とエスキース』。
2021年本屋大賞2位『お探し物は図書室まで』の著者青山美智子の、新境地にして勝負作!
メルボルンの若手画家が描いた1枚の「絵画(エスキース)」。 日本へ渡って30数年、その絵画は「ふたり」の間に奇跡を紡いでいく――。 2度読み必至!仕掛けに満ちた傑作連作短篇。
●プロローグ
●一章 金魚とカワセミ メルボルンに留学中の女子大生・レイは、現地に住む日系人・ブーと恋に落ちる。彼らは「期間限定の恋人」として付き合い始めるが……。
●二章 東京タワーとアーツ・センター 30歳の額職人・空知は、淡々と仕事をこなす毎日に迷いを感じていた。そんなとき、「エスキース」というタイトルの絵画に出会い……。
●三章 トマトジュースとバタフライピー 漫画家タカシマの、かつてのアシスタント・砂川が、「ウルトラ・マンガ大賞」を受賞した。雑誌の対談企画のため、二人は久しぶりに顔を合わせるが……。
●四章 赤鬼と青鬼 パニック障害が発症し休暇をとることになった51歳の茜。そんなとき、元恋人の蒼から連絡がきて……。
●エピローグ 水彩画の大家であるジャック・ジャクソンの元に、20代の頃に描き、手放したある絵画が戻ってきて……。
<第一章>特別掲載は、こちらをご覧ください。
※ブラウザビューアで読むこともできます。こちらをクリックください☟
第一章 金魚とカワセミ
始まれば終わる。
そんなことはみんな知っているはずなのに、気がつかないふりして、あるいは終わりなんかこないってそのときは本気で思って、かんたんに人を好きになったりする。もしくは誰かに好きって言われて、なんだか自分もそんな気になって、私もよって答えたりする。そんなふたりが世界中にあふれている。鍋の中に沸(わ)いた湯のあぶくが消えるみたいにぽこぽこと、あちらこちらで始まっては終わっていく。
なんだってそうだ。スタートさせるのは思いのほか容易なことで、おしまいはいつも、あっけない。難しいのは、続けること。どこが最終地点なのかわからないまま、変わりながら、だけど変わらないで、ただ続けること。
絵のモデルをやってくれないかと、頼まれた。
一月になったばかりのメルボルンは夏真っ盛りで、ヤラ川沿いのオープンカフェにいた私たちは、大きなパラソルで陽ざしをよけながらレモネードを飲んでいた。
たくさんの人が行き交う遊歩道の向こうで、水面(みなも)がきらきらと光っている。川なのに、ほのかに潮の香りが漂(ただよ)ってくる気がした。
「俺の友達に画家の卵がいるんだけど、レイの写真を見せたら描きたいって」
私はびっくりして、目を見開いた。モデルにしたいと思わせるような華が自分にあるとは思えなかった。
「なんで私?」
「髪がすてきだって言ってた。こんなストレートのロングヘアって、オーストラリアではなかなか見かけないだろ。前から東洋人の女性を描いてみたかったんだって」
私の長い髪に手櫛(てぐし)を入れながら、彼は言った。パーマやカラーをあてたことのない私の黒髪は、彼の指の隙間(すきま)からさらさらとこぼれていく。
その手の持ち主は、みんなから「ブー」と呼ばれている。その愛称を彼は気に入っているらしく、自己紹介のときに「アイム・ブー(僕はブーです)」としか言わない。オーストラリアには台湾人や韓国人も多いので、最初は日本人なのかどうかもわからなかった。フルネームを知ったのだって、ずいぶん後になってからだ。
「モデルなんて、やったことない」
私が躊躇(ちゅうちょ)していると、ブーは片手を振った。
「ただ座ってればいいんだよ。来週の半ばに、一日だけどうかな。本当は何日かかけてお願いしたいけど、もう日にちがないし」
私は黙った。ちょっと変な間(ま)ができて、ブーが顔をそらしながら頬杖(ほおづえ)をついた。私も目を伏せ、ストローをもてあそぶ。
日にちがない。だって私は来週末、日本に帰るからだ。
私が交換留学生としてメルボルンに降り立ったのは、去年の一月下旬だ。こちらの大学の新学期が始まる二月に向けてのことだった。まるっと一年間、ここで過ごした。諸々の手続きを終え、帰りのフライトチケットも取ってある。私はこのあと日本の大学に戻って、もう一年間、卒業に必要な課目をこなすのだ。そしてさらに、就職活動や卒業論文が待っている。
うつむいていたブーが突然、ぱっとスイッチが切り替わったように明るい笑顔をこちらに向けた。
「一日だけ頼むよ。エスキースだけでいいって言ってるから」
「エスキース?」
聞きなれない言葉に、私は顔を上げる。
「下絵のこと。本番を描く前に、構図を取るデッサンみたいなものだよ。それを見ながら、あらためてじっくり完成させるって。だから一日……半日でもいいよ」
屈託(くったく)のない、朗(ほが)らかな声だった。ブーのこんな口調(くちょう)に、私はいつも丸め込まれている。
「……いいけど」
私が言うと、ブーはへへっと笑い、「画家の卵の友達」について語り始めた。
アルバイトをいくつも掛け持ちしながら、水彩画をメインに独学で絵を描いているという。二十歳(はたち)になったばかりだというから、ブーや私よりもひとつ年下だ。
「ジャック・ジャクソンっていうんだ。本名なんだよ、カッコいいだろ」
ブーは白い歯を見せながら、自分のことみたいに得意げに言った。
川から風が吹いてきてブーの長い前髪を揺らす。現れたフラットな額(ひたい)、くっきりとした眉(まゆ)。二重まぶたが縁取(ふちど)る目は丸い。お節(せち)料理の黒豆みたいに、つやっと光っている。
私はあと何度、この顔を見ることができるのだろう。
ジャック・ジャクソンは、西洋人にしては小柄なひとだった。百六十センチに届かない私と同じぐらいだ。明るいブラウンの髪はくしゅくしゅとうねり、小さな目は賢そうでありながらどこかあどけなくて、木の陰にいるおとなしい小動物を思わせた。
ブーが私を紹介し、私も挨拶(あいさつ)をする。ジャックはちょっと首を傾(かたむ)け、ほほえんだ。日本語はあまりわからないとブーが言っていた。私たちは英語で軽く雑談をした。
訪れたのは、ジャックのアトリエ……といってもつまり、それは彼の住むアパートだった。外は晴れていたけど、ここは雨の日みたいなしっとり水っぽい匂(にお)いがした。
窓際の壁にくっつけるようにして小さなベッドがあり、備え付けの家具は最小限で、どれもすっかり色あせている。
部屋の中央に画用紙を載せたイーゼルが置かれている。彼はその前の丸椅子(まるいす)に座った。
向かい合わせに、背もたれのついた木製の椅子がある。
「そこに座って」
ジャックに言われるまま腰を下ろすと、四つ足のどこかがすり減っているのか座面がゆがんでいるのか、わずかにかたんと椅子が傾いた。
真正面を向いて座った私を見て、ジャックがはにかみながら言った。
「少しだけ、斜めを向いてくれるかな。このあたりを見てもらえると」
ジャックは左手で自分の隣に空くうを掻(か)く。そこにはブーのために用意されたのであろう丸椅子も置かれていたけど、彼はそこには座らず、本棚にある本をチェックしたり窓の外を眺ながめたりして、子どもみたいに落ち着きなくうろうろしていた。
私が少し姿勢をずらすと、ジャックはこわいくらいにじっと私を見る。なんだか緊張して、体がこわばった。
「動いても大丈夫だよ。リラックスして」
窓際に立っていたブーが、わざと変な顔をして私を笑わせようとする。それを無視して、つんとすまして顎あごを上げると、ブーはにやにやしながらベッドの端に座り、手近にあった画集を開き始めた。
ふっと頬(ほお)をゆるませ、ジャックが言った。
「きれいな色の服だね」
私が着ている赤いコットンブラウスのことだ。シンプルな丸襟(まるえり)で、半袖(はんそで)の先がフリルになっている。胸元には青い鳥のブローチをつけていた。絵のモデルなんて初めてで、どんな服を選べばいいのかわからなくて、さんざん悩んでこれにした。
