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【試し読み】『人魚が逃げた』第一章「恋は愚か」

続々重版で話題!今最注目の作家・青山美智子さんの最新刊『人魚が逃げた』のプロローグと第一章を公開いたします。

あらすじはこちら。

ある3月の週末、SNS上で「人魚が逃げた」という言葉がトレンド入りした。どうやら「王子」と名乗る謎の青年が銀座の街をさまよい歩き、「僕の人魚が、いなくなってしまって……逃げたんだ。この場所に」と語っているらしい。彼の不可解な言動に、人々はだんだん興味を持ち始め――。

そしてその「人魚騒動」の裏では、5人の男女が「人生の節目」を迎えていた。12歳年上の女性と交際中の元タレントの会社員、娘と買い物中の主婦、絵の蒐集にのめり込みすぎるあまり妻に離婚されたコレクター、文学賞の選考結果を待つ作家、高級クラブでママとして働くホステス。

銀座を訪れた5人を待ち受ける意外な運命とは。そして「王子」は人魚と再会できるのか。そもそも人魚はいるのか、いないのか……。


プロローグ


―――失礼ですが、あなた様は?

「王子です」

―――王子? 今日はどうしてこちらに?

「僕の人魚が、いなくなってしまって……」

―――人魚が。

「………逃げたんだ。この場所に」

  

1章 恋は愚か

 

ひとつ、願いが叶うのなら、あなたにふさわしい人間になりたい。

でもどうやって?

いったい誰が、僕に魔法をかけてくれる?

 

歩道で立ち止まった僕の脇を、オープンカーが通り過ぎて行った。

車道を走る赤いロードスター。運転席の男性はもう後ろ姿で顔が見えない。助手席にはサングラスをかけた女性がいて、ゆるい巻き髪をなびかせ、建ち並ぶビルの群れを眺めていた。

三月、最後の週末。

土曜日の銀座中央通りは、たくさんの人でごったがえしていた。オープンカーの幌を上げるにはうってつけの晴れた日で、だけど街行く人の服装はばらばらだ。春の体感温度はそれぞれなのだろう。半袖ブラウスの女の子もいれば、ダウンジャケットを着たおじさんもいる。

僕は、ジーンズのボトムに、白いボタンダウンのシャツとベージュのテーラードジャケットを合わせていた。自分なりに、多少きちんとした格好のつもりで。

メンズショップの前に設置されたスピーカーから、ガァガァと雑音が流れてきた。次いで、アナウンスの声がする。くぐもった声で、何を言っているのか聞き取れない。

「……歩行者天国となります……ガガガ……」

やっとキャッチできたのはその言葉で、僕はジーンズのポケットからスマホを取り出し、時刻を確認した。画面に表示されている数字は、11:45。

そうだ、土日や祝日の銀座は、十二時になるとこの大通りだけ歩行者天国になるのだ。その準備が始まるところらしかった。車道が規制され、乗用車もバスもまばらになって流れがスローダウンしていく。

僕は目の前にあるメンズショップの看板を見た。紺地に白抜きのレトロな文字。何の気はなしに足を踏み入れ、店先のポロシャツをちょっと広げてみたら二万三千円の値札がついていて慌てて戻す。

店内のポスターでポーズを取るモデルから察するに、ターゲット層は僕の父さんくらいだろう。それで少しだけ、安堵する。二十四歳の僕なんて、最初からお呼びでない。

もっとも、僕がその客層の年齢になったときに、二万円超えのポロシャツを買うことができるか自信はなかった。地元の量販店でしか服を買わない僕の父さんにしたって、そんなものがこの世に存在することも知らないだろう。「友治のおさがり、もらっていいか」なんて、僕が通っていた高校のジャージを着ているくらいなんだから。

僕は店を出た。車道を挟んだ向かい側に、木村屋がある。有名な老舗の、あんぱんの店だ。ここから見てもぎゅうぎゅうに客が入っていた。西洋人の男の子と女の子が、にこにこしながら店から出てきて嬉しそうに何か話している。中学生ぐらいだろうか、彼らは仲良く木村屋の紙袋を手に持っていた。

遠く離れた国からやってきて、きっと楽しみにしていたんだろうな、あんぱん。

そんなことをぼんやり考えていたら、突然、重厚な音がした。

キーンコーン、カーンコン。学校生活を思い出させるようなチャイム。

その音は、交差点の角に堂々建てられた和光ビルの時計塔から響いてきていた。

そしてそのあと、ゴォオオーン、ゴォオオオーンという鐘の音が鳴り渡り、僕はなんだかそれを数えてしまった。きっかり、十二回。

十二時だ。歩行者天国の、始まり。

大通りにはすっかり車がいなくなり、信号機が青・黄・赤と点滅している。作業服を着たおじさんたちがわらわらと現れ、テーブルと椅子を並べ始めた。この人たち、いつのまにここにいたっけ。すでに現実感が薄れかけている。テーブルの中央には広げたパラソルが突き立てられ、またたくまにそこは、歩く者たちの天国となった。

せっかくだからという気持ちになり、僕は歩道から車道に下りて、和光に向かって歩き出した。普段立ち入ってはいけないところを、そろそろ歩く。ちょっとした解放感と、ちょっとした遠慮の混じった体で。

渡り切って反対側の歩道に足を踏み入れたとたん、くしゅん、とひとつ、くしゃみが出た。天国にも花粉は飛んでくるらしい。薬、飲んできたんだけどな。そのせいで少し、ぼうっとしている。春特有の現代病をいまいましく思いながらジャケットの袖で鼻を押さえていると、見たことのある大柄な男性がすぐそばまで近づいてきた。僕は思わず、そのまま顔を隠すようにして体の向きを変えた。

