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僕が旅をして、シャッターを押し続ける理由
福祉系会社員。旅をして、写真を撮る。
はじめまして。旅する写真家 alx999です。旅が好きで、特にアジアが好きで、写真が好き。福祉施設で働いていますが、休みを見つけては、旅をして写真を撮っています。
今は千葉県在住で、だいたい毎年1〜2回ぐらい。主にアジアを旅して、写真を撮っています。今年は2年連続になりましたが、台湾とミャンマーに行きました。ミャンマーに関しては、本当に美しい国で本当に魅了されました。その旅の写真たちは、twitterやブログ、また、このnoteで旅の写真とストーリーとともににお伝えしていこうと思います。写真を見た人が旅がしたくなるような、元気になるような、そんな写真が撮れたらいいなと思います。
このノートは、僕にとってはじめてのnote。
旅と写真にまつわることを軸に僕の生きてきた時間のこと。少しづつお話していきたいと思います。
目次
写真との出会い。
・写真を始めるきっかけは電車。そして真っ赤なカメラ(小学生〜中学生)
・高校は写真部に
・写真学生時代、初めての海外へ
・写真しかないと思って進んだ写真学校だったけれど
・写真から離れる
はじめてのひとり旅 カンボジアでの出会い
・カンボジア。僕を変えた出会い。
・最後の夜のこと
・バンコクへ 旅立ちの朝
旅をして写真が撮りたい 悲しみの中にみえたもの
・写真をやめた自分を受け入れることができなかった
・底に落ちる でもそこから忘れかけていた希望が見えた
・5年ぶりの旅 ラオスへ 全身で風を感じていた少女
・やっぱりアジアが好きだった。
写真家としてのこれから
・僕が写真を通して伝えたいこと
・自分の写真が初めてお金になった。『旅写真と僕を支えてくれた言葉たち』
・これからのこと
写真との出会い
最初のカメラは写るんです、だった
小さな頃から自転車で、隣まりまで行ったり、またその隣町まで行って、よしここまでこれた。なんていうことをしていた子供時代。一人遊びが好きだった。写真をはじめたきっかけといえば、最初は電車が好きだったからかなと思う。それで写るんですで、母親にはお金の無駄使いとか言われながらも電車を中心にバシャバシャと写真を撮っていた。ある時、小学〜年生とかいう雑誌の応募者全員プレゼントっていうのにカメラがあった。僕は意気揚々と、応募し、手に入れた真っ赤なコカコーラのカメラ。繰り返し使える使い捨てカメラみたいなシンプルなやつで、それでも嬉しくて嬉しくて。自転車でいろんなところに行ったし、いろんな電車を見に行った。次第に一眼レフが欲しくなった。
初めて一眼レフを買ったのは、中学3年の冬だった。お年玉を片手に横浜西口のビックカメラに行って、(当時の)ミノルタの入門機だったα303を買った。そりゃあもう飛び上がるほどに嬉しかった。それで、一人で静岡の大井川鉄道というところに機関車を見に行ったのが初めての一人旅かもしれない。
高校は写真部に
一眼レフを買った僕は、ただひたすら写真を撮り、高校入学後は当然のように写真部へ入部。とにかく写真を撮って現像していた。まだフィルムの時代。バイト先のマクドナルドの収入はほとんどカメラとフィルム代に費やされ、できる限り部室にこもった。ある時部室の暗室の引き伸ばし機(写真の現像装置)を買い替えるために処分するということで譲り受けたこともある。
文化祭の写真展、参加者のアンケート集計で僕が撮った猫の写真が1位になった。今思えばただそれだけのことなんですけど周りもすごいと言ってくれたのでなんだか少し勘違いしまう。笑 まあそれも結構頑張った末の賜物だったっていうのもあった。直前まで家で何度も写真を焼き付けていて、疲れ切って、なんとか出したのが、その、猫の写真だった。それでしばらくして、写真は面白い。ずっと写真をやっていたい。そう思って写真の学校にいくことを決めた。
写真学生時代、初めての海外へ