私があの日もこのブラウスを着ていたことを、ブーは覚えているだろうか。
*
ブーと知り合ったのは、去年の三月のはじめだ。
私はシティにある免税店でアルバイトをしていた。日本人の学生を快こころよく雇やとってくれるのは、観光客の訪れる土産物屋(みやげものや)や日本食レストランぐらいだ。競争率も高くて、私はメルボルンに来てからすぐ、この店にたどりつくまでいくつもの面接を受けた。
なかなか返事をくれないところもあったし、店内の貼り紙を見てその場で応募したのに「うちはもう募集していない」と言われることもあった。
週二日、数時間の働きではたいした金額にはならなかったけど、決して裕福ではない両親からの仕送りをこれ以上求めるのも心苦しい。大学のことだけでも精一杯な中、バイト探しにあまり時間をかけたくなかったので、雇ってもらえるだけありがたかった。
ある日、ユリさんという日本人の先輩とシフトが一緒になった。ユリさんはワーキングホリデーでメルボルンに来ている九歳年上の女性だった。
正直なことを言うと私は彼女が苦手だった。あんなに大きな口をあけて、あんなに大きな声で笑う女の人を私は他に知らない。
そして何かあるとやたら大げさに「Oops!(ウプス)」と叫ぶ。ネイティブがよく使う、ちょっとしたミスをしたときや驚いたときの「おっと!」みたいな意味の擬声語(ぎせいご)だ。それを聞くと、どういうわけだか私のほうが恥ずかしい気持ちになった。
それでも職場では数少ない日本人で心強かったし、話しかけられれば無視もできない。
「明日、彼の友達とかいっぱい集まって、公園でバーベキューやるんだ」
客が途切れ、店がひまになったときにユリさんが言った。
「いいですね」
あたりさわりなく受け答えると、「来れば?」と言う。
曖昧(あいまい)に言葉を濁にごしていると「おいでよ」となり、すぐに「来な」になった。
メルボルンに来てから一ヵ月が過ぎていた。なのに私は友達のひとりもできなかった。
もともと自分から積極的に人と関われるほうではない。でも留学して海外に出たら、私だって変われるんじゃないかという期待があった。
十代の頃から、自分に何ができるのか、ずっと考えていた。
英語が好きだった。だから大学も英文科に進んで、交換留学の選抜試験にチャレンジして、合格したときは本当にうれしかった。オーストラリアに行って、生きた英語を学んで、いろいろな経験をして……私は、私を見つけるのだ。そう思った。
留学関連のパンフレットや経験者のレポートを読んでいるときが一番わくわくした。メルボルンの大学に行きさえすれば私はアクティブになれて、国籍を問わずいろんな友達ができて、英語がペラペラになるのだと浅はかな希望を抱いていた。
でも、メルボルンに着いた私はまったくうまくやれなかった。薄暗い学生寮の住人たちとはことごとく気が合わなかったし、共同のキッチンやシャワールームも著しく使いづらかった。
それなら大学で向学心のある同志にめぐりあえればと望んでみたものの、居眠りやおしゃべりばかりの学生たちに囲まれて、彼らのルーズさばかりが目についた。だからといって偉そうに優等生ぶることはできなかった。自信のあった英語もここではさっぱり通じず、私はいきなり劣等生になったからだ。クラスメイトに話しかけるタイミングもわからなくて、気がつけばいつもひとりだった。
思い描いていたのとは、違った。帰りたくなくなるような楽しい留学生活を送るはずだったのに、私はもうすでに日本が恋しくてたまらなかった。
だからといってリタイアもできなかった。交換留学という制度を使っている以上、私を送り出してくれた日本の大学の信頼に関わる。よほどの事情がない限り、途中でキャンセルなんてかなわなかった。
私にとってたったひとつ、なぐさめられる点があるとすれば、期限が一年間だけと決まっていることだった。
年が明けるまで。それまで、そこまで。
時間が過ぎるのを待とう。その間にしっかり単位が取れれば、それでじゅうぶん。
ユリさんは、バーベキューが行われる公園の場所と時間、持ち物の話を始めた。私はまだ、行くとは言っていないのに。
ふと、大学の授業で週明けの課題が出ていたことを思い出す。週末の出来事をスピーチするというものだ。
公園でバーベキューをしました。
本を読みましたとか掃除をしましたとかで乗り切ろうと思っていたけど、こちらのほうが俄然(がぜん)ふさわしい。先生にも「快活な学生」として好印象に違いない。
私の気持ちがバーベキューに傾いたとたん、ユリさんが眉に力を込めたような表情で私に顔を近づけてきた。
「明るい色の服で来なよ。いつも地味なシャツばっかり着てるから暗い子って思われちゃうんだよ」
彼女のストレートな言葉は少なからず私を落ち込ませたが、それは確かにそうかもしれなかった。
それで私はバイトを終えるとショッピングモールに寄り、普段は手にしないような派手めの服を探したのだ。といっても、経済的に余裕はなかったし、大きなサイズばかりで自分に合うものはなかなか置いていなかった。三軒目でようやく見つけたのが、十ドルの赤い半袖のコットンブラウスだった。そして翌日の昼、それを着て出かけた。
気持ちのいい秋の日だった。
案内された緑豊かな広い公園には、コンロがいくつも設置されていた。私たちのほかにも食材を持ち込んで集つどっているグループが何組かいて、めいめいに好きなようにバーベキューを楽しんでいた。
ユリさんは私の顔を見ると「おー」と手を振り、そばにいたオーストラリア人の男性を恋人だと言って紹介してくれた。でも、それだけだ。あとは放っておかれた。
話しかけてくれる人が二、三人いた。でも早口でオーストラリア訛(なま)りの英語は聞き取れず、私は「Sorry?(すみません、わかりません)」とか「I beg your pardon?(もう一度言っていただけますか?)」とか、何度も訊(き)き返すことになった。それもだんだん申し訳なくなって、ただ黙って愛想笑(あいそうわら)いを浮かべていたら、そのうちひとりになってしまった。あたりまえだ。
十人ぐらいのメンバーは知らない顔ばかりだった。でもそれは私だけではなかったらしい。そこにいるそれぞれが知り合いに声をかけててきとうに集まったという感じで、どこの誰なのか、必要があればそれもまたてきとうに、そこかしこで行われる自己紹介もアバウトなものだった。それでもみんな、あっというまに仲良くなっていく。私以外は。
アイム・ブー。公園に到着してすぐ、数人の前でそれだけ言った彼が私に話しかけてきたのは、私がドリンクのおかわりをしようとしたときだ。
さかさにしたバケツの上に、箱入りのワインが置かれていた。初めて見る代物(しろもの)だった。二リットルサイズの紙パックに、プラスチックの蛇口(じゃぐち)がついている。珍しくてじっと見ていたら、背後から声がした。
「カスクワインっていうんだよ。そういうボックスタイプのやつ」
のんびりした日本語。振り返ったらブーがいた。
長い前髪が目にかかっている。耳にはピアスの輪。だぶだぶのオーバーオールの肩紐(かたひも)を片方だけ外(はず)して着ていた。だらしないのではなくて、そういうファッションなのだ。
人懐(ひとなつ)こい笑顔を見せながら彼は私の隣にやってきて、紙コップにワインを注(つ)
いだ。そして私のほうに差し出す。白いコップの円に満たされた、深みのある赤い液体。
「ありがとう」
私が受け取ると彼は自分のぶんも注ぎ、すぐにこくこくっと音をたてて飲んだ。
「うまい!」
お酒を飲んでいるには似つかわしくない、幼い表情だった。
彼が去ってしまわず隣に立っているので、私は安堵(あんど)を覚えた。 彼がそこにいることで、私の「席」ができたような気分だった。