男性は手にマイクを持っている。バラエティ番組に時々出ている芸人だ。

名前は、ええと、たしかロブ秋村だ。彼の後ろには、カメラと機材を抱えたスタッフがふたり、ついていた。

土曜日の昼にテレビでやっている『週末あなた様』という情報番組だとすぐわかった。略して「シュウアナ」と呼ばれている生放送のワイドショーで、視聴率も高い。冒頭で道行く人に突撃街角インタビューをするのが恒例となっている。選ばれた通行人は番組内で「あなた様」とされていた。

「春ですね! 今日は、銀座、中央通りに来ております。もうすぐ新年度ということで、新しい季節への意気込みを聞かせていただきましょう。さあ、今日はどんなあなた様がいらっしゃるでしょうか」

彼らは物色するようにきょろきょろっとあたりを見回したあと、標的を見つけたらしく、互いに目配せをした。

「どうもー!」

ロブ秋村が小走りしながら大声を張り上げる。

マイクを突きつけられたその先には、妙に目立つファッションの若い男性がいた。

ウェーブのかかった長い黒髪、彫りの深い顔立ち。豪華なフリンジのついた白い詰襟服はヨーロッパ貴族のようで、目の覚めるような青のスラックスに黒いロングブーツを合わせていた。そして何より、頭には黄金の冠を載せている。

「こんにちは! 『週末あなた様』です。ちょっとよろしいでしょうか」

王冠をきらめかせた男性は、戸惑った顔でマイクを見た。ロブ秋村が返事も待たずに訊ねる。

「失礼ですが、あなた様は?」

「王子です」

迷わずそう答えた男性に、カメラマンがこらえきれないように吹き出した。

まさに、疑いようのない王子ファッションだった。黒髪に黒い目は日本語を話していても違和感はないけれど、すっと通った鼻筋や大きな瞳を縁取る長い睫毛は、どこか異国の血も感じさせる。

自分のことを王子だと大真面目に名乗るそのそぶりが、逆におかしみを誘うのだろう。通行人からも遠慮のない笑いが起きた。ロブ秋村が「ええっ」と大げさにのけぞり、さらにマイクを掲げる。

「王子? 今日はどうしてこちらに?」

「僕の人魚が、いなくなってしまって……」

「人魚が」

ロブ秋村が、ぐわっと目を見開く。ぎょろ目がこぼれおちそうだ。

彼は―――王子は、せつなげにまぶたを伏せて続けた。

「……逃げたんだ。この場所に」

あまりにも翳りのあるその表情に、ロブ秋村は絶句したようだった。言葉が続かない。

王子は和光の時計塔を見上げ、ぽそりとつぶやいた。

「タイムリミットは……五時まで」

そしてどこか遠いところを見るようにして、ふらふらと去っていく。

ロブ秋村が気を取り直してマイクを握った。

「はいっ、今日のあなた様は、王子様でした! なんと、銀座に人魚姫が逃げちゃったみたいですね、見つかるといいですねぇ。皆さん、人魚を見つけたらご一報を!」

カメラに向かって親指を立て、ロブ秋村はウインクをした。そこでCMに入ったらしい。ほっとしたように顔をやわらげる。

ふと見上げれば、さっきまで点滅していた信号機の光が全部すっかり消えていた。

目を閉じたような三つの円を、僕は不思議な気持ちで見つめる。

まるで、リアル世界がぐっすりと眠りについたみたいだった。こんなにも明るく晴れているのに。

 

空腹を覚えていた。十二時を回ったというのに昼ごはんどころか朝ごはんも食べてきていない。

木村屋に入り、あんぱんをひとつ、購入した。中央に桜の塩漬けが埋め込まれている商品を選ぶ。ひとつだけを求めるのはためらわれたけど、まったく問題なく親切に包んでくれた。さっきの外国人みたいに、観光客が食べ歩いたりするんだろう。正直、サイズを考えると僕にとってはちょっと贅沢な値段だった。でも今日は、これくらいは自分に許そう。僕はあんぱんを手に持ったまま、和光とは逆方向に歩き出した。

あの王子は、芝居の稽古のようなことをしているのかもしれない、と僕は思う。

マイクを持つロブ秋村を見て、いろんなことがフラッシュバックした。

僕もかつて、あちら側にいたことがある。ほんのわずかの間だったけど。

カメラに向かって、とびきりの笑顔を向けて。どんなに体調が悪くても、どんなに悩んでいてもだ。

高校の頃、夏休みに原宿を歩いていたら芸能事務所からスカウトされた。タレントの仕事に興味はないですか、って。都心まで電車で一時間半ほどの郊外に住んでいる田舎者の僕は、東京への憧れも、芸能界への興味もそこそこあった。それで軽い気持ちで、すぐに面接を受けて事務所に入ったのだ。容姿をほめられるのは悪い気はしなかったし、アルバイト感覚でカタログのモデルやMVのエキストラ出演をするのは楽しかった。

大学進学で上京したのを機に少しずつ仕事が増えていって、テレビドラマの端役や深夜バラエティ番組のにぎやかしや、劇団の客演もやらせてもらえるようになった。

芸能人じゃん。

テレビ局の関係者入口の前に立ったとき、初めてそう思って興奮した。

といっても、僕に与えられたスポットなんて、ごくごく小さなものだ。ドラマ出演ではどこに出ているか自分でもわからないくらいだったし、バラエティではうまい返しがまったくできず、二回出ただけで向いていないと判断して自分から降りてしまった。

