浅草、商い、文化そして民衆
流れはあれども適応し民衆の生活による変態として表層に現れ出るものが
文化や文明ならば、商いから通してみる“それ”は併存し生きているのでなお面白い。
例えば、ビルが壊されて残る後というのは確かに建物が存在していた痕跡で
家も建築も、1人では作られることはない。
つまり、ものを通して人の足跡をみることができる。
これは、ある大陸を歩いていた探検家がまだ見ぬ生物の化石を見つけたのと同じ感覚なのではないだろうか。人工物だけでなく、構築された自然物ーマテリアルとネイチャーにも“傷が彩られる。”
人が人を呼ぶために作ったテキストも、その当時の“粋”が古びて一層のコンテクストを帯びている様が好きだ。クールだ。
商いとはいえ、誰も別に読まれたくなくて書いた人はいないし、そんなの掲げない。売りたくなくて商売やってない、でも時間は流れても存在しているものたちは当時と変わらず残っている。それが文化ってやつで文脈ではないか。歴史ではないか。
商いは搾取ではない。
故に、なぜ蓄積してきたものを壊してまであわよくばお金を落としてもらえるようなコンテンツを作ろうとするのか。
浅草というブランドを武器にしている、勘違い拝金主義野郎を僕は否定する。
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