私も紙コップに口をつけた。お酒はそんなに強いほうではないけど、ぶどうの味が濃いそれは、ふくよかな香りが心地よかった。
「金魚みたい」
フリル袖の赤いブラウスを着ている私を見て、ブーはそう言った。
「こんな感じの金魚、子どものころ絵本で見たな。丸いガラス鉢(ばち)の中にいるの」
褒(ほ)められているのかバカにされているのかよくわからず、私は曖昧な笑みを浮かべた。こういうときに上手に返せない自分が歯がゆかった。
それでも、はりつめていた気持ちが勝手にゆるんでいく。私を落ち着かせる日本語に。「金魚」という慣れ親しんだ言葉に。
ブーに促(うなが)され、私たちは紙コップを手にベンチへ移動した。
そして並んでゆっくりワインを飲みながら、お互い少しずつ自分たちのことを話した。
彼が日本からオーストラリアに来たのは、一歳のときらしい。画商であるご両親が永住権を取り、ブーはそれからずっとメルボルンで育ったのだ。日本での暮らしはもちろん覚えていないし、物心ついてからは行ったことがないと言っていた。今はデザインスクールに通っていて、グラフィックの勉強をしているという。
私がブーと同じ年齢で、交換留学で来たばかりだと知ると彼は、「ビクトリア国立美術館は行った?」と言った。まだ、と答えると、矢継早(やつぎばや)にスポットが出てくる。博物館、動物園、植物園。どれもまだだった。
「行かなきゃ。案内するよ」
そこにポニーテールの女の子が通りかかり、「あっ、ブーだ」と日本語で言った。髪の毛を一束だけ、黄色に染めている。
「なにナンパしてんの。相変わらずチャラいなあ」
女の子は笑いながら、ブーの頬に手の甲をぺちっとあてた。ブーは動じず、おどけた口調で言う。
「邪魔するのやめてくださーい。今、きれいなお姉さんと飲んでるんで」
そんな軽口(かるくち)がすんなりと出てくるフランクさを、私は心底うらやましいと思った。
彼にはたくさん友達がいるだろう。誰とでも、どんな会話でも、相手に合わせてぽんぽんとうまくこなす。それは才能だ。私はそういうものを、ひとしずくも持っていない。
ポニーテールの女の子は、初めて私のほうを見た。
「この人、手が早いから気を付けたほうがいいよ」
そう言って彼女は唇くちびるの端を上げた。でも、目がぜんぜん笑っていなかった。そして次の瞬間、私なんかそこにいないみたいに、ブーに身を寄せてささやいた。
「来週までに、また飲みに行こうよ」
「うん。いいとき連絡して」
ブーはそれだけ答え、片手を挙げた。彼女も同様に、手を振るようにして去っていく。
その背を見送り、ブーがにこにこと言った。
「あの子ね、三ヵ月の短期留学で来てるの。来週、ビザが切れるんだって」
「そうなんだ」
「日本人の若い子、けっこうひっきりなしに来るよね。留学とか、ワーホリとか」
私は特に返事をせず、ワインを一口飲んだ。
気候が良くて親日家も多いオーストラリアは、渡航先として人気がある。私の通う日本の大学も、メルボルンに姉妹校があることをかなり売りにしていた。私だって、過ごしやすい環境を見込んで選抜試験を受けたのだ。
コンロでは、ユリさんが恋人とふたりで大きなソーセージを焼いていた。身振り手振りで何か言い合って、げらげらと笑っている。
芝生(しばふ)に寝転んでいる人、持参したフリスビーを投げ合う人。肉の焦(こ)げるにおい、樹々を渡って吹いてくる風。見上げれば、空が抜けるように青い。
「わあ、ちょっとマジで、やばいって」。ハイトーンの日本語が聞こえてくる。さっきのポニーテールの女の子がブロンドの髪の男性の腕にぶらさがり、大声ではしゃいでいた。
ワインがまわっているのか、私はなんだかぼやんとしながら、目の前に広がる平和な光景を眺めた。
「竜う宮城(りゅうぐうじょう)なんだ」
突然、ブーの乾いた声が耳に飛び込んできた。私は目覚ましのアラームを聞いたようにハッとした。
「ここを竜宮城だと思ってるんだ、みんな」
抑揚(よくよう)のない言い方だった。さっきまで無邪気(むじゃき)に笑っていたのに、そのときの彼はすっかり表情をなくしていて、なんだかちょっとだけこわかった。私がガラス鉢の金魚だというのなら、彼は深海に住むさびしい魚みたいだった。
「みんなって、誰?」
私の質問には答えず、彼は淡々と続けた。
「何人も見てきたよ。現実の世界だなんて思ってないんだ。そうして帰っていくんだ」
怒っているのでも、悲しんでいるのでもなかった。
彼はただ、あきらめているのだった。
でもブーはコップの中のワインを飲み干すととたんに陽気になり、それ以降はご機嫌な笑顔しか見せなかった。さっきのあれはなんだったんだろう、というぐらいに。
そして帰り際、メモ用紙にさらさらと電話番号を書きつけ、「いいとき連絡して」と渡してきた。
さっきもそうだったなと思った。いいとき連絡して。あの女の子に彼はそう言っていた。それがブーのスタンスなのだ。選択権は相手にゆだねる。そしてきっと、自分に向けられた誘いを彼は決して拒(こば)まない。
私の連絡先は伝えなかった。訊かれなかったからだ。
そこから私は、手帳に挟んだそのメモ用紙の存在を忘れていた。しばらくして、学校でビクトリア国立美術館の割引券が配布されたときに思い出したのだ。
美術館自体は入場無料で、特設会場にだけ少し料金がかかるらしい。私は美術に詳しいわけじゃないけど、ちょうどそのとき、アンティークのテーブルウェアが特別展示されると知って興味を持った。
チケットは、三名まで割引有効となっていた。私は手帳から取り出した半分折りのメモ用紙を開き、そこに書かれた電話番号を見た。
「この人、手が早いから気を付けたほうがいいよ」
ポニーテールの女の子の言葉が、今さらになって頭をよぎった。
バーベキューの場では、ぽつんとひとりになった心もとなさから、彼がいてくれることにほっとしたのは否(いな)めない。でもたしかに、彼はこうやっていろんな女の子に電話番号をばらまいているんだろう。私が電話をかけたらきっと「俺に気があるんだ」って思われるんだろう。
別に、美術館なんてひとりで行けばいい。
私はメモ用紙を畳たたんだ。そしてもう一度手帳に挟もうとして、手が止まった。
「竜宮城なんだ」と言った彼の声、つめたい瞳が、突然浮かんできたのだ。
ふたたびメモ用紙を開く。すべらかな筆跡をじっと見ながら、私はしばらく逡巡(しゅんじゅん)した。
――――友達を。
そう、友達をつくるのだ。
メルボルンの街にあかるくて、英語が堪たん能のうで、軽くお茶したり、雑談も相談もできる友達。年が明けるまでの間、彼ならそんな友達になってくれるかもしれない。
バーベキューの日から、二週間が経(た)っていた。
その週末、ビクトリア国立美術館のエントランスで私はブーと待ち合わせした。十五分早く着いたのに彼はもう来ていて、入り口脇の噴水の縁(へり)に座っていた。そして私が近づいていくと、立ち上がる様子もなくへろっと笑い、「早いね!」と言った。
私はまた、あの赤いブラウスを着て行った。彼が私の顔を覚えていないんじゃないかと思ったからだ。
「赤、好きなの?」
噴水の縁から腰を上げ、ブーが言った。私は「うん」と嘘うそをつく。これ一着しか持っていないくせに。
たくさんの人が館の中に入っていく。背の高さや体つき、髪の色も肌の色もいろいろだった。ドーム型にデザインされた半円のエントランスは、人々を吞(の)みこんでいく巨大な口みたいに見えた。
美術館の中はあまりにも広すぎて、一日では見切れないほどだった。二時間ほど回った後、ブーは「休憩(きゅうけい)」と言ってカフェスペースに連れて行ってくれた。売り場でめいめいに食べ物を買い、空(あ)いているテーブル席までトレイで運ぶ。
「あれ、間違ってる」
ブーがトレイの端にある小銭を見て言った。おつりを受け取ったとき、手がふさがっていたのでトレイに置いたのだろう。
「俺、ちょっと行ってくるわ」