さらに、劇団員たちはとんでもない熱量で芝居に命をかけていて、ろくに基礎もできていない僕は足を引っ張るばかりだったと思う。

劇団によっては、役作りのためになかなかの無茶ぶりをしてくる主宰者もいた。河童の役を与えられ、「頭に皿を載せた衣装を着て池のほとりで一日過ごす」という指令を受けたこともある。

そしてそれによってどんな気づきを得たのか、劇団員たちに発表しなくてはならなかった。恥ずかしいし、そんなことをしても僕には河童の気持ちなんてわからないし、トイレに行くのも大変で、あれは相当、きつかった。最終公演の日、アンケート用紙に「河童さんがとっても素敵でした」と、ひとこと書いてくれたお客さんがひとりだけいて、それだけでも報われた気がして泣きそうなくらい嬉しかったけど。

さっきの王子も、おおかたそんなところに違いない。だとしたら、たいしたなりきりぶりだ。いきなりマイクを突きつけられても、あくまでも王子を貫き通していた。

あのうつろな目を思い出す。年齢は僕と同じぐらいか、少し上か。よくわからないけど、彼は役者としてこの職を誇りに思っているのだろう。

僕には、その覚悟が持てなかった。芸能の仕事は、ちょっとルックスがいいだけではとうていこなすことができないと悟ったからだ。

何があろうとビジュアルをキープし、他人からの嫉みやマウントを跳ね返し、常に周囲の評価を気にしながらたくさんのことを同時進行でいっぺんに覚えなくてはならなかった。突然の依頼や急な変更の対応に追われたかと思うと、事務所からぷつりと音沙汰がなくなったりして、それはそれで自信を失って落ち込んだ。SNSのフォロワー数も三百人がいいところで、いいねの数もごく少なかった。

片手間でいいとわりきっているなら、そんなこともあまり気にならなかったかもしれない。事務所にしたってバイト扱いぐらいの気分で僕に接していたと思う。たいしたリスクもなく、同業の可愛い女の子と仲良くなったりして、本業が学生のうちはそれでよかった。

だけど本気でやろうと思ったら、心身ともに相当タフである必要があった。一生の仕事として引き受けるにはあまりにも不確実で不安定で、何よりも自分自身にそこまでして続けられるファイトがなかった。

それで僕は、就職活動を経て小さな広告会社から内定をもらい、大学卒業と同時に芸能界からきっぱり足を洗うと決めた。

足を洗う、か。

そんな言い方をしたら、芸能界が悪い世界みたいで、それは失礼だな。

いいことだって、ちょっとはあったんだから――――。

愛しい人のことを想い、僕は少し苦笑した。

そういえば王子は人魚の話をしていたけれど、足を持たない人魚は、好ましくない世界から抜けるとき、どこを洗うのだろう? 

 

理世さん、というのが僕の恋人の名前だ。

事務所退職を決め、挨拶に行ったとき、ロビーで偶然出会ったのが最初だった。

僕とすれ違うとき、彼女はほんの少しの笑みを浮かべ、そっと会釈をしてくれた。通りがかりの誰もにそういう対応をしているのだろうけれど、その姿が上品で、思わず目で追ってしまった。

実のことを言えば、僕はそのとき、理世さんのことをスタッフさんかなと思った。出入りのスタイリストとか、ヘアメイクとか。すっきりとした面持ちのきれいな人ではあったけど、服装も態度も控え目で、他のタレントのように「私が、私が」と前に出ていくようなオーラを感じられなかったせいだ。

しかし、手袋を外したのを見たときに、きゅんと胸をつかまれた。なんて美しい手をしているのだろう。

節のない白い指は細く、それでいてやわらかそうなあたたかみがあって、動きがとてもエレガントで。

マネージャーの江古田さんに「あの人は、誰?」と率直に訊ねた。江古田さんは白髪まじりのぽつぽつした顎鬚を撫でながら「ああ、手タレの理世ちゃん」と言った。

この芸能事務所にはパーツモデル部門があった。手とか、足とか。パーツモデルなら売れっ子であっても顔が世間に知られることはほとんどないし、お互い現場に直行することが多いので、今まで何年も一緒の事務所に所属していたのに知らなかったのだ。

僕が彼女に釘付けになっていると、江古田さんが「理世ちゃん」と呼びかけてくれた。このときほど江古田さんが「いい仕事をしてくれた」と思ったことはない。彼女は静かにほほえみながら、僕たちのほうにやってきた。

「こちら、友治くん。今日で辞めちゃうけど」

江古田さんが僕をそう紹介してくれると、理世さんは「私もです」と穏やかに答えた。たまたま、この日が最後の仕事だったらしい。ということは、このチャンスを逃したら二度と会えなくなる。

僕はみっともないくらいの必死さで、あの手この手で理世さんと連絡先を交換することになんとか成功し、そのあと猛アタックをかけたのだ。女性に対して……というか、何に対しても、こんな積極的な行動に出るなんて初めてのことで、自分でもびっくりした。

出会ったあの日も、三月の終わりだった。ちょうど二年だ。しとしとと、やわらかな雨が降っていたのを覚えている。

 

理世さんが十二歳年上だということを知ったのは、僕の相次ぐお茶の誘いをやっと受けてくれた一ヵ月後で、僕はさっきのロブ秋村みたいに、ちょっとのけぞってしまった。

年上だとは思っていた。でも理世さんはもっと若く見える。肌は清らかに瑞々しく透き通っているし、話がそんなに食い違うようなこともなかったから、せいぜい五歳ぐらいの違いかなと感じていたのだ。彼女からしてみたら、僕なんてガキじゃないかという不安がまず最初によぎった。