もう、写真しか見えなくなっていた。僕はいつもそうだった。なにか夢中になると、他のことは見えなくなる。写真学校に行くのは自然な流れだった。そんな写真学生時代、初めての海外は学校の研修という名目でニューヨークに行った。タイムズスクエアに高層ビル群たち、そんなのにただただ圧巻され、ちゃんと自分の意思で初めて知らない人に声をかけて写真を撮ったのは思い返せばここが初めてだったかもしれない。何枚もとるもんだから、途中でフィルムがなくなって慌てて交換する間待っててもらったり、後ろから突然話しかけてすごくびっくりされたり。スナップしていたらおばちゃんにクレイジーなの?と怒鳴られることもあった。でもアドレナリン全開で、ホント楽しかった。その旅の時に、たまたま巨匠アンリカルテブレッソンの個展をやっていて。超巨大プリントを目の当たりにした。彼の写真にも憧れを持つようになる。
写真しかないと思って進んだ写真学校だったけれど
学校に入ってから少しして、僕は一人暮らしできると啖呵を切って家を飛び出していた。親に干渉されるのがこれ以上耐えられず、内緒で部屋を探し契約した。事後報告だったのでお母さんはとてもびっくりしていた。
僕は奨学金を月々もらいながら、24時間営業のファーストフードでアルバイト。学校終わってから、バイトに行って、時間を見つけては町を歩き、写真を撮る生活。でも写真て本当にお金がかかる。印画紙、フィルム、現像するための薬品代、それにカメラ、レンズ・・・・・お金のことなんて大丈夫、そうたかをくくっていた僕はお金が立ち行かなくなると、バイト先に頼み込んで夜勤にさせてもらった。学校に行って、帰って少し仮眠をとって夜勤をして。毎日がその繰り返しで。学校に行っても、ベンチに座ってそのまま眠り込んで授業が終わっていたりしたこともあった。そうしてだんだん学校にも行かなくなり、そのままドロップアウトしていた。
写真から離れるなんていうか高校生の時は、だれよりも街に出てはスナップをして、誰よりも写真のことを考え、誰よりも暗室に入りプリントをしていた僕。ちょっと自分の中に奢っている部分があった。自分は写真に関しては一番。そのままの気持ちで、写真学校に行ってしまったから、自分より何倍もいる人なんて頑張ってる人なんてザラにいたし、僕なんかよりセンスが光る人だってうんといた。学ぼうとする姿勢が足りなかった。周りと比べて自分の写真を比べ始めたら、もうストレスでしかなくなった。バイトばかりして写真から少し距離ができてしまったのも良くなかった。あんなに好きな写真だったのに。写真で誰のためでもない、まずは自分のためにシャッターを押すべきだと思うけれど、そんなことを見失っていた。ただ卑屈になって、だんだん学校にも行かなくなり、写真も撮らなくなった。カメラを持つと吐き気しかしなかった。そうして、僕は写真から離れた。それが、19歳だった。
はじめてのひとり旅 カンボジアでの出会い
初めての一人旅。
学校に行かなくなって、自分の進むべき方向も分からなくなり、ファーストフードでのアルバイトはやめ、一度実家に帰った。時間だけはあって、なにか人のために動くことをしないと、という気持ちになった。誰かに、必要とされたかったのかもしれない。それで、たまたま募集をみた「不登校の子どもたちのためのフリースクール」にボランティアをしに行った。そこでは立ち上げたばかりで、子供達なんて一人もいなくって、大人たちの雑談会みたいな感じだった。そんな感じだったので、つまらなくてやめてしまったわけだけど。結局そこからの紹介をきっかけに(ざっくり言うと)障がいを持った子どもたちの学童保育?でアルバイトをすることにした。そして、19歳、初めて一人旅に出る。仕事は辞めずに、アルバイト先は2週間のお休みをくれた。僕が、旅に行きたいんです!そういったその言葉を受け止めてくれた理事長は年齢を重ねていくごとに筋力が低下していく筋ジストロフィーという病気があった。「僕にはできない、行きたいところに行ったらいい」、そう背中を押してくれた。その言葉に、感謝しかない。僕が行きたかったのは、カンボジアのアンコールワットだった。ベトナム戦争時代のカンボジアが舞台で、戦場カメラマン一ノ瀬泰造が主人公。『大切な人が死んでいくたびに、アンコールワットへの想いが強くなっていく』それは一ノ瀬の言葉、友人の死、不条理な出来事に直面しながらも、当時のカンボジア政権の管理管制下にあったアンコールワット、彼は国外退去になってまでも命がけで潜入し、撮影を試みている。そんな物語に惹きつけられた。アンコールワットが見たい、そんな想いで僕は旅立つのだった。