売り場に足を向けたブーに「足りなかったの?」と声をかけると、彼は少し振り返って笑った。
「ううん、十セント多くもらっちゃってる」
十セント。十円にも満たない金額を返しに行った彼は、席に戻ってくると大きなフィッシュフライをみるみるたいらげた。盛大な量のチップス(フライドポテト)も、ひとかけらも残さなかった。手を付けたものは絶対に残さないというポリシーのようだった。
コーラを飲んでしまうとブーは席を立った。
「もう一杯、飲み物買ってくる。何かいる?」
「じゃあ、アップルサイダー」
うなずいて去っていくブーの背中が、ざわざわした人混みにまぎれていく。
でもそれからブーは、なかなか戻ってこなかった。十五分経ったころ、さすがに心配になってテーブルにトレイを置いたまま様子を見に行くと、アイスクリーム売り場の前で日本人らしき女の子と楽しそうにしゃべっている姿が目に留(と)まった。
脱力。心配して損した。私はちょっと息を吐(は)き、席に戻った。
手持ちぶさたになり、バッグの中を探る。ハンカチや財布、リップクリームの他には、手帳ぐらいしかない。本でも持ってくればよかった。
テーブルに置かれた、筒に押し込められているペーパーナプキン。私はそれを取り出すと、一度三角に折って余った部分を切り、正方形を作った。
とりあえず、鶴を折る。
ブーは戻ってこない。
また正方形を作り、今度はかぶとにする。
ブーは戻ってこない。
失礼なやつ。こんなとこでこんなに人を待たせて、やっぱりチャラいやつ。
帰ろうかな、と思った。なのに、私の手はどんどんペーパーナプキンに伸びてゆき、正方形を作り、思い出せるだけの折り紙作品を生み出していった。
アサガオ。カエル。キツネ。手裏剣(しゅりけん)。風船。
「ごめん!」
ブーが、走ってくる。
そして両手にドリンクを持ったままの状態で「わっ、すげえ!」と叫んだ。
「うまいね、折り紙。ばあちゃんみたい」
…………ばあちゃん。
金魚の次は、ばあちゃんだった。
私が無言でいると、ブーは私の隣に座り、テーブルの端にドリンクを置いた。カエルを手に取り、まじまじと見る。
「これ、どうやって作るの?」
目をきらきらさせている。なんだかうまくはぐらかされている。私は不愛想(ぶあいそう)に「簡単だよ」とペーパーナプキンをまた一枚取り、正方形を作るところからブーに教えた。ブーは興味深そうに私をまねる。
「五歳のとき、日本から一度だけ、ばあちゃんが来たことがあったんだ。嬉しかったなあ。折り紙とか日本の絵本とかいっぱい持ってきてくれて、こうやっていろんなの作って遊んでもらった。俺、それから日本語の本を読むようになったんだよな。八月でさ、日本は真夏だけどこっちは真冬だから、ばあちゃん、不思議だねえってすごくびっくりしてた」
折って、引き出して、畳んで。
テーブルの上で、一枚の平面が立体になっていく。
ぱっと何か思い出したように、「あ」と言いながらブーは私のブラウスを指さした。
「そのときに金魚の絵本、見たんだ。ばあちゃんが持ってきてくれたやつ」
私が「そうなんだ」とそっけなく相あい槌づちを打ちながら手を動かしていると、ブーはへへっと笑って言った。
「かわいいよね、赤い金魚」
またそんな無邪気な顔して。
くすぶっていた感情がうっかり消えそうになった。なんだか腹が立つ。私は笑い返したりしない。
折って。ひっくりかえして、また折って。
「できたー、うわー」
ブーは声を上げながらカエルを持ち上げた。どうやったらそうなるのか、ブーが作ったそれは丸っこくてずいぶんと小さかった。
私の作ったカエルの横にそれを並べるとブーは、
「子どもだ」
と、嬉しそうに言った。
「……え、それは変じゃない? カエルの子どもは、おたまじゃくしでしょ」
「あ、そっか!」
ブーは大爆笑している。私が冷めた口調で言ったのがよけいにおかしかったようで、いつまでも笑いが止まらないらしかった。つられて私も吹き出してしまい、まったく、本当にずるすぎる。
笑いがおさまってくると、ブーは今ごろになって「待たせてごめんね」と言った。
「財布なくしたっていう日本人がいたから。一緒に探してた」
私は答えず、アップルサイダーを一口飲む。知り合いじゃなかったのか。
「信じられないよな。観光客らしいけど、席を取るのに、テーブルに財布置くんだぜ。どれだけのんきさんなんだよ。メルボルンがそこまで治安がいいと思ってんのかな」
私はうなずく。
「よくないよね。寮の冷蔵庫の治安、最悪」
「冷蔵庫?」
「私のハムとか卵とか、しょっちゅう勝手に食べられちゃう。ちゃんと名前書いてるのに、本当に許せない」
ブーはまた大笑いし始めた。私は笑えるようなことなんて何も言ってないのに。
「いいなあ。いい」
ブーは満面の笑みで、うんうん、と大きくうなずいた。
なんだか彼といると、自分が楽しいことを話せているんじゃないかという気持ちにさせられた。それは彼の「手」なのかもしれないけど。
私は恥ずかしさも嬉しさもごまかしたくて、まじめな顔で訊(たず)ねる。
「それで、お財布は見つかったの?」
「うん、見つかった見つかった。置いたテーブルを間違えてたっていうオチ」
「よかったね」
「よかった」
ブーはコーラをちゅうっと吸い上げ、カエルの「子ども」で遊び始めた。
その日の帰り、次に会う約束をした。次に会った帰りには、またその次の。
メルボルンに来たからには押さえておくべきスポットが、いくつもあったからだ。彼はナビゲーターとしてすごく優秀だったし、私の英語のささいな間違いもそのつどわかりやすく訂正してくれた。
ブーと一緒にいることが、次に会う約束をすることが、なんとなく自然になっていった。そして会っていないときに、彼を思い出すことが増えていた。
彼は女の子の扱いに長(た)けていて、エスコートされてちょっといい気分にさせられたのは否定できない。だけど私を最も捉とらえていたのは、出会ったあの日、「竜宮城なんだ」と言った彼の冷ややかな瞳と声だったと思う。彼の軽妙さに触れるにつれ、逆に強く甦(よみがえ)ってくる情景だった。そしてそれが胸の奥に釣り針みたいに複雑に刺さって取れないまま、容赦(ようしゃ)なく私を引っ搔(か)いてくるのだった。
いやだな、と思った。
私は彼を、異性として意識しはじめていた。
仕掛けられた罠(わな)に自分から飛び込んだようなものなのに、まったく不本意だった。彼が私に声をかけたのは気まぐれに過ぎず、不特定多数の女の子に同じように振る舞っているだろう。だいいち、私は一年もしないうちに帰らなくてはならない。
「俺、レイのこと好きだよ。一緒にいたい」
三度目に会った帰り道、寮まで送ってくれた彼にそう言われたとき、だからすぐには何も答えられなかった。どう受け止めようか、どう返そうか。
始まれば終わる。
私がいつも怖いのは、終わりになることじゃなくて、終わりになるんじゃないかと不安になるあのぞわぞわとした時間だ。相手に対して猜疑心(さいぎしん)がめばえたり、知らないことが増えたり、わかってくれていると思っていたことがぜんぜん見当はずれだったり。そのころにはもう、どちらかが熱くて必死で、どちらかが冷めてしらけている。
どちらの立場になっても、私はいつも自分から先に手を放してしまう。持っていられないのだ。熱すぎるものも、冷たすぎるものも。
口にすべき言葉を探し当てられずに私が黙っている間、ブーは神妙な顔つきをしていた。そして突然、クイズの答えがわかったみたいな調子で、人差し指を立てた。
「あのさ、期限つきっていうのは、どう?」
私はぽかんとして、三秒ほどしてようやく「期限つき?」と声を漏(も)らした。
「うん。レイが日本に帰る日までの期間限定で。帰国してからも続けようなんて野暮(やぼ)ったいこと言わないよ。別れるときになってべそべそ泣くなんてダサいこと、しないから」
ブーは明るく言った。
期間限定?