恵比寿のホテルラウンジで向かい合ってアフタヌーンティーを共にしながら、理世さんはゆっくりと、言葉少なに僕の質問に答えてくれた。

彼女は銀座の店で接客業をしていて、手タレはたまに副業としてやっていたらしい。聞き上手で知識が豊かで、しなやかな指でティーカップを持つ所作も美しかった。

「好きです」

僕はその日のうち、理世さんにストレートに伝えた。もう、すっかり彼女にいかれてしまっていて、それ以外に言葉が見つからなかった。

理世さんはぴくっと眉を動かし、テーブルの縁に目を落としたあと「まだ会ったばかりよ」と曖昧に笑った。

「じゃあ、また会ってください」

強引に次のお茶の約束をして、二週続けて、同じ場所で会った。

三回目に「好きです」と伝えたら、彼女はややあって口を開き「ありがとう」と言った。

ありがとう、って? 

その意味をはかりかね、僕は恐る恐る訊ねた。

「OK、ってことでしょうか」

理世さんは小さく小さく小さく、うなずいた。夢みたいだった。

次のデートで勇気を出して手を繫いだとき、彼女は振り払ったりしないでそのまま僕にゆだねてくれた。それで、ああ、夢じゃない、と思った。この神々しいまでにきれいな指が、僕の手の中にあるなんて。

だけど、理世さんの住むマンションの部屋を訪れたとき、僕は言葉を失ってしまった。

オートロックの新築タワーマンション。彼女は十二階に住んでいる。モデルルームみたいにセンスのいいインテリア、ふかふかのソファ。本棚には難しそうな書物が並び、食器がブランド品であることは自分には縁がなくてもわかった。

理世さんは、年齢がどうということではなく、圧倒的に大人なのだと思い知らされた。内面的にも、社会的にも、そして経済的にも。理世さんが働く店は銀座の一等地にあって、彼女はそこで責任者を担っている。

手取り十八万円、家賃五万円の木造ボロアパートの一階に住んでいる僕。無知で、ただ感情的になってばかりで。経験も浅く、金もなく、子どもだった。

何も持っていない僕は、いくつかの噓をついた。背伸びしたくて。

「うちの会社、歩合制で、営業成績がいいとかなりポイントつくんだ」

数字はぼやかしたけど、「ノルマ達成がトップだった」とか「臨時収入が入った」とか、でたらめなことを言い、潤っているふりをして外食では必ず僕が財布を出した。ふたりで会うときの洋服や持ち物は、金持ちの友達に借りたり、メルカリで相当安くなっているものを入手したりした。あきらかに中古でくたびれているそれらを、「気に入ってるからずっと使ってる」なんて言って。

リッチを装おうとすることで、僕はますます困窮していった。貯金なんてまるでなく、日々の生活を回すのがやっとだった。

一人暮らしの自分のアパートには、理世さんを絶対に招かなかった。

「兄貴と住んでるんだ。父親が持ってるマンションに」

僕はまた噓を重ねた。本当は実家でさえ借家だし、兄貴もそこに住んでいる。

「神経質なヤツでさ。2LDKでそこそこ広いのに人を呼ぶことができなくて、まいっちゃうよ」

理世さんは特に追及してこなかった。そういうところも大人だ。

彼女の休みは週に一度だけで、しょっちゅう会えるわけではなかった。そして彼女のほうから「普段仕事で疲れているから、休みの日は家でゆっくりしたい」と言い出したので、手土産のケーキを少々奮発しても、たとえば一緒にディズニーランドに行くよりもずっと安価で済んだ。そのおかげで、ごまかしながらもつきあいを続けてこられたというところはある。

部屋にいるときの食事はだいたい、理世さんが作ってくれた。食材の代金を出すと言っても、「また今度でいいわ」と毎回受け流された。

これじゃ、ヒモだよな。噓つきのヒモ。

そう思いながらもその居心地のよさにずるずると引きずられて、僕はずっと、噓つきのまま彼女のそばにいた。

理世さんが素敵であればあるほど、同じ目線に立てないダメな自分を突き付けられてみじめな気持ちになる。ただ好きだと思うだけなら楽しいのに、相手に何かを求めたり求められたがったりする感情はどうしてこんなに醜くて苦しいのだろう。

いつまでもついていられる噓ではないとわかっている。だけど今の僕は、自分を偽ることでしか彼女を繫ぎとめておけない気がしていた。

こうやって時間を稼いでいるうちに何かの奇跡が起きて、いつか彼女にふさわしい人間になれるかもしれないなんて、あてもなく夢想しながら。

 

僕は中央通りの歩道を歩き続け、また車道を渡って反対側にたどりつく。

目当ての店が、そこにあった。僕は今日、迷いに迷って、心を決めて、ここを訪れるために銀座に来たのだ。

TIFFANY&Co.