カンボジア。出会い。
カンボジア、シェムリアップへはタイのバンコクからバスで向かった。かなり遅れてまるまる1日以上かかったと思う。カンボジア国境では早速大きくぼられた。両替で桁が幾つか違ったのだ。そんな所で、大きなお金を両替しようとしたこと、受け取った金額を確認もしなかった僕が悪い。手元には、食事もままならないほどの金額しか手元になかった。次の休憩でそれに気づき、困っていると、白人のおじさんがご飯をおごってくれ、助けてくれた。横浜に行ったことがあるそうだ。ランドマークタワーの話をしたことは覚えている。
カンボジアで出会う人はみんな気さくだった。泊まったゲストハウスもとても家族的で、仲が良い。僕もそんな仲に溶け込むのも時間はかからなかった。ドライバーのワンナと、一緒にアンコールワットをめぐり、その間いろんなことを話し、お互いの国の言葉を教え合った。宿に帰ると当たり前にみんながいた。そんな中、ロンハイとロンレイという僕と同年代ぐらいの姉妹がいた。男性は英語がしゃべれるが、女性は待ったく英語はわからない。
日本語はもちろん英語だって数字も曖昧なくらいだ。そして、僕もカンボジア語がわからない。姉のロンレイはよく笑い、よくしゃべる活発な女の子だったが、妹のロンハイはどんな時だって声を出すということをしなかった。最初は失語症か何かかと思ったぐらいだ。それくらいしゃべって何かを伝えようとしない。ただシャイなだけだったのだと思う。でも仕草や表情、それに彼女の豊かな笑顔がコミニュケーションをとてもやわらかであたたかなものにしていた。僕はその彼女にとても親近感を覚えた。僕は人と付き合うの下手だし、うまく話せないし、言葉が詰まる(吃音/きつおん)だった。僕は大きなコンプレックスの塊だったのだ。
あるとき、僕が外に出ると彼女は洗濯物をしていた。そうだ、僕も洗濯物をしなければと、彼女の横に座り、洗濯を始めた。ロンハイはわたしがやっとくよ、顔の表情と手つきで言ったが、一緒にやろう、そんなことが伝わったのか、自分の、というか宿の洗濯をはじめた。僕は洗濯物をしたかったのもあるが、素敵な笑顔の彼女のことをもっと知りたかった。人に対してそんなに積極的になっている自分にも驚いたが、なんかここなら大丈夫、そんな気がしていた。僕が、習らったばかりのカンボジア語を使って話しかけてもにっこり笑顔で、うんうん、といったりしたが、ほとんどの場合にこっと笑顔で残念そうにわからないと首を振る。
そのときだった。僕は あっ、っと言う。彼女も同じように止まった。タイで買ったズボンから色が染み出ていて、バケツの水が紺色に染まっていたのだ。白いシャツも入っていたので、一緒に紺色に染まっていた。ロンハイは、あーあしょうがないなーという顔で僕のシャツを洗ってくれた。でも、落ちなかった。彼女は小さな声で、かすかに、「ソーリ~」と言った。初めて彼女の声を聞いた。彼女が悪いわけではないのだけど残念な顔だった。
言葉じゃない。その小さな一言の裏に、とてつもない大きな優しさを感じた。僕は、うまく話すことができない。でもきっと大丈夫なんじゃないか。相手を思う気持ちさえあれば大丈夫。きっと大丈夫なんだよ。そう、言葉だけがコミニュケーションじゃない。僕はその時に、腑に落ちた。
最後の夜のこと
僕らは宿のみんなとともに、屋台に麺を食べに行ったり、僕は言葉はわからなかったけど、映画も一緒に見に行った。もう1週間が経とうとしていた。まだマレージアを縦断し、シンガポールまで行かなければならなかったが、もう旅も半分がたった。ここから離れられなくなる、突然そう思い立った。宿のみんなは鍋パーティーを開いてくれ、楽しく最後の夜を過ごした。最高に楽しかった。彼女はあまり僕の目を見なかったが、人を介していろいろ話してくれた。いろんな事を聞いたし、聞かれた。黙って、僕のお皿をとったかと思うと黙って盛り付けてくれる。こちらは見ないが、優しさに溢れた少しだけ嬉しそうな横顔。
バンコクへ 旅立ちの朝