まず驚いて、すぐに納得した。ああ、そういうことが簡単にできてしまう人なんだ。遠距離恋愛は彼にとって野暮ったくて、別れるときに泣くのはダサいことなんだ。
私が竜宮城で遊んで帰っていくのだから自分だって割り切って楽しもうって、そういうことなのだろう。私はその程度にしか思われていないのだ。軽んじられている。好きだと言われてちょっとでも嬉しいなんて思ってしまって、どうしようなんて戸惑(とまど)ってしまって、ばかみたい。その憤(いきどお)りの感情が高ぶる前に―――――なんだか、ほっとした。
今、終わったと思ったから。始まる前に。
私は淡々と答えた。
「いいよ。期間限定なら」
もう怯(おび)えなくていいのだ。この恋はいつ終わってしまうのだろうなんて。
年が明けるまで。それまで、そこまで。私が留学生じゃなくなるまで。
ブーはちょっとだけ呼吸を止めるような表情をしたあと、すぐにニッと笑った。
「やった。じゃ、そういうことでスタート」
大きく腕を広げ、ブーは私をきゅっと抱きしめた。
私はされるがまま、ぼんやりと肩越しの空を見る。
エンドマークの位置が決まっている関係。上映終了時刻がわかっている映画みたいに。
それならたぶん、お互いに熱すぎず冷たすぎず、持っていられる。
そのときの私には、それがちょうどいい温度のような気がしたのだ。
◇
ジャックは画用紙と私を交互に見ながら、イーゼルの前で指をすべらすような所作(しょさ)をした。そして鉛筆よりもうんと細い真っ黒なスティックを、私に向けて縦にしたり横にしたりしている。
「絵を描く前に、いろんなことするのね」
私は斜めに座ったまま、目だけジャックに向けて笑った。
「構図を考えてるんだ。君をどれくらいの大きさに、どんなふうに紙にのせようかって。実際に描く前に、イメージの中で遊ぶのが好きなんだ」
ジャックはそう言ったあと、ちょっと苦笑して続けた。
「たぶん、このときが一番、頭の中で完かん璧ぺきな傑けつ作さくが出来上がってる」
まだ描かれていない、イメージの中の作品が完璧な傑作。
私の留学もそうだったかもしれない。日本から出発する前の、どきどきしながら思い浮かべていた夢想(むそう)こそが、完璧なメルボルン生活。私も苦笑しそうになったところで、ジャックが続けた。
「でもね、描いているうちに、自分でも予想できないことが起きるんだ。筆が勝手に動いたり、偶発的な芸術が生まれたり。思ったとおりにすらすら描けたらそりゃあ気持ちいいだろうけど、どちらかというとそっちのほうがおもしろくて、絵を描くことがやめられない。たとえ完璧じゃなくても」
私は思わず、顔ごとジャックのほうに向けた。彼の言葉が、猫が着地するみたいにすとんと胸の奥に降りてきたからだ。でもその猫の正体を、私はうまく解き明かすことができなかった。ジャックは片目を閉じ、垂直にしたスティックをぴっと私に合わせる。
「エスキースは、そのとっかかりでね。何をどんなふうに表現したいのか、自分の中にある漠然(ばくぜん)としたものを描きとめて、少し具体的にするんだ。本番じゃないから、誰に見せるわけでもないし何度描き直したっていい。自由なところがすごくいい」
ジャックはゆっくりとそう言い、カッターナイフを取り出した。スティックの先にそっと刃(は)をあてていく。
「それは、何?」
私が訊ねると、ジャックは刃から目をそらさずに「木炭だよ」と答えた。
「枝を拾ってきて、自分で作ってるんだ」
「すごい、自分で作れるなんて」
素直な驚きだったが、ジャックは笑って首を振った。
「鉛筆一本も貴重なぐらい、貧乏なだけだよ。思う存分、たくさんたくさん絵を描きたいから」
*
四月、五月と秋が過ぎていった。ブーはいつでも同じように明るいテンションで、彼のほうから誘いをかけてくれた。私はそれに乗ればよかった。彼と一緒に過ごすようになってから、見える景色がどんどん変わっていくのを私は不思議な想いで眺めていた。
メルボルンは街全体が芸術的だった。立ち並ぶ英国調の建物、レトロなトラム(路面電車)、ストリートアーティストが描いたウォールアート。来たときと同じもののはずなのに、モノトーンがかっていたその風景がしだいに色彩を帯びてきた。それまでの私は、下ばかり見ていたのかもしれない。
日本語で愚痴(ぐち)を言える相手としても、ブーの存在は貴重だった。彼とつきあい始めてからも私は、相変わらず大学やバイト先で起きたささいなことを気にしては落ち込んでいた。いやだなと思っても口にできなかったり、周囲の勢いについ呑みこまれてしまう自分の弱さを嘆いていると、ブーはふざけた返事ばかりして笑い飛ばしてくれた。そして、こう言うのだ。
「堂々としていればいいんだ。俺はレイの気高(けだか)い生命力を知ってるよ」
そういう言い方で、私を肯定してくれる人は初めてだった。
最初、照れ隠しに「意味がわからない。生きる力に気高いとかあるの?」と笑ったら、彼は真剣な顔で言った。
「生命力って、生きる力じゃなくて、生きようとする力のことだよ。レイが持ってるその力は、媚(こ)びがなくて清潔だ。俺はそれを感じる」
正直なことを言えば、私にはそれもやっぱり意味がよくわからなかった。だけどなんだかすごく特別な褒め言葉で、心のうちでは嬉しかった。
私は少しずつ、萎縮(いしゅく)しがちな自分から解放されていった。私はもしかしたら、ブーの言うように「気高い生命力」を持っているのかもしれない。だから大丈夫なのだ。
クラスに仲良しの子ができたり、寮で言いたいことがはっきり言えるようになったりしたのは、間違いなくブーのおかげだった。たとえ周囲と多少の齟齬(そご)が起きたとしても、私にはブーがいると思うと勇気が出た。
彼のどこが好きかと訊かれたら、私はまっさきに「親指」と答える。
ブーは私と手をつないでいるとき、絡(から)めた指から親指だけ少し離して、その腹でそっと私の手を撫(な)でる癖(くせ)があった。私はそのしぐさがとても好きだった。ただ無条件にかわいがられている猫みたいな気持ちになった。
ブーの親指の先はスクエアな形をしていて、短く切りそろえられた爪はいつも健康的な優しい色だった。彼が何かを取るときに手を伸ばすとその親指は、ごつっとした関節から手首にかけて筋を作る。ぴんと張られたその隆りゆう起きは力強くて、彼のそばにいれば怖いことはなにひとつ起こらないように思えた。
日本にいるときはきっとしないことを、私はたくさんした。
ボリューミーなつけまつげを装着すること、ばかでかいサングラスを頭に載せること。
パブで踊り出した他の客にのせられて、一緒になって腰を揺らすこと。
横断歩道の前で信号待ちするときに、ブーと軽くキスをかわすこと。
八月、つめたい冬の日に、ユリさんが帰国すると聞いた。
ワーキングホリデーのビザが切れるらしかった。彼女はとっくに免税店を辞めていたのでバイトで一緒になることはなかったけど、「もうすぐ帰るから、いらないものあげる」と言って連絡をくれたのだ。「いらないならもらいます」と私は答えて、カフェで久しぶりにユリさんと会った。
私が店に入っていくと、彼女は一番奥のテーブル席に座って煙草(タバコ)を吸っていた。私を認め、軽く手を上げて灰皿に煙草を押し付ける。
「お待たせしました」
ユリさんの前に腰を下ろした私に、彼女はちょっと目を細めた。
「なんか、あか抜けたね」
「そうですか?」
私はコートを脱いで椅子の背もたれにかけた。
さっそく、紙袋が手渡される。中には、小型のラジオと文庫本数冊、紫蘇(しそ)のふりかけやインスタント味噌汁(みそしる)などが入っていた。
お互いの軽い近況報告をしたあと、ユリさんはくわあっと大きな口を開けて言った。
「あー、楽しかったなあ、オーストラリア」
さびしそうでもあり、どこかすっきりした顔だった。彼女は夢みたいな世界を存分に楽しんで、現実に帰っていくのだ。ほんのちょっぴり、ブーの気持ちがわかるような気がした。私はぽつんと訊ねる。
「………竜宮城みたいに?」
彼女は「ええ?」と首をかしげた。
「どうだろ。そもそも、亀なんか助けてないからねぇ」
「あの、ユリさんは彼とは……」
私がおずおずと切り出すと、ユリさんはカラカラと笑った。
「何も決めてない。なるようにしかならないわよ」
コーヒーに口をつけ、カップを持ったまま彼女は私の顔をのぞきこんだ。
「恋愛相談なら聞くわよ」
ぎくりとしたが、私は平静を装って髪の毛の先をいじる。
「私じゃなくて、友達の話なんですけど。帰国するまでの期間限定のつきあいとか、どう思います?」
それを聞いたユリさんは大げさに笑いながら音を立ててカップを皿に置き、はずみでこぼれたコーヒーを見て「Oops!(ウプス)」と叫んだ。久しぶりに聞いた。嫌悪感(けんおかん)よりもおかしさがこみあげてきて、思わず私も笑ってしまった。
「期間限定ねえ。季節のメニューみたい。桃とかメロンとか、栗のデザート。いいんじゃない? 限定品って思うとありがたみが増して、いっそう甘く感じるわよ」
そう言ってユリさんは、また大声で笑った。私はその声にかき消されそうなぐらい小さく、ひとりごとのように彼女に訊ねた。
「季節が過ぎれば手に入らないなら、そのときだけしっかり楽しむっていうのも、アリですよね」
アリだろうね、と言ってユリさんは頬杖をついた。
「でもそれは、恋みたいなもの、よ」
みたいなもの?