ティファニー。言わずと知れた高級宝石店。ブランドを象徴する、明るい水色のフラッグが風にはためいている。

エントランスからふたりの女性が出てきた。親子だろう、醸し出す雰囲気がよく似ている。母親の白いワンピースがまぶしい。娘の方は、ティファニーのロゴが入った水色の紙袋を大事そうに持っていた。この裕福そうな母親に、何か買ってもらったのか。

彼女たちの華やいだ表情に、僕は少しおじけづいた。

何をひるむことがある? 僕だって、あんなふうに買い物をするだけだ。そう自分に言い聞かせてみたものの、足が動かない。

店の前の縁石に数人、若者が座り込んでスターバックスのドリンクを飲んでいる。

行儀がいいとはいえなかったが、歩行者天国なのだから、それくらいの自由は許されるのだろう。

少し離れたところに僕も腰を下ろし、手持ち無沙汰になんとなくSNSを開く。

タイムラインに現れたトレンド。トップに表示されたワードにちょっと笑ってしまった。

「#人魚が逃げた」

いつもながら、SNS民の拡散力たるや、速くて驚く。さっきの『週末あなた様』の突撃インタビューのことだ。

ハッシュタグをタッチしてみると、投稿が続々と連なっていた。

「王子やばい」

「シュウアナ、見てなかったけど銀座に人魚逃げたの?」

「5時がタイムリミットって、人魚姫だけに、泡になっちゃうんかな~。それは早く探さないとwww」

インタビューを受けている王子のテレビ画面や動画まで貼られていた。それがまた、どんどんリポストされている。

こんなわずかな時間のうちに、こんなネタにこれだけの人が反応してるのか。テレビの著作権とか個人の肖像権って、どこまでセーフなんだっけ。

『人魚姫』、か。誰もが知る、アンデルセンのおとぎ話。

ひとめぼれした王子の愛を求めて、美しい声を失い、家族を捨て、足を得た人魚姫。

愚かな恋だ。

結果的に、王子が選んだのは隣国の王女だった。でもそれも仕方ない気がする。

そもそも、人魚姫と王子は、住む世界が違ったんだから。

僕はスマホを閉じてポケットにしまい、立ち上がった。

 

ティファニーのショーウィンドウの前に立ち、そっと中をのぞきこむ。

ガラスの向こうには、豪華なネックレスが飾られていた。何の宝石なのか、僕には見当もつかない。青く輝くひときわ大粒のペンダントヘッドを際立たせるように、チェーンの部分にもさまざまな色合いのブルーストーンがデザインされていた。

値札はついていない。値段なんてないほどの、客引き用のディスプレイかもしれない。

磨き抜かれたガラスに、自分が映っている。僕は木村屋の袋を取り出し、あんぱんをかじった。

映画『ティファニーで朝食を』の真似事だった。

冒頭でオードリー・ヘップバーンがティファニーの店の前に立ち、ショーウィンドウを見つめながらパンを食べるのだ。

あのニューヨークの五番街と、この銀座中央通りは似ている気がする。ヘップバーンが食べていたのは、あんぱんじゃなくてデニッシュだったけど。

 

 

あれは先週の日曜日のことだ。

いつものように理世さんの部屋で過ごしていた昼下がり、テレビにリモコンを向けながら彼女が言った。

「なんか最近、テレビの調子が悪くて。動画コンテンツが見られなくなっちゃってるの」

「うん? ちょっと貸して」

僕はリモコンを操作しながら、いくつか確認した。

「不具合があるのはテレビじゃなくて、Wi−Fiのほうじゃないかな」

僕がそう言うと、理世さんは驚いた様子でこちらに顔を向けた。

「そうなの?」

「ちょっとやってみる」

試しにルーターの再起動をかけてみると、モニターで丸いマークがぐるぐる回ったあと、動画コンテンツのトップ画面がぱっと動き出した。

その瞬間、理世さんが両手をちっちゃくグーにして叫んだ。

「やった!」

いつも落ち着き払っている理世さんだけど、ごくごくたまに、不意打ちでこんな無邪気な仕草を見せることがある。そのギャップが、たまらなくかわいいな、といつも思う。言ったらやってもらえなくなりそうだから、口にはしないけど。彼女のそんな姿を、にやにやと見ているだけの至福。

理世さんは僕からテレビのリモコンを受け取り、画面を見ながら映画のタイトルをランダムに表示させた。そうしているうち、オードリー・ヘップバーンの映画特集に流れ着いたのだ。

『ティファニーで朝食を』のサムネイルにぱっと選択枠が合ったとき、理世さんは再生ボタンを押した。特に「これ観よう」という打診はなく、なんとなく押してしまったという感じだった。

すぐに映画は始まり、主題曲の『ムーン・リバー』がリビングに流れ出した。

「理世さん、この映画、観たことある?」

「ううん。『ローマの休日』は観たけど、そういえばこれはまだだった。友治くんは?」

「僕は両方ともまだ、これからかな」

タイトルもろくに知らなかったくせに、そんなことを口にする。まるで観る予定でいたみたいに。背伸びばかりで、足がつりそうだ。

初めて観たヘップバーンの映画、『ティファニーで朝食を』は、画像の粗さが作品を損なうことなく、むしろ上質さを演出していた。クラシックで、優美な。

一緒にそんな映画を観ていると、彼女の世界に少しだけ踏み込めたような嬉しい気持ちの裏で、やっぱり理世さんは僕がたどりつけない遠い場所にいるのだというコンプレックスを刺激された。

たとえば理世さんがこの映画の中にさりげなく登場していても違和感はないだろう。でもそこに僕はきっといない。

ヘップバーンが演ずるヒロイン、ホリーは、大好きなティファニーを何度も称賛した。夢中だとか、最高だとか、ここに来ると落ち着くとか。彼女がなかなか破天荒な主人公なのでちょっとだけ面食らったけど、それよりも何よりも、印象的だった出来事がある。

映画の後半、相手役の男性俳優とヘップバーンがティファニーでデートする場面でのことだ。きらびやかな店内で、ジュエリーたちが輝いていた。ふたりと会話をする店員さえもが上流階級の人間に見えた。