翌朝、バンコクに立つ朝。ワンナがドアを叩く。バスが来てるぞ!でも大丈夫、1時だから!そんなことを言ってドアを閉めた。彼の顔は明らかに不思議な顔をした。一応バスチケットを見て、時間を確認したら気づいた。7時だ!!!!外には宿へのピックアップバスが止まっている。もう7時を過ぎていたので、大慌てで支度をして、庭の掃除をしていたロンハイの元に駆け寄った。日本語と英語と、覚えたてのカンボジア語で、ありがとう。あなたと出会えたこと、本当に良かったと思いっきり早口でまくし立てた。彼女はただ僕をじっと見つめたまま動かなかった。その時は少しも笑わなかった。もう一度、ありがとうと言って、宿まで来ているピックアップバスに乗り込んだ。彼女は手を振ることなく、彼女は僕をただ見つめた。
その時彼女が何を思っていたのかはわからない。でも言葉なんてわからなくてもいい。きっと伝わった。
旅をして写真が撮りたい 悲しみの中にみえたもの
写真をやめた自分を受け入れることができなかった。
旅から帰って、写真をやっていない自分が受け入れられなかった。だから写真撮りもしないのにずっとカメラ持っていたし、なんでやめられないんだろう、と思っていた。 『でもやめたらいいじゃん?それが素直な気持ちなんだから』と言ってくれた人がいた。僕はそれで意識して写真から離れることができた。写真は好きだけれど、その時の僕には、必要な距離だった。そんなモヤモヤとした気持ちも少し落ち着いて、せっかくしばらく旅に出るのだから写真を撮るというより、記録用にと安いニコンのコンデジ買った。気軽に撮ろうぐらいのカメラ。でも、ベトナムで旅を始めて三日目でカメラを盗まれた。ニャチャンのビーチで、気持ちよく昼寝をしていた。カバンを枕にして。その枕からそーっとチャックを開け、中のカメラを撮ろうとしていた。一度は一緒にいた宿で知り合った日本人が気付いてくれたけど、また二度目も来た。それでやられてしまった。きっと盗む側だけじゃなく、僕にも問題があった。笑 まあまだ写真は撮るなってことだったのかな、今思えば。それから僕はホテルの住み込みの仕事で日光や北海道、草津、静岡にもいった。カメラを持ったり、持たなかったりしたりして、アルバイトしては旅をして。そんな生活を続けていた。
底に落ちる でもそこから忘れかけていた希望が見えた
25歳になった。旅はしたかったけど、彼女もできて、お金もある方じゃなかったし、働かなきゃと思っていたところ声をかけてくれた派遣のアルバイト先があった。そこで正社員になることにした。数年会社員生活をした。飲食店だった。僕が正社員になって少ししてからだった。店長がばっくれた。その翌日から経験も十分でないのにお店に社員は僕一人になった。何も見えていなかったけど、任されている、そう思って頑張る事にした。やりがいはあった。だからもう必死だった。仕込みも終わらないから早く行かないとならないし、閉店後にかたずけ、次の日の準備、そんなことをしていたら帰れないことも多かった。一人だったから、一人隠れてお店に泊まったり、能力をはるかにこえる以上のことをこなさなければならないと感じていた。ミスも多かった。結局はボロボロになった。休みの日に人と会う約束をしていたとしても、その時間まで布団からでれなくて、電話がかかってきて、また今度に・・なんていうことも一度じゃなかった。起きている時間もずっと虚ろで、もう限界だった。やめよう。そうして僕はしばらくして、その会社を退職した。また少しの間アルバイト生活に戻たけれど、障害児の施設でで働く経験もあったし、福祉の仕事に転職をする事になる。そのとき、付き合っていた彼女にはプロポーズをした。結婚前提だった。それで職場は彼女の実家近くの町でもあった。そこに引っ越して、一緒に暮らしだして、楽しく働いていた。でも大事件が起きる。結婚式の話を進めようという時、そのことで確かにすれ違いはあった、結婚のことでケンカもした。それでも僕は結婚したかった。そんな心配な思いが言葉にのったのかもしれない。『親に結婚すること話していい?』起き抜けの朝、僕は彼女に言った。『ちょっと待ってくれる?わたし、少し実家に帰る』その日帰ると、彼女は共通の銀行のカードと暗証番号を書いた置き手紙を置いて、出て行ったきり、帰って来なかった。全てが真っ暗になって、もう涙しか出てこなかった。もう本当にダメだ、そんなことを思う一方で、結婚するなら旅ももうできないのかななんて内心思っていたところもあった。どうせ振られたんだったら旅をしよう。カメラも持って。そんな風に思えたんだ。