顔を傾けた私に、彼女は続ける。
「よく恋に落ちるって言い方するけど、私はあれ、来るんだと思うね」
「来る、ですか」
「うん。勝手に来る。うわーっ、来た!ってこともあるし、気がついたらいたのねってこともある。来るのは彼じゃないんだよ、恋なの。不可抗力に、彼じゃなくて恋に振り回されるのよ」
ユリさんはテーブルに置いてあった煙草の箱から新しく一本取り出し、火をつけた。
「だから、隣に彼がいても恋が去っていたらおしまい。逆に彼がいなくなっても、恋がここにいる限りは終わらない」
だとしたら……。
だとしたら、ふたりの間で期限なんか決めたって仕方ないってこと?
「まあでも、誰でも玉手箱を持ってるものなんじゃない? ただ、玉手箱を開けたらあっというまに老人になるっていうのは違うと思うの。そうじゃなくて、箱を開いて過去をしみじみ懐かしんでいるときに、自分が年を取ったことを知るのよ、きっと」
煙草の先から、けむりが立ちのぼっている。
「そのときに年を重ねた自分のことを悲しく思わないで、誇りを持てるように私はなりたいの。あの頃はよかったなあって嘆くんじゃなくて、箱の中にいる若い私にちゃんと胸が張れるように」
私はハッと彼女を見る。すべてにおいて積極的なユリさん。一瞬一瞬を大げさなくらい楽しんで味わっているユリさん。その姿勢を初めて理解できた気がした。ユリさんはおいしそうに煙草を吸ったあと、私にほほえみかけた。
「お友達に伝えて。どこにいても何をしていても、いつの世でも、人のやることは同じよ。食べて眠って起きて、好きになったり嫌いになったりするのよ」
◇
ジャックは木炭の先端をカッターナイフで斜めに削り、平たく尖とがった「画材」を作り上げた。新聞紙の上にこぼれおちた木屑(きくず)は、砂鉄みたいな黒い粉になった。すぐそばのチェストに、彼は慎重に新聞紙を置く。
「描いていくよ」
ジャックが言うと、ブーがぱっと顔を上げた。広げていた画集を閉じ、ジャックの隣に歩み寄る。
立ったままイーゼルのほうにかがみこみ、ブーはジャックの手元を凝ぎよう視しした。画家が絵を描く姿に、興味津々(きょうみしんしん)のようだった。
私からは、画用紙は見えない。ジャックの腕の動きから、木炭の先で線を引いたり、寝かせて塗り込んだりしているのだろうという想像はできた。もっとも私は彼から視線を少しずらしていたので、それはなんとなく視界に入ってくる動きから感じたことだ。
ジャックは時折、直接画用紙を指でたたいたり、さっき削った木炭の粉をちょっとすくってこすりつけたりしていた。ブーがそのたびに「へえ」とか「おお」とか言うので、私は画用紙でどんなことが繰り広げられているのかすごく知りたかった。なにしろ、私が描かれているのだ。
「ねえ、私も見たいんだけど」
私が言うと、ジャックではなくブーがぴしりと制した。
「だめ。これはまだ、レイに知られてはいけない」
「ブーは見てるじゃない。ずるい」
「第三者はいいんだ。でも、ジャックにとってレイがどんなふうに映りだしたか、その過程は本人には見せられないよ。今、想いをこっそり育ててるとこだから、相手に知られたら余計な感情が出てきて違うものになっちゃう」
「なによ、それ。わかったようなこと言って」
私は見るのをあきらめて黙った。
少しの間、誰もが無口になる。シンとした部屋で、木炭が紙をこするかさかさという音だけが、小気味よく響いていた。
*
ブーとケンカしたのは一度きりだ。思い出してもいやになるほどくだらないことで。
十月に入って、風がやわらぐ春の頃だった。
サンドイッチを持って、植物園にピクニックに行った。広大な敷地にはたくさんの植物があふれ、見渡す限りの芝生が清々(すがすが)しい。私たちは少し散歩したあと、ランチを広げるのにちょうどよさそうな木陰(こかげ)を探して座った。
ぽかぽかと陽気な天気だったのに、私は気分がすぐれなかった。いろんなことが重なっていた。大学の教授に他の学生と間違われて遅刻を注意されたこと、寮に新しく入ってきたドイツ人のドアの開け閉めがうるさいこと、課題のレポートが難しすぎること、それらによって寝不足だったこと。
ブーに対しても、少し苛立(いらだ)っていた。彼は時々、ワライカワセミのものまねを突然やりだすことがあって、私はそれがあまり好きではなかった。ワライカワセミはオーストラリアにいる鳥で、美しい青色のカワセミと違ってずんぐりむっくりで茶色っぽい。その愛あい嬌きようのある体をふるわせ、ケラケラケラッと豪快に鳴く。それが人の笑い声に似ているのだ。私にとってはなんとなく心をざわつかせる発声だった。何度か「それ、いやだな」とやんわり伝えたのだが、その日も芝生に寝転がったとたんにまた始まって、私は一気に滅入(めい)ってしまった。
ブーが機嫌良さそうに目を閉じたので、私は隣に座って文庫本を読み始めた。ユリさんがくれたうちの一冊で、数年前に発行された日本人作家のミステリーだった。
しばらくしてブーが起き上がり、ペットボトルのコーラを飲んだ。私も本を閉じて自分の脇に置き、「サンドイッチ食べる?」と訊いた。
ブーはそれに答える前に、本を手に取りとんでもないことを言った。
「これ、実はふたりが同一人物だってびっくりしたよね」
あろうことか、それは私がまだたどりついていないトリックだった。ブーはもうこの本を読み終わっていたらしい。私は息ができないぐらいに激しく怒鳴(どな)った。
「なんで言っちゃうのよ! 楽しみに読んでたのに!」
ブーは「えっ」とのけぞり、すぐに両手をあわせて謝ってきた。
「ごめんごめん、今読み終わって閉じたのかと思って」
「ブーが寝ちゃうから仕方なく本読んでたんでしょ? 起きたから読むのやめて話しかけたんじゃない」
「だって植物園には、くつろぎに来たんだし。でもこの小説、それ以外にもびっくりなラストとかあるからさ」
へろへろと笑っているブーに、よけいに腹が立った。
「もういいよ、読まない。先がわかってたらぜんぜんおもしろくない」
私は本をバッグにしまった。ブーは困ったような笑いを浮かべてまたコーラを飲んでいる。私は噴き出してくる苛立ちをブーにぶつけた。
「だいたい、いつもマイペースすぎるよ。人のことぜんぜん考えないで自分勝手だよ」
ブーがぐっと声をつまらせる。
「……そうかな」
言いすぎた、と、ちらっと思った。でももう止まらなかった。
「ワライカワセミのまねだって、私はあれ、嫌いって言ってるのに」
「えっ、そんなにいやだったの? なんで」
やっぱり、ちゃんと通じていなかった。私は投げつけるみたいに言った。
「人をばかにしたような笑い声だからよ! 調子ばっかり良くて無神経な」
ブーの瞳が揺れた。
「してないよ、ばかになんて」
不穏(ふおん)な空気になったことにひるんで、私はブーから目をそらす。
「ブーが、とは言ってないじゃない。ワライカワセミの話でしょ」
ブーは体育座りをした膝ひざの間に頭を入れた。黙り込んで何か考えている。
そこにいることが、苦しくてたまらなかった。私はバッグをつかんで、立ち上がる。
そして逃げてしまった。ブーから。
植物園の中をぐるぐると歩いた。いろんな感情がいっしょくたになって、心の端々(はしばし)をねじってくる。ブーが悪いんだ。いつもいつも、へらへらして。
だけど、何を言っても笑って聞き流してくれるブーに甘えている自分にも気づいていた。私があそこまで感情をむき出しにできる相手は、他にいない。
どうなるのかとわくわくしながら読んでいたミステリー。先がわからないからおもしろいなんて、他