そのシーンを観て、理世さんがぽつりとつぶやいたのだ。

「……すてき」

理世さんに悟られないようにポーカーフェイスを保ったけど、それを聞いて僕は、かなり心拍数が上がっていた。

理世さんのその言葉は、誰に言うでもない、心の声だと思った。おそらく、自分がつぶやいたことを自覚していないほどの。だから僕は、聞こえなかったふりをした。

彼女が僕に何かをねだったことは一度もない。宝石なんてもちろんのことだ。誕生日やクリスマスに欲しいものがあるか訊ねても、いつも「特にないわ」と言うのだ。僕は困って、毎回、花束と一緒にさらに強火の「好きです」を重ねるしかなかった。

でもそうか、理世さんは、ティファニーが好きなんだ。

隠されていた秘密の財宝を探り当てたような気持ちで、僕は嬉しくなった。

しっかり覚えておこう。がんばってお金を貯めてプレゼントするんだ、いつかきっと。

 

しかし、事が起きたのは映画を観終わったあとだ。

夕食の食材を買うために、理世さんのマンションの近くにあるスーパーマーケットへ行った帰り道、背後から声をかけられた。

振り返って、僕は目をむいた。歌舞伎役者で、ドラマでも主役を張るような人気俳優の喜代助だった。五十歳手前だったと思うが、胸板が厚くて若々しい。

「あら、お久しぶりです」

小声で頭を下げる理世さんにほほえみかけたあと、喜代助は僕をちらっと見て言った。

「彼氏かい」

理世さんはわずかに唇の端を上げただけで、否定も肯定もしなかった。

それで僕は、ちょっとムキになって答えた。

「そうです」

すると喜代助は、ふ、と笑みを浮かべた。

なんだかバカにされたような気がして、僕は喜代助をにらんだ。でも彼はそんなことにはまったく動じず、「はじめまして」と紳士的に言った。

どう対抗すればいいのか迷う間もなく、喜代助は「じゃ」と片手を上げ、車道の端に停まっていたシルバーのメルセデスに近づいていった。運転席にはボブカットの女の人がいて、理世さんを認めると軽く会釈する。彼女にもまた、洗練されたセレブ感があった。

会釈を返したあと、理世さんが言った。

「……家が、近所なのよ。うちのお店の常連さんなの」

どこか言い訳がましくて、口ごもっている。こんな理世さんは初めて見た。

「だから?」

冷たく言い放ってしまった。こんな僕もきっと初めてだ。

理世さんは、今度はさらりと答えた。

「だから何ってわけじゃないわ。偶然会ったから、挨拶しただけよ」

喜代助はロングTシャツにチノパンというラフな恰好をしていたけれど、たぶん、そんな普段着だって僕とは比べ物にならないような高級品だろう。湧き上がってくる苛立ちを必死で押さえつけながら、僕は言った。

「あの女の人、喜代助の奥さん?」

「喜代助さんは独身よ。あの方はマネージャーさん。従妹なんですって」

「そ。詳しいな」

理世さんは数秒黙ったあと、ごくごく穏やかに無表情で言った。

「だから?」

僕は声につまってそっぽを向く。そして、あえてハハッと笑ってみせた。

「あんな人と結婚できたら、そりゃいいよね」

やっと言い返した言葉が、自分を傷つけていくのがわかる。

「………そうね」

理世さんは乾いた口調でそう言い、ゆっくりと歩き出した。

そうね?

まさか、同意されるとは思わなかった。

頭を鈍器で殴られたみたいな気分だった。理世さんのこんな淡々とした表情は、いつも僕を打ちのめす。

暗に「あなたは子どもね」と言われたんだろう。喜代助にきちんと挨拶もせず、食ってかかるような態度を見せて、おまけにゴシップ好きみたいに詮索したりして。

でもそれなら、ちゃんとそう叱ってよ。

もっと、感情をむきだして話してよ。本当の気持ちを教えてよ。

はぐらかさないで、流さないで、大人にならないで。

そうして僕たちは気まずい雰囲気でマンションに戻り、軽く食事をしたけれど、たいした会話もせずにその日のデートはお開きとなった。それきり、そのままだ。

 

理世さんに釣り合うのは、きっと、喜代助のような男だ。

大人で、金持ちで、余裕があって―――有名人で、権威を持っていて。

理世さんの周りにはきっと、あんな男がたくさんいるのだ。

あんなふうに、なりたかった。理世さんにふさわしい人間に。

僕があのまま芸能界に残って、がんばって売れっ子になっていたら、何かが違ったんだろうか。十二の年の開きがあったとしても、理世さんは僕を子ども扱いせずに男として認めてくれたんだろうか。

芸能界の入口で降参して、企業に勤めたところで出世できそうにもなく、何もかも中途半端な自分があらためて情けなかった。

精一杯背伸びしたって、理世さんの周りにいる男性たちには到底太刀打ちできない。

きっと理世さんは、僕じゃ物足りないって感じてる。外でデートしたがらなくなったのも、食材の代金を出させないのも、欲しいものを教えてくれないのも、僕には彼女を満たすようなものは買えないだろうって思ってるのかもしれない。

僕からの「好きです」の答えが「ありがとう」でしかないことも、彼女の心の距離を示しているに違いなかった。

だって、理世さんからの「私も好き」という言葉を、僕はただの一度だって受け取っていないのだ。

――――住む世界が、違う。

僕が理世さんを満足させられるほどの大人になるまでに、どれほどの時間がかかるだろう。そんなの待ってなんかいられない。急がなくちゃいけない。

こんな素敵な人、うかうかしていたら誰かに取られてしまう。その前に早く、早く僕の妻にしなければ。

せめて、約束だけすることができたら。まずは彼女の未来を縛ることができるのなら。

それで僕は決めた。

ティファニーのジュエリーを理世さんに贈るんだ。今すぐに。

あの美しい手に似合う、婚約指輪を。

 