5年ぶりの旅 ラオスへ 全身で風を感じていた少女
そうして、夏休みに5年ぶりに出た海外がラオスだった。やっぱりアジアがいいというのは絶対条件としてあって、どこがいいか考えた時に、のんびりとしている、ラオスに行こう。そう思った。二度目のラオス。でも、期待を裏切らなかった。バンコクからバスでラオスのパクセーに行って、シーパンドンという、メコン川に浮かぶ『4千の島』という意味の場所に行ったんだ。
その、シーパンドンで、夕日がみれるという。チャーターしなければならないらしいが、少なくとも僕の泊まっていたバンガローには他に誰もいなかった。仕方ないのでお金を払って一人ボートを貸し切って夕日を見に行くことにした。そうしたら女の子と男の子が乗ってきた。二人とも本当に自然体で、弟君は船頭に乗ってペットボトルへとおしっこをしていた。僕は笑う。彼は踊りながらそおしっこを続ける。本当にマイペース。なんて開放的な立ちション。ふと川になぜそのまましなかったのかと思った。実は彼はよく考えていて、環境に配慮しての行動だったのか。もう彼にしかわからない。
弟が僕のカバンからスケッチブックを見つけ、勝手にそのスケッチブックを取り出した。お姉さんはダメでしょ、そんなことしちゃと言っているのが言葉がわからなくてもわかる。でも僕はそのスケッチブックと鉛筆を二人に差し出した。お姉さんは、絵を描くのが好ききだという。弟は変わらずにマイペースに過ごしていたが、お姉さんは、いいの?って目をして一瞬躊躇したが、僕の反応を見て絵を描きだした。そして、その描いた絵を風になびかせ、全身で、風を感じていた。ただただ感動的なシーンでしかなかった。旅が好きだ。そう思わずにはいられなかったその5年ぶりの旅の瞬間。そうして僕は会社員として働きながらも、毎年旅に出るようになった。
やっぱりアジアが好きだった。
また旅を始めるようになって、いろんなところに行った。でもやっぱり自分の中でたどり着いた答えは、アジアが好きだということ。アジアで写真を撮る自分が、すごくしっくり来る。そして、2017年にはミャンマーに行った。なんか、それがすごく良かった。ヤンゴンからマンダレー、バガンと旅をしてヤンゴンへと戻って来る旅だった。そのとき実はミャンマー二回目だった。初めての時は10年くらい前で、タイから陸路で入国、チャイントンというところまでいったのだけど、タイ語も少しは通じたし、通貨はタイバーツの方が好まれた。文化的にも地域的にもタイよりの場所だった。でも、初めてのミャンマーの夜、僕は高熱に倒れ、ベッドに寝たきり。たまたま一緒に旅をしていた韓国人に本当に助けられた。そうはいっても、かなりの高熱だったため、ほとんど覚えてない。(その後バンコクで入院した・・・)僕としては、その2017年が実質はじめてのミャンマーへの旅だと思うことにした。
ミャンマーの何が良かったって、まだまだこれからというか素朴な感じ。人を撮れば、ミャンマー式サンクリーム「タナカ」が彼ら彼女たちの頬に金色の輝きを与え、美しい。それに、人は親切心溢れている。そんな輝きの人たちは、美しさも優しさも兼ね備えていた。パゴダの美しさも特筆師べきだろうか、町をを歩き、パゴダが見えてくると、一度止まり手を合わせ頭をさげる人もいた。それは若い人であってもだ。パゴダは物資的な美しさだけではないのだ。アジアに行き慣れているはずの僕も、その黄金に輝くミャンマーの魅力にとりつかれたのだ。そうしてまた僕は2018年もミャンマー行きの飛行機へと乗ることになったのだ。
写真家としてのこれから
僕が写真を通して伝えたいこと
僕の作品は、いわゆる旅写真。でもそれで終わらせたくないし、美し世界を伝えるための何かでありたい。僕はまだ10代の頃、僕の人生なんて終わっていると思っていた。人とうまく関わることもできなかったし、コンプレックスの塊でしかないと思っていた。そんな自分が恥ずかしかった。ほんとうに、世界から逃げていた。でもそんな僕が、映画の影響でアンコールワットを見たいと憧れ、旅に出た。それが初めての海外一人旅だった。外の世界にも衝撃をたくさん受けたけれど、自分自身の変化にもすごく驚いた。なんていうか、肩の力が抜けて、ただその瞬間を楽しもうという気持ちが芽生えていたというか。僕なんて、そうやってずっと卑屈に生きてきた僕は本当に驚きに満ちたことだった。