他人事(ひとごと)だからだ。私はそんなにタフじゃない。自分のことは不安でたまらない。ああ、やっぱりこんなめんどうくさいもの、持っていられない。私は勉強をしにメルボルンへ来たのに。
期限なんか設(もう)けたって当然、その前に終了することもあるのだ。ここまで続いてきたのはむしろ、けっこううまくやってこれたのかもしれない。
どうせ終わる関係だったんだ。あと三ヵ月で。
もういいや、と思った次の瞬間、足が止まった。
その残り三ヵ月を、私はブーなしで過ごせるだろうか。そう考えたら、得体の知れない恐怖がひたひたと襲ってきた。なんだろう、この感情は。
きっと私は、彼がいないと「不便だ」と思っているのだ。「都合が悪い」って。
私は両手で顔を覆(おお)う。ずるい。ブーのことをいつもずるいと思うけど、私こそ本当にずるい。もう私は、この暮らしの中にブーがいないなんて耐えられそうにない。
やっぱり私にとっても、ここは竜宮城なのかもしれなかった。
どうせ終わるなら。
どうせ終わるなら、期限まで……。
醜(みにく)い弱さを抱(かか)えた体が勝手に動いて、走っていた。もういないかもしれないブーのところに。
ブーは、樹の根元に座り込んでいた。私の姿を見るとあからさまにほっとした顔をして、そのことが私を安堵させた。
「ごめん」
「俺もごめん」
私は息を切らせながらブーの隣にしゃがみこむ。
彼の手元には、メモ用紙で作られた小さなカエルがいた。戻ってくるかわからない私を待って、折り紙をしていたなんて。
思わず笑みをこぼすと、ブーもいつもみたいにへへっと笑って、こう言った。
「カエルはすごいな。水の中にも陸の上にも行けるんだよ」
彼の穏やかな物言いに、その言葉に託された意味に、ぎゅっと胸がしめつけられる。
ぴょん、と言ってブーは、カエルを宙に跳(は)ねさせた。カエルはたいして遠くまで行けないまま、芝生の上でひっくりかえっている。
◇
木炭をチェストに置くと、ジャックは真っ黒な指先を布で拭ぬぐいながら言った。
「絵の具の準備をするから、ちょっと休憩してて」
デッサンは終わったらしい。私はふっと体の力を抜く。
「なにか飲む?」
ジャックが冷蔵庫の前で、私とブーと両方に目配(めくば)せをする。
「俺、やるよ」
ブーが冷蔵庫の中をのぞきこみ、ペプシコーラのペットボトルを取り出した。狭いキッチンに向かい、コップに三人ぶんのコーラを注いでそれぞれに配った。彼は案外、そういうことが好きなのだ。
ジャックはジャムの空き瓶に水を入れてくると、チェストの上にそっと置いた。その隣に画材を並べ始める。水彩絵の具のチューブ、筆、絵の具で汚れたタオル。
タオルは何度も使っているのだろう。いろいろな色がいろいろな形でついていた。
きっと意図もされずにカラフルな模様を作っているそれは、そのものがひとつの芸術作品みたいだった。ジャックの言うところの、「偶発的な」。
*
年越しのとき、ブーが少し値の張るホテルをとってくれた。
それまで何度か行った小旅行のときのようなバックパッカーやB&B(朝食とベッド付きの宿泊施設)ではなく、クラシックでかわいらしい七階建てのホテルだった。
ロビーで受け付けを済ませると、最上階の部屋に案内された。七〇七号室。
部屋のドアを開けるとすぐに、ブーはベッドにぽーんと倒れ込んだ。
「おおー! まさにセブンス・ヘブン!」
嬉しそうにそう叫び、彼はくるっと顔だけ私のほうに向ける。
「……って、知ってる?」
セブンス・ヘブン? なんだったっけ。私がちょっと考えていると、ブーはあおむけになった。
「すっげえ幸せ!って意味だよ。スラングというか、イディオム?」
私は「へえ」と答えて窓の外を見た。ブーは歌うみたいに楽しげに続ける。
「天国には七つの階層があってね、その最上階のことなんだ。そこには神様が住んでるんだって」
真昼の暑さが引いてきた夕暮れの中、地上では小さな人間たちがくるくると動いていた。車も自転車も犬も、おもちゃみたいに見える。
ブーが天井(てんじょう)を見ながら、ぽつんと言った。
「どんなとこなんだろうな、最上階の天国って」
私はベッドの縁に腰を下ろす。そして、うーん、と思いめぐらせて答えた。
「一階とか二階のあたりって、実は最上階よりも幸せだったりするのかも。すっごい幸せより、ちょっぴり幸せぐらいが、もしかしたらいいのかも」
ブーはまばたきをして私を見たあと、感心したように笑った。
「欲がないなあ、レイは」
違う。私はきっと、ブーよりもずっと強欲(ごうよく)だ。傷つかないで、自分も悪者にならないで、ただ平穏無事でいたいのだ。
たくさんじゃなくていい。
少しでいい。幸せって思えることを大切に愛(め)でるには。
「神様のいるような恐れ多いところじゃ、落ち着かない」
私はそう言い、ブーの隣に横たわる。ブーは私の頭の下に腕を差し入れた。
「レイは将来、どうするの」
びっくりして、一瞬、聞き違えたかと思った。彼が私と未来のことを話すなんて、ほとんどないことだった。私は思っているまま答える。
「…………まだ、はっきり決めてない。ただ英語を使う仕事ができたらなって。留学はしたけど卒業できなきゃ意味ないから、これからいろいろ考える」
ふうん、とブーは息をもらす。私も訊いてもいいような気がして、「ブーは?」と返す。
「俺もわかんない。メルボルンで親の仕事をのちのち手伝うっていう前提で、今は好きなようにデザインスクール行かせてもらってるけど、それもあと一年で卒業だし」
私の髪の毛を梳(す)きながら、ブーは訥々(とつとつ)と言った。
「俺だって絵は好きだし、画商の仕事にも興味はあるんだ。だけど父さんと母さんを見てると、時々こわくなる。頭のいい人たちだから事業はうまくいってるけど、本当に絵に対して愛情があるのかなって」
どう答えればいいのかわからず、私はあたりさわりなく言った。
「でも……絵が好きだから、画商になったんじゃないの?」
「どうなのかな。俺が子どものころから、とにかくメルボルンで成功してここにずっといられるようにって、鬼気迫(ききせま)るようなところがあったよ。詳しいことは知らないけど、父さんと母さんって、許されない関係だったみたい。ふたりとも、日本には帰れないっていうのが口癖だった」
そこまで言うとブーは、腕はそのままに、遠くを見るようにして天井を向いた。
「一度だけメルボルンにばあちゃんが来たことあるって、話したことがあっただろ。俺はまだ小さかったからよくわからなかったけど、今思うと、遊びに来たんじゃなくて連れ戻そうとしたんじゃないかな。父さんとも母さんとも、なんか不穏な感じだったし」
ブーは大きく息をつく。
「俺、誰なんだろう」
間近にあるブーの表情に、見覚えがあった。出会った日以来に再び見る、深い海の底に住むさびしい魚の目だった。
ずっと、不思議に思っていた。ブーが日本に対して強い憧憬(しょうけい)の想いを持っていることは伝わってくるのに、どうして一度も行こうとしないのだろうと。
日本には帰れない。そんなご両親の言葉は、ブーにも呪のろいをかけていたのかもしれない。日本人なのに日本を知らずに育った彼は、竜宮城から出られなくなってしまったのだろう。だって彼には、日本に「帰る場所」なんてないから。
ブーの未来に私はいない。私の未来にもブーはいない。そう思うと空虚な気持ちに見舞われたけど、私はそれをあえて無視して言った。
「ブーにしか、できないことがあるよ。絶対に」
ふ、とブーが笑う。胸がかすかに振動した。
「俺にしかできないことって、なんだろ?」
こちらに向けてくる目は、もうあの魚じゃなかった。いつものブーだ。