翌日の月曜日、僕は仕事が終わってから銀座にすっ飛んでいき、閉店間際のティファニーの店内に駆け込んだ。

ここで買えるジュエリーが、いくらするのか下調べすらしなかった。勢いで行かないと、自分にストップをかけてしまいそうで。

五万円ぐらい……いや、ここは、がんばって十万円までは出すべきか。クレジットカードの分割払いで、なんとか乗り切れるはずだ。

店に入り、指輪のコーナーで店員と話しながら、ガラスケース越しに「これがいいな」と直感的にピピッときたリングを見つけた。宝石のデザインも、その輝きも、理世さんのために創られたんじゃないかと思えるくらいに。

値段は、四十八万円だった。

そんなにするんだ……。意気込んでふくらんでいた僕の気持ちは、いっぺんにぺしゃんこになった。ティファニーを甘く見ていた世間知らずな自分に萎える。

でも、じゃあ他にと探してみても、ぴんとくるものがない。リングは見る限り一番安くても二十五万円したけど、僕からしたら理世さんのあの美しい指にはいまひとつ華やかさに欠けて似つかわしくないと思ってしまった。

「……また、考えます」

僕は店員に愛想笑いを残し、重い足取りで店を後にした。 

やっぱり、しょせんうまくいかない恋なんだろうか。

他に寄るところもなく、僕はとぼとぼと駅に向かった。

夜の銀座は競うようにして建物の中も外も明るく光を放ち、ビル自体が大きな照明器具みたいに見えた。

肩を落として歩いていると、前方から、派手なおばあさんがやってきた。白髪の頭には黒い大きなフェルト帽をかぶり、細いプリーツのいっぱい入った紫色のワンピースを着ている。耳たぶにつけた金ぴかのイヤリングもバカでかい。ただ歩いているだけなのに眉間にしわが寄っていて、赤く塗った唇をつんと尖らせていた。

見るからにお金持ちそうだったけど、不機嫌な顔をしている。たくさんお金があればなんでも解決して幸せってことには、ならないのかな。

すれ違いざまに、携帯電話の着信音が聞こえた。おばあさんが眉をひそめながらハンドバッグを開く。中からスマホを取り出したそのはずみで、封筒がぽとりと落ちた。おばあさんは気が付かずに「ああ、もしもし」と話しながら歩きだし、先へ行ってしまった。

「落としましたよ」と声をかけたが、おばあさんには聞こえなかったようだ。けんけんと高圧的な物言いで、電話の相手と話し続けている。

「だから言ったでしょ、取り引きは慎重にやりなさいって。なんであんたはそんなにダメなのよ? 解雇の問題だからね、解雇の!」

こんなおっかない上司の下で、どんなミスをしたのか解雇されてしまう部下を気の毒に思いながら、僕は封筒を拾い上げた。

それは銀行の封筒だった。

ATMでお金を下ろしてそこに入れて、封をしないでそのままハンドバッグに入れたのだろう。万札の頭がほんの少し飛び出している。

あわてて顔を上げると、おばあさんの姿はなかった。角を曲がったのか、どこか店に入ったのか。

心臓が早打ちしていた。体中にどくどくと血がめぐった。かあっと熱くなってきて、封筒を持つ手が痛いほどだった。

そっとあたりをうかがってみたが、僕を見ている人は誰もいない。みんな自分のことだけで忙しそうに、せわしなく歩いている。

どうする?

銀座通り口の交差点に、レンガ造りの交番があったはずだ。

………だけど僕は。

僕は、その封筒を上着のポケットにねじこんだ。交差点に背を向けて、早足で地下鉄の出入口から階段を下り、駅のトイレの個室に飛び込む。そして封筒を取り出し、震える指で札を数えた。

ぴったり五十万円、入っていた。

願ったままの、奇跡が起きた。

今必要な額が、僕のところに舞い込んでくるなんて。

毛穴という毛穴が開いて、汗がびっしょり噴き出していた。

これは、これはもしかしたら、神様からのプレゼントじゃないのか? 

ああ、そうに違いない。幸運の女神が応援してくれているんだ、絶対に。

きっとあのおばあさんは、何かとんでもなく事業が成功しているお金持ちで、五十万円なんて彼女にとってはたいした額じゃないだろう。自分だってミスぐらいするって、教えてやったっていいんだ。

大きく息を吐き、僕はトイレの天井を眺める。

僕は狂っていた。

それは神様からのプレゼントではなく悪魔の罠なのだという、己の声を無視せずにはいられないほどに。

心の奥でわかっていながら、良心と引き換えに封筒を受け取り、僕は盗人になろうとしていた。

だってどうしても、どうしても手に入れたかったのだ。

高価な指輪を……理世さんの心を、ふたりの未来を。

 

 