自分の写真が初めてお金になった。『旅写真と僕を支えてくれた言葉たち』
はじまりは、ブログをはじめたことだった。人生2回目のブログ開設だった。はじめてのブログは、旅ばかりしていた時にはじめたものだったが、長くは続かなかった。ブログ塾にいったのがきっかけだったのだけど、自分が好きなように、そこで旅の話をするようになった。名刺も作り、いろんな人と会うようになった。その名刺の裏には、僕の旅の写真と、僕のことを支え続けてくれた言葉を乗せた。それは10種類あって、もらった人がすぐに気づき、驚き、いいね、と話題にしてくれた。携帯で写真を撮って、待ち受けにしてますとか、いってくれる人がいて、ささやかだけど、人のためになっている、そんな実感を小さいながらも持つことができた。そうして、僕はポストカードを製作するようになった。そのポストカードはほんとうに少しだけれど、ネットやとある東京の横丁の朝市なんかで売ったり、飲食店で置かせてもらって、販売をした。そうしたら、応援したい人にあげたいからと買ってくれる人もいた。ポストカードを置かせてくれた代官山のそのお店では、写真家としてのささやかなパーティーまでできた。自分のためにお金を出してくれる人がいた、それは驚きでもあったけれど、大きな自信につながった。あれからもう3年が過ぎた。今ではもう積極的な販売はしていないけれど、また何か形にできたらいいなと思っている。
これからのこと
これから、旅をして写真を撮って行くと思うし、そうしていきたい。そして、それにまつわる文章を書いていきたい。10代の頃の僕は「人生なんて終わっている」 そう思っていた。でも僕は旅に出たことで変わった、写真を撮ることで救われた。そうやって、世界が美しさに溢れていることを知った。カメラを持っていることで、人とのコミニュケーションが生まれ、広い世界とつながれることも知った。世界では、日々いろんなことが起こっている。そして僕の一番身近な世界も。毎日変わっていく。無常。常ではない。その、旅先の世界の人たちにとっては普通のことでも、旅人から見たら、美しいかけがえのない一瞬だったりする。そんな瞬間にレンズを向けていきたい。
いま、強く惹かれるのはミャンマー。素 朴で、パゴダたちは美しく、人も優しい。そんな一方で、特定の民族への迫害、そんなことがニュースを駆け巡ることが正直信 じられない。僕は平和を祈る。一人一人が、幸せに生きることを切に願う。僕は、ジャーナリストにも政治家にもなれないかも しれない。でも、写真家として旅をして、普通の瞬間でも、世界の人たちにとっては驚きに満ちた美しい瞬間を知ってもらうこと はできる。そうやってできるだけ多くの場所に、何度も、何度も旅をして、尊い命が、普通の瞬間が生きている、そんなことを伝えるためにシャッターを押し続ける。そうして僕は写真と、旅と、そしてこの世界に、恩返しをしていきたい。
それが、僕が旅をしてシャッターを押し続ける理由だからだ。
写真と旅。僕と出会ってくれて、ありがとう。
最後のまとめ
写真との出会い。
・写真を始めるきっかけは電車。そして真っ赤なカメラ(小学生〜中学生)
・高校は写真部に
・写真学生時代、初めての海外へ
・写真しかないと思って進んだ写真学校だったけれど
・写真から離れる
はじめてのひとり旅 カンボジアでの出会い
・カンボジア。僕を変えた出会い。
・最後の夜のこと
・バンコクへ 旅立ちの朝
・写真をやめた自分を受け入れることができなかった
・底に落ちる でもそこから忘れかけていた希望が見えた
旅をして写真が撮りたい 悲しみの中にみえたもの
・5年ぶりの旅 ラオスへ 全身で風を感じていた少女
・やっぱりアジアが好きだった。
写真家としてのこれから
・僕が写真を通して伝えたいこと
・自分の写真が初めてお金になった 『旅写真と僕を支えてくれた言葉たち』
・これからのこと
最後までお読みいただきありがとうございました!
今日も明日も、素敵な1日になりますように。
素晴らしい人生の旅を!
Have a nice trip!