「具体的にはわからないけど、みんなをめちゃくちゃ楽しませるようなこと。それでブーもめちゃくちゃ楽しいこと」
「いいな。ちゃんと両方が楽しめるのって。やりたいことは、いっぱいあるんだ。あれもこれも、ああして、こうしてって。でも今は、ただ自由に思い描いてるだけ」
そしてブーは、自嘲気味(じちょうぎみ)に笑った。
「でも何をするにしたって、こんなちゃらんぽらんじゃだめだよなぁ。誰も信用してくれないよ」
私は真剣に答える。本心だから。
「堂々としていればいいのよ。ブーの思いやりに満ちた誠実さを、私は知ってる」
ブーの肩が、ぴくんと震(ふる)える。そして彼は少しの間、黙った。だから私も、黙った。
しばらくするとブーは私を引き寄せ、まぶたに唇を押しあてたあとにこう言った。
「レイにね、あげたいものがあるんだ」
そう言ってブーは体を起こし、足のほうからベッドを下りた。
◇
ブーはジャックにあれこれと、どこのメーカーの絵の具なのかとか、そのタオルは何年ものの汚れなのかと話しかけていた。ジャックが苦笑しながら軽くかわすと、ブーはつまらなくなったのか、「トイレ行ってくる」と場を離れた。
ジャックはパレットの上に絵の具を溶き、あらためて私のほうへ向き直る。そして絵の具を含ませた筆を画用紙の上にのせたあと、彼はふと、動きを止めた。
何かを発見したように目を見開き、ジャックはチェストの引き出しを慌(あわ)ただしく開け始めた。そして奥のほうから、へらのような道具を取り出す。
イーゼルと向き合い再び筆を走らせるとすぐ、彼はその道具を使って勢いよく画用紙を掻いた。シャッと軽快な音が響き、ジャックは感嘆の息を漏らした。
それがどんな作業なのか私からは見えないけれど、ジャックの表情が恍惚(こうこつ)のうちに輝いたのがわかる。
そこにブーが戻ってきた。
ひょいとジャックの手元をのぞき、不思議そうに「ペインティング・ナイフ?」と言った。ジャックは絵から目を離さず、ただうなずいた。
ブーはジャックの隣の椅子に座り、足を組んだ。ジャックにあまり相手にされないからか、今度は私にばかり話しかけてくる。ちっともセンスのないギャグを言って笑わせようとするので、私は「少しは黙っててよ」とたしなめた。
あははと声に出して笑ったあと、彼は意外にもすなおに言うことを聞いて黙った。
それきりブーは私を見て、私もブーを見て、見つめ合うような格好(かっこう)になった。
*
私にあげたいもの? ブーに言われて困惑しながら、私もベッドから身を起こして彼の隣に行く。
ブーはリュックから手のひらに載るほどの小箱を取り出し、私に差し出した。
「開けてみて」
蓋(ふた)を開けると、光を受けて中のものがきらっと光った。
青い鳥のブローチ。
飛んでいるように広げた翼には、金色の縁取りがある。
「カワセミだよ」
ブーが優しく言った。
「ワライカワセミじゃなくてね、カワセミ。だからこんなに美しい青だし、 ケラケラ笑ったりもしない。きれいな声でチチチチってささやくんだ」
「あれは……」
あのケンカのことをまだ気にしているのかと、私は少し動揺した。するとブーはあわてて私の声を遮さえぎる。
「違うよ、根に持ってるとかじゃないよ。…………俺は本当は、レイにだけは、ワライカワセミじゃなくてカワセミでありたかった。おちゃらけて笑ってるばっかりじゃなくて、もっとスマートにレイに寄り添いたかった。できなかったけど。だからその気持ちだけ、贈らせて」
やっぱりブーはずるい。最後までおちゃらけててくれないなんて。
そしてそんなふうに心を打ち明けながら、彼が同時に伝えてきたのは期限終了のはっきりとした意思表明だった。
今まで私は、形に残るものはブーからもらわないようにしていた。ブーはやたらと写真を撮りたがったけど、私は一枚も欲しくなかった。あとから思い出してしみじみするなんて、まっぴらだった。
だけど、これだけは受け取ろう。そう思った。
私がたったひとつ持ち帰る玉手箱。これから先、蓋を開くときに胸を張れるように、しっかり生きていこう。
「ブーに会えてよかった」
私は言った。ブーも「俺も」とほほえむ。
これでいい。私にとってもブーにとっても。
ブーが私をふわりと抱きしめる。私も彼の胸に頭をあずけ、目を閉じた。
この体温をもう知ることはないんだなと思ったら、不意に、ぎゅうっと力いっぱいブーにしがみつきたくなった。でもこの気持ちはきっと錯覚(さっかく)だ。別れ際にセンチメンタルになっているだけだ。ただの感傷だ、絶対に、絶対に、そう。
たとえばここで私が少しでもつらそうなそぶりを見せてしまったら、すべて台無しになる。ブーがきれいに引いてくれたラインを踏み越えるのは、それこそ野暮でダサいことだった。そんな無責任なことはできない気がした。
私はブーの手に自分の手を重ね、彼の親指をそっと撫でた。今だけは、私から。
そうして私たちは、ふたりで新しい年を迎えた。
メルボルンの小さなホテルの、セブンス・ヘブンで。
◇
ジャックの手元にあるパレットには、二色の絵の具だけが絞しぼり出されていた。
赤と。
青と。
赤いブラウスに止まった青い鳥にそっと触れ、私もあらためて姿勢を整える。
ブーは私を見ている。私も同じようにブーを見た。
目と目を合わせているうち、ブーの顔から、お調子者の笑みがふっと消えた。
愛(いと)おしそうな、いつくしむようなまなざしが私に向けられてくる。
その瞬間、体のまんなかが、ぐいっともぎとられた。
目が、そらせなかった。
どうしたの、ブー。
そんな顔してないで、くだらない冗談を言ってよ。
いつもみたいに、にやにやしてよ。
なんでそんな優しい目をしてるのよ。
抗議したくなる。私はほんとうに、自分勝手だ。
どれだけの間、そうして見つめ合っていただろう。
紙に撫でられていく筆先の、静かな曲を奏(かな)でるような響き。
ペインティング・ナイフが刻(きざ)む、硬くシャープな高鳴り。
水が跳ねるちゃぷんという音。
描かれていくエスキース。
言葉もなく、ただ時間が流れていく。
ふたりであんなにいろんなことを話したのに、ただ目を合わせているだけの私たちは今までで一番饒舌(じょうぜつ)だった。
わかっていた。ブーが本当はワライカワセミじゃないことぐらい。
繊細(せんさい)な青いカワセミだってことぐらい。
期間限定を提案してきたブーの、優しさと臆おく病びようさ。
私のことも自分のことも守るための。
あと数日で、私は日本に帰る。
期限つきの関係。私たちは終わりに向かって、恋をしてきたのだ。
決まり事は守らなければならないって、おかしな義務感にかられていた。
凍るような鋭い感情が体の中心を駆け抜ける。猛烈に痛かった。
ブーともうすぐ会えなくなるなんて。
私は本当のことを言っていない。ただの一度も。
ああ、ブー。
私はブーが好きだ。すごくすごく好きだ。離れたくない。
想いがこみあげてくる。
ブー。ブー。
叫んで駆けだして、抱きついてしまいそうだった。
涙をこらえて、こらえてこらえてこらえて、私は奥歯をぎゅっと噛(か)みしめる。
ブーの頬に、涙がつつっと伝った。
――――ずるい、
私はこんなに我慢してるのに。
始まれば終わる。
わかっていたのに、好きになった人。大好きな人。本当の恋を教えてくれた人。
こわがりな私たちがお互いについていた嘘と、自分についていた嘘は同じだ。
座っていた椅子が倒れて、床で激しい音をたてた。
私が急に、立ち上がったせいで。
ねえ、ブー。
終われば始まる?
野暮ったくてもダサくても、つらくてもさびしくても、それが私たちの恋なら。
★お読みいただき、ありがとうごいました。
続きは、製品版でお楽しみください。