「………美しい装飾品だ」

隣で声がして、はっと我に返る。

横を見ると、さっき和光の前で見かけた長髪の王子がいた。僕と並んでショーウィンドウを見つめている。

「この宝石のブルーは、彼女の瞳を思い出す……僕の城を囲む、海の青さも」

すごい、役に入り込んでいる。高貴な雰囲気は王子そのものだった。

ふと、演技の稽古につきあってやろうという気持ちが芽生え、僕は声をかけた。

「海のそばのお城に住んでいらっしゃる、王子様なんですね」

「………そう、そうだよ。僕は、何も知らなかった王子だ……」

王子は苦悩に満ちた表情で、ガラスにそっと指をあてた。

「だって僕の人魚は、何も言ってくれなかったから」

王子の寂しさが伝染する。いい役者だ。僕もしみじみと悲しくなってしまった。

「……わかります。僕の恋人も、いつもはぐらかしてばかりで、何も言ってくれない」

「それは心中察する。つらいものだな、同志よ」

王子はそっと僕にハグをした。品のいい香水の匂いがする。

こんなところで王子と共感していることが、滑稽でもあり、感動的でもあった。

僕から体を離すと、王子は再び宝石に目をやる。

「だけど……ちゃんと教えてくれたらよかったじゃないか。失うときに聞かされるなんて、こんな悲しいことがあるか」

「でもほら、人魚姫は、話せなかったから」

「話せなくたって、伝える手段はあったはずだよ」

たしかにそうだよな。声じゃなくても、字とか絵とか、身振り手振りとか。

王子は唇を震わせる。

「僕にだけは、話してほしかった……」

「だって、それは」

僕は急に、人魚姫を擁護したくなった。

人間にならなければ王子との恋は成就しないという彼女の切実な想いが、わかる気がしたからだ。

人魚姫は、王子と同じ種族でいなくてはいけないと思ったんだろう。海で助けたことを伝えなかったのだって、もしかしたら、人魚だと知られたら嫌われてしまうと不安だったのかもしれない。

月曜日に拾った、五十万円入りの封筒が上着のポケットで熱を持っている。

僕は人魚姫に心を重ねるように、おずおずと言った。

「彼女は、あなたにだから話せなかったのかもしれません。今のままの自分じゃ、あなたに好きになってもらえないと思ったんじゃないでしょうか」

すると王子は目を見開き、大きく顔を横に揺さぶった。

「どうして?」

「えっ」

どうして? 

王子の問いかけに、僕は何も答えられなかった。王子は強い口調で続ける。

「僕はあの子があの子だから愛したんだよ。それは僕が決めることなのに、自分でそんなふうに思い込むなんて勝手すぎる」

王子は瞳を潤ませ、僕を見た。

心を射抜かれるような漆黒。

それを見て僕も泣きたくなった。まるで自分に言われたようで。

――――僕が勝手に、思い込んでいた?

こんな自分じゃダメだって。好きになってはもらえないって。

それを決めるのは理世さんなのに。

「好きです」と言う僕に、「ありがとう」と答えた理世さん。

彼女に僕は物足りないんじゃないかなんて懸念しながら、実はその逆だったのかもしれない。僕が、足りないって思ってたんだ。もっともっと、彼女の「好き」が欲しくて。

でも告白を受けてくれたあのとき、彼女がどんな気持ちでそう言ったのか、本当の本当のところを、ちゃんと理解していただろうか。

芸能人がよかったのなら、事務所を辞めたばかりの僕との交際をOKしてくれなかっただろう。金持ちがいいなら、周りにいくらだっているだろう。

この二年の月日には、言葉にはしない彼女の愛情がちゃんとあったはずだ。

僕がソファで寝転んでいると、具合が良いように頭にあててくれるクッション。春先になると焚いてくれる、花粉症に効くアロマ。抱擁のとき背中で感じる指の、優しい強さ。

「好きです」

「………ありがとう」

思い出していた。あのときの理世さんの表情を。

あのとき彼女は、まっすぐに見ていた。僕のことを。

そして、自分の胸にそっと、手をあてていた。その仕草から、彼女の胸の高鳴りや喜びをどうして読み取れなかったのだろう?

足りなくなんて、なかった。僕へのあたたかなイエスを、彼女はちゃんと向けてくれていたのだ。

僕は王子に言った。

「言葉なしで相手の気持ちを理解するなんて、とても難しいことです」

王子がこちらを向く。

昼の陽を受けて王冠がきらりと光った。僕は続ける。

「でもだからこそ、目や仕草が表しているその人の想いを、見逃してはいけないのかもしれない」

うむ、と王子は低くうなずいた。

「……たしかに、僕のあの子もね、瞳で語るようなところがあった」

人魚姫との思い出をたどるかのように、王子はほほえむ。

「そうだね。都合良くわかったような気になっていないで、もっと深く彼女の心を汲む努力をするべきだった……」

穏やかにそう言うと、彼は僕のほうにすっと顔を向けた。

「君に神の祝福があらんことを」

僕も答える。

「ありがとうございます。王子、あなたにも」

王子は見惚れるほど凜とした目で僕を見つめ、静かに去って行った。

『人魚姫』の王子。

僕は、通りすがりの青年の役をちゃんと演じられただろうか。久しぶりに。

俳優業がつらい仕事にしか思えなかったあの頃と違って、なんだか満たされた気持ちでいっぱいになり、僕は王子役の彼に心からのエールを送った。

 

僕は今、自分にかけた悪い魔法を……呪縛を、解こう。

理世さんを繫ぎとめておくために必要なのは、偽りの富で得た虚勢や約束じゃない。

噓をついていたことを謝って、このままの僕を知ってもらおう。

そして僕の「大切な家族」の話も、ちゃんとしよう。

町工場で働く勤勉な両親のことを尊敬してるし、のんびり屋の兄貴のことだって僕は大好きなんだ。

 

僕は理世さんを愛しています。ただ愛しています。

それが僕が持っている「本物」だった。たったひとつで、すべての。

 

理世さんを自分のアパートに招こうと決め、僕はスマホを取り出す。

 

今夜、会えませんか。

 

ラインでメッセージを送り、僕は一呼吸してほほえむ。

そしてポケットに収めていた封筒をしっかりと握りしめ、銀座通り口の交番へと向かって走り出した。


★お読みいただき、ありがとうごいました。続きは、ぜひ書籍でお楽しみください